高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。


○昭和は遠くなりにけり

 さすがに「昭和100年」は引っぱり過ぎでは? 間に平成の30年余も入ってたし、じゃあ「大正100年(2011年)」の時はどーしてたんだと言いたくなりますが。
 でも、気持ちは分からなくもない。平成生まれにゃちょいと通じぬこの感慨、昭和のケツの方に生まれ育ったあっしなんかの中にも、1988年(厳密には89年の最初の1週間)までの昭和の記憶が残り香のように漂っております。ああ、あの頃が懐かしい・・。

 この6月、そんな昭和のスターの訃報が相次いで報じられました。ガッツ石松さん、中村玉緒さん。ガッツ石松さんはボクシングから俳優業、中村玉緒さんは女優から出発して後年はバラエティーにも進出し、ともにテレビで昭和後半から平成半ばにかけて活躍した。
 って言っても、御二方の昭和年間の活躍についてはあんまり知らないんですけどね。テレビでよく見てたのは、タレントとして出演してた90年代頃のお姿。いち面識もない芸能人ながら、毎週のようにどこかのテレビ番組でお見かけしてその言動・振る舞いに接していたから、御二人が亡くなったニュースには少なからず寂しい気持ちが忍び寄る。

 そしてまた一人、6月上旬に亡くなられた著名人が。こちらは政治の世界で、自民党の一時代の顔となったこともある政界の領袖の一人、河野洋平(こうのようへい)さん。6月8日没、享年89歳。
 長年与党にある自民党にあって総裁・副総理にまで昇りながら、ついに総理大臣にはなれなかったということでやや押し出しが弱いものの。昭和後半から平成半ばにかけての自民党政治の一方の主役として、確かな足跡を残した政治家でした。


○河野洋平(1937~2026年)略伝

 神奈川県を牙城とする政治家・河野一郎の次男として生まれる。1967年の衆院選で初当選。76年、ロッキード事件などを巡り自民党の「金権腐敗体質」を批判して離党し、結成した「新自由クラブ」で代表を務めた。
 83年に古巣自民と連立政権を樹立し、85年に中曽根康弘内閣の科学技術庁長官として初入閣。86年に新自由クラブは解党し自民党に復党した。

 宮沢喜一内閣で官房長官を務めていた93年、先の戦争の従軍慰安婦問題に関して「河野談話」を発表、その強制性について踏み込んだ表現から保守派の反発を招いた。
 非自民8党派連立の細川護熙内閣が立って自民党が下野するタイミングで党総裁に就任、94年に発足した自民・社会・新党さきがけの連立による村山富市内閣で副総理兼外相を引き受ける。

 95年の党総裁選への出馬を断念、自民は与党に復して橋本龍太郎首相が誕生した。河野は2003年に衆議院議長に就任、09年まで長期にわたり務めた。08年に衆院選への不出馬を表明、09年に政界引退。
 政界を引退した後もそれまでの経験と人脈を活かして政界のご意見番となり、併せて日中関係の改善と強化に力を注いでいた。

 では、一つ一つの項目をもうちょっと詳しく。


○一度は離脱するも、窮地に陥った自民党を2度救った男

 父の河野一郎は自民党重鎮で有力な首相候補であったが、65年に急逝。その後を承けて洋平は政界入りし67年に衆院選神奈川区で初当選した。
 1974年まで首相を務めた田中角栄は、オイルショック・狂乱物価への対応と金脈政治への批判が続いて退陣。76年、ロッキード事件を巡る受託収賄容疑で逮捕された。自民党内に激震が走り、各派閥の動揺と党内再編が進む。

 そんな中、「自民党のプリンス」と呼ばれていた河野洋平は「金権打破」を掲げて突如離党し、新自由クラブを旗揚げして代表となる。「新党ブーム」の先駆けとも言われる果敢な動きだった。
 対する自民党は、ロッキード事件が尾を引いて83年の衆院総選挙で田中が推す中曽根陣営が敗戦。そこに新自由クラブが連立入りしてなんとか劣勢を脱した。中曽根内閣で河野は初入閣するが、しかし新自由クラブの党勢は衰えており、そのまま自民党に呑み込まれて解党。河野も自民に復党し「宏池会(こうちかい)」派に所属した。

