高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。


○大河ドラマ『光る君へ』

◇2024年 NHK大河ドラマ

 つい先日フィナーレを迎えた『べらぼう』ではなく、いよいよ2週間後に始まる『豊臣兄弟!』でもなく、去年の大河ドラマ『光る君へ』を取り上げるでおじゃる~! そういえば同番組、NHK-Eテレ『おじゃる丸』とも熱くコラボしてたの。まったり平安絵巻でおじゃ。おじゃおじゃ。
 『べらぼう』は生き馬の目を抜くお江戸の出版業界、『豊臣兄弟!』は戦国の乱世、また他の大河作品でも幕末・戦乱など血なま臭い時代を描いてせわしなくなるんですが。その間を縫ってたま~に、『光る君へ』みたいに穏やかな時間が流れる作品を1年間通して見続けるってェのも乙なもの。

 そんな『光る君へ』でも平安時代の未開性や死の気配、また貴族社会の執拗な権力闘争を描いて、完全に平穏なものとはいきませんでしたが。
 それでも穏やかに流れる時間、雅びな宮中行事、目の前の一日を大切にする平安人の暮らしぶりなどが垣間見えて、ゆったりと鑑賞できました。

 その穏やか要素を醸し出してた要の一人が、主人公まひろ(=紫式部)の父親でうだつの上がらない下級貴族の藤原為時(ふじわらのためとき)。演じるは岸谷五朗さん。
 岸谷さんといえば、現代ドラマで強面の刑事の役もこなすなど磐石のベテラン俳優ですが。『光る君へ』では、学識は高いながらもどこか世馴れしてなくて官職にありつけない、鷹揚な貴族男性を好演。物語後半では働き詰めの主人公にとっての温かな心の郷里となっていました。

◇公式人物録:藤原為時/
 岸谷五朗インタビューページ

○おっと、「歴検日本史のお題を解く」ってェ建前があったんだった

 と、いうわけで。2025年歴検日本史1級の出題から、2つの問題を取り出して一つのテーマにしてみましょう。

【記述式一問一答】
 松原客院 ・・やや易

【80字論述式】
 律令制における国司・郡司の任命形式と任期の違い、時代が下っての両者の役割の変化 ・・普通

 なんでコレが一つのテーマになるかと言うと、ヒントは岸谷五朗さんです・・。(←謎が謎を呼ぶ迷ヒント)
 それは追い追い分かるとして、まずは一つ一つ見ていきましょう。


○松原客院(まつばらきゃくいん/or 客館 きゃっかん)

 渤海(ぼっかい)からの使節を迎えるため越前国敦賀(現福井県敦賀市)に設けられた、古代の応接施設。若狭湾の敦賀には日本三大松原の一つに数えられる「気比の松原(けひのまつばら)」があり、その景勝地に迎賓館を構えた。
 その前に、まず渤海国の説明を。渤海は中国東北部~朝鮮半島北部に栄えた中規模の国で、698年に興り長く存続したが、926年に契丹(きったん)により滅ぼされた。

 渤海は同時代に隣接した唐・新羅と対立し、連帯を求めて日本と交誼を結ぼうとした。日本の側でもしばしば新羅と対立したこともあり、新羅への牽制と交易の益のため親しく通交する。
 約200年の間に渤海使は34回来日、毛皮や朝鮮人参をもたらした。日本側からは13回遣使し、絹や綿などを贈与する。かなり頻繁にやり取りしていた。

 渤海使は越前松原客院のほか、おとなり能登国の能登客院、都と大宰府に置かれた「鴻臚館(こうろかん)=迎賓館」に通されて外交儀礼と交易、情報交換などを行った。
 だが渤海が滅び、9世紀後半から10世紀前半にかけて中国大陸・朝鮮半島の各国情勢が揺れ動き勢力図が塗り換わると、日本の海外との交渉・通交は縮小していく。それに伴い渤海使を迎えるための施設である松原客院・能登客院の役割は失われ、次第に荒廃していった。

 もともと眺望は良くて建物も立派だったんだろうけど、外海から来る来客を迎えるのに特化した立地と施設。維持費用もばかにならなかったろうし、たぶん西暦1000年前後には中途半端な遺構として扱われてたか。(松原客院の正確な所在地は今なお分かっていない。)
 ここ、後でもう一度出てくるので覚えといて下さい。


○古代律令制下での地方行政組織の国司と郡司、平安時代に入って変容する両者の職掌と権限

 古代の地方行政区画としては「国・郡・里」、のち「国・郡・郷(