 そして92年、河野は宮沢喜一内閣で官房長官に就任。河野は宮沢を政治の師と仰ぎ、自民離党や新党旗揚げ、自民との連立と新自由クラブ解党など、その後の政治家人生の中でも大きな節目ごとに宮沢に相談していた。
 そんな恩師の政権づくりに河野は協力、再び窮地に立たされていた自民党と宮沢内閣の運営に奔走した。時は90年代始め。相次ぐ汚職事件とバブル崩壊により高まる政治刷新の気運に、既存政党からの離脱者と新党結成の波が起きて政界は大きく揺れていた。

 非自民8党派連立の細川護熙内閣に政権を奪取されて自民党は野党に転落、大ピンチに陥った時に宮沢の後を受けて自民総裁となったのが河野洋平。結党以来初めての「野党自民党」代表として難局に臨み、党勢回復と政権奪還を目指した。
 その為に長らく仇敵だった社会党と提携し、羽田孜内閣退陣後に自民・社会に新党さきがけを交えた3党連立による村山富市内閣の樹立に成功する。社会党委員長の村山が総理、自民党総裁の河野が副総理兼外相を担当する社会党首班内閣だった。55年体制からの因縁の相手とまさかの協力関係を築き、「なんでもありの野合」と非難されながらも自民は政権与党に復帰した。


○護憲と戦争反対への強い思い、「河野談話」と「村山談話」

 その前後に発表されたのが、93年宮沢内閣官房長官時代の「河野談話」と95年村山内閣副総理兼外相時代の「村山談話」。ともに大日本帝国の戦争責任と旧日本軍のアジア諸地域への加害・強要の罪に踏み込んで言及しており、戦後半世紀を迎えていた当時として画期となる表明であった。
 河野談話では旧日本軍による従軍慰安婦の徴用問題について「心からおわびと反省の気持ちを申し上げる」と、その「広義の強制性」を初めて公に認め謝罪と反省の弁を述べた。また村山談話では首相自ら旧日本国の戦争責任への直視とアジア各地での加害に対する償いの思いが表されたが、この談話の公表にも河野は連立政権のナンバー2として関わっていた。

 戦争責任への追及と加害の罪の自覚・表明は社会党系としては党是であったが、自民党内からは自虐的・感傷的だとして批判の声が上がった。まぁ、保守党においてはいつものことですが。
 その声を押し退けて発表された2つの談話は、政治家人生で戦争反対を掲げてきた河野洋平の信念にも沿うものであった。河野は核兵器廃絶の取り組みにも積極的に関与。その根底には、「平和外交の意味を深く考えるようになった」前半生の生身の戦争体験があった。


◇日経新聞 2026.6.12(金)朝刊
 1面コラム欄「春秋」より

 河野洋平さんの原体験にあったのは戦禍である。戦時中、神奈川・小田原付近の村に疎開したが、そこにも米軍機は飛来した。バリバリと機銃掃射が襲う。川に飛び込み、橋の下で体を縮めた。終戦の日の前夜には小田原の街が空襲で燃え上がるのを目の当たりにした。
▼1年生議員として戦後訪れたサイパンの惨状をしばしば語っている。おびただしい数の日本兵の遺体が朽ちるままになっていた。敵を迎え撃とうと構えた体勢で白骨化した亡骸(なきがら)に、強烈な衝撃を受ける。「あの光景を見て、なお戦争という選択肢を考えることのできる人間はいないと、私は思う」(著書『日本外交への直言』)。
▼自民党ハト派の支柱だった河野さんが亡くなった。単に「領土を返せ」と叫ぶだけで返ってくることなどあり得ない。そんな信念で対話を重んじた。期待されながら首相の座を射止められなかったことを含め、政治家人生は順風ではなかったかもしれない。小選挙区制を導入したことも「政治が劣化した」と自らを責めた。
▼それでも戦争を肌で知る古参議員が姿を消すなか、この国が再び道を踏み外さないようにと最後まで声を上げ続けた。アジアの将来と大局を見据えよ。政治家は差別をあおるべきではない。慢心せず権力の行使は抑制的に⋯。その訴えは、ハトもタカも抱き込んで懐が深かったかつての自民党政治の遺言のようにも響く。

 (引用終わり)



○バブル崩壊と金融パニックの狭間、政策金利1%の壁の突破

 さて近頃、日本銀行が設定する政策金利が31年ぶりに1%まで引き上げられましたね。31年前ってぇと、ちょうど村山内閣の1995年。90年代半ばの当時はバブル崩壊に続く大手証券会社破綻などの金融パニックの前夜で、今から振り返れば、長~く続く日本のデフレ経済の入り口でありました。
 大きな痛手を負い停滞し始めた経済への窮余策に、日銀は政策金利の引き下げを敢行。バブル期にインフレ抑制の為に高まっていた金利は一気に低下し、その後も終わらない経済停滞によりゼロ金利、マイナス金利の状態が長く続いて参りました。

 00年代にちょっと回復しかけたと思ったら、今度はリーマン・ショックから始まる世界同時不況の波をかぶって再び利下げ。それでも2010年代後半の景気回復によりようやく見直しが進み、昨今の物価上昇・インフレ圧力と国際的な金利上昇の影響で、このほど政策金利は1%の大台に乗り「金利のある世界」への復帰が実現しました。
 それでも、利上げには預貯金などに良い影響を与える面と、家計・企業会計を圧迫する面とがあって判断が難しいらしいですが。暖まりかけた景気を冷やすとも言われます。だけど金融経済史の観点からは、大きな分岐点となる決定だと思われます。設定してる主体は日銀だけど、その判断に気をもむ政府という構図は今も昔も変わらず。重要な決定に際しては日銀首脳部と政権担当者が会合を開いて話し合うのもしばしばで、ともに政策金利1%の突破を巡って世間が喧騒した31年前と現在の状況とを並べて比べてみたくもなりますね。上下の矢印の向きは逆ですが。


○小選挙区比例代表並立制導入への後悔と、現在の議員定数削減案

 こちらも現在の政治上のトピックで、衆議院議員の定数を巡って1割を削減する案が自民党と日本維新の会の連立政権から出されています。そもそも今、急いで削減する必要性・必然性があるのか? その実現可能性は?など、あれこれと議論が噴き出ております。
 自民・維新案の骨子は「比例代表選出枠の45名前後の削減」。この改正案を今国会に提出する見込みだと言うが、野党からの反発は必至。言い出しっぺの維新は意欲を見せるも、最初は乗り気だった自民も最近は気運が冷め気味。飽きたのか? でも現政権の国会内の威勢を考えると法案を出したらすんなり通っちゃいそうで、それはそれでその前に熟議が不可欠。

 そこで、なぜ「衆院議員数削減/比例代表枠削減」が問題かと言うと、民意を反映させるはずの議員数をそんなに減らして大丈夫なのか?という疑念に起因します。
 国会議員の数が減れば、そのぶん国民の多様なニーズや意見が国会の議論の場に上がらなくなる。衆議院は国民の意向を、その中でも比例代表制は少数派の政党や人々の細かなニーズを掬い上げるのに適する機関・制度である。それを大幅に削っちゃったら、むしろ国民にとって不利益にしかならないのでは?

 議員が多いとそれだけ給与や手当てなどで金がかかる、議員数が減れば国費の節減にはなるだろう。ただ、それより大きな不利益を国政の現場にもたらす懸念があり、この案にはもっと慎重な議論が欠かせない。少なくとも性急に決定されるべき案件ではないだろう。
 それと並行して、選挙制度・選挙区制度の改編も取り沙汰されている。現在の小選挙区制からかつての中選挙区制への移行が主で、こちらはまた違ったテーマだけど、課題も多くてまだまだ道半ば。でもそのうちに改められるかもしれない、良し悪しの判断は難しいから試行錯誤しながらの改変になるか。

 その、現行の衆議院議員総選挙で採用されている「小選挙区比例代表並立制」が導入されたのが32年前の細川護熙内閣、これには自民総裁の河野洋平も大きく関与していた。
 1994年の非自民連立の細川首相と河野との会談で小選挙区比例代表並立制の採用が合意に達し、96年の衆院選で実施された。当時の時代の要請からこれを受け容れた河野は、しかしのちにこの改正は、「ポピュリズム(大衆迎合)」の助長を招くもので失敗だったと後悔していたという。選挙制度の再改革の必要を訴えていた。

 まず小選挙区制度。1つの選挙区から1名のみを選出する仕組みで、選挙区の縮小により選挙費用が抑えられ、候補者の主張が地元の有権者に届きやすくなる利点がある。反対に、1人勝ち抜けのため他の候補者に投じられた票が死票となり、その分の有権者の意見が反映されなくなるという欠点がある。
 また小選挙区制は大政党や勢いに乗る新興政党に有利で、選挙での大勝や政権交代による二大政党制を促すものと考えられている。反面、小規模政党に不利で、これまた小政党に託した民意が失われるという欠点が。

 この小選挙区制の欠点を補うのが比例代表制度。選挙ブロック内での政党ごとの得票率によって議席を配分する仕組みで、小選挙区で敗れた候補者が復活当選するなど各政党間の議席の不均衡を是正する働きがある。
 でもこれにも欠点があり、政党の政策が中心となり地元候補者個人の顔が見えにくくなること。また国民の幅広い意見が反映されやすいがゆえに中小政党の乱立を招き、多党化の分散状態に陥りやすいことが挙げられる。現在の政党の「一強多弱」化にも通じるのが小選挙区比例代表並立制の難点。

 この選挙制度は94年に中選挙区制から移行、96年から実施。一方の衆議院議員定数は、人口増加が進んでいた昭和年間には増えていたが、人口減と経費節減の進展で平成に入って少しずつ減少。2017年に現行の465議席(小選挙区289/比例代表176)となる。
 今回の削減案は比例代表枠のみ45名前後を削るもので、今や一強の自民党に有利過ぎる改変だと野党は猛反発。権勢が集中して政策は進めやすくはなれど、大小様々な国民の意見・ニーズを掬い取る公器の数を、ゴッソリ削っちゃって果たして良いものか? それには現在の議員定数の多寡=国民人口に対して議員数が多いのか少ないのか、選挙制度・選挙区制の是非は、などの検証も合わせてもっと広く議論が必要だろう。いち国民にとっても重大事のはず。


○「野党自民党総裁」と「首相になれなかった自民総裁」、衆院議長とバランスの取れた国会運営

 河野洋平さんの政治家としての軌跡は、まぁ順風満帆ではない。自民党総裁となり副総理も務めながら、ついに総理大臣の座に就くことはなかった。
 自民党結党から55年体制下で、初めての野党転落と首相不輩出。今でこそ平成中期の民主党への政権交代の例があるから珍しいとも思わないけど、当時としては驚天動地の政界再編の真っ只中にあった90年代。

 社会党との連立も電撃的で、党勢の回復と政権獲得のためとはいえ、自民党の立て直しのために色々な方面に気兼ねしながらの党運営は困難を極めただろう。自身の政治理念や主義主張もだいぶ抑えざるを得ない状況が続いたと思う。
 そう考えると、政治家・河野洋平の本領が遺憾なく発揮されたのは、その後の衆院議長時代とも考えられる。ちょっと病気をしたけど無事復帰し、2003年に衆議院議長に就任。この時の自民は今ほど強くなく、07年の参院選では民主党が大勝し、衆参で第一党が異なる「ねじれ」状態となる。衆院議長だった河野は衆参の正副議長と協議し、民主党員や他の党の代表ともよく話し合いを重ねて円滑な国会運営を図った。

 自民党が保守タカ派色を強める中でもバランスある政治スタンスを保ち、筋金入りのハト派、リベラル、護憲、平和外交の推進者として自民だけでなく政界全体の中で重きをなした。
 政党間の色々な意見を取りまとめて各派の言い分を聞き、対立する相手とも向き合いながら対話を通じて妥結点を探る。本来ならこれが民主主義政治の本懐だけど、そこに至る面倒臭さを嫌って独善に陥る政治家が増えているような気がする。


○日中対話の模索とアジア善隣外交

 この議長時代、日本と中国の間の貿易促進をはかる取り組みの代表に就任。2006年からは毎年のように訪中し、両国の関係改善と交流促進に携わってきた。病身を押して今年も、団体の6月21日からの訪中に同行する意欲を見せていた。今回の訪中では習近平指導部との接触の機会も模索し、病床にありながら日程を気にしていたという。
 日中関係は現在、昨年後半の高市首相の台湾有事発言から悪化したまま。関係筋からは高望みはせずとも、河野の訪中により険悪な雰囲気が少しでも改善されるのでは、と淡い期待も寄せられていた。中国との外交パイプがどんどん細っていく政官界・財界にあって、対等かつ公平で融和的な日中関係を取り持とうとした河野の死は大きな喪失か。

 河野は村山内閣時の他に小渕・森内閣でも外相を歴任し、米・中・韓の要人やアジア諸国にも人脈を築き気脈を通じていた。ここでも対話を重視し、お互いの主張を投げかけながらも同時に相手の意見を傾聴する真摯な姿勢を志向した。政界引退後もこの取り組みは続けていく。
 河野は軍備拡張にも否定的だったようだから、それとは逆行する現在の安全保障環境と国防・外交政策をどう見ていたか? 昨年亡くなられた村山富市さんとともに、昭和後半から平成半ばにかけての政界激動期の主役、かつバランス感覚に優れた穏健的な政治家がまた一人逝く。


○漫画に描かれる父・河野一郎と吉田派との仁義なき政治闘争

 最後についでに、河野一郎と昭和中期の政争の話なんぞを。
 河野洋平の父の一郎もまた、自民総裁・首相の座に近づきながらも果たせなかった実力者でありました。その勇姿は、大和田秀樹の政治漫画で拝むことができます。・・戯画化してる上に主人公たちの敵役なんで、「ガラの悪い筋モンの巨兵」みたいに描かれてますが・・・。

◇『疾風の勇人』大和田秀樹

◇『角栄に花束を』〃
 河野一郎(1898~1965年)。戦前の立憲政友会、戦中の翼賛政治会を経て戦後は日本自由党・自由民主党など自民党系畑を歩む。鳩山派に属し、吉田茂政権と吉田派出身の池田勇人・佐藤栄作・田中角栄らとバチバチの政争を繰り広げる。
 バリバリの武闘派ではあった模様。他方、海千山千の政治家らしく、鳩山一郎・岸信介と通じながらも旧吉田派の議員とも一時共闘し、1950~60年代の政局をリードしていく。鳩山・岸・池田・佐藤内閣で要職に就き、第3次池田内閣~第1次佐藤内閣では副総理まで務めた。1964年に池田首相の後継を決める総裁選で佐藤と争って敗れ、首相の有力候補の一人と目されながらも翌65年に急死した。

 父の死去により商社員だった息子の洋平が急遽立てられ神奈川区から無所属で出馬、政治の世界へと踏み入っていく。
 『角栄に花束を』の進度は今のところ池田内閣の中盤(62年頃?)だから、河野一郎の最後の見せ場はもうちょっと先。それでも『疾風の勇人』『角栄に花束を』を通じて河野一郎、強烈な印象を残すキャラとしてちょいちょい出てきますね。

 両作の主人公がともに自民党員だから、昭和中期の自民党の内幕がコケティッシュに深掘りされている。暗躍、裏切り、闇取引、なんでも御座れ!
 のちに洋平の政治の師となる宮沢喜一、初当選~自民離党・新党結成の前後の自民総裁・総理大臣の佐藤・三木武夫・福田赳夫、何より新自由クラブ旗揚げのきっかけとなった田中角栄も登場! 縁遠くなりがちな昭和の政治と世相について、現代人が学ぶ格好の入門書となっております~。

 あっ、「金権打破」ってのも今日に引き継がれた大きな課題だ。
 『疾風の勇人』『角栄に花束を』は政界でも話題になってるらしいけど、河野洋平さんはどう見ていらしたのかしらん? お父上の描写がちょっとアレですけど。もうちょっと先で、自分も漫画に登場するかもしれなかったが・・。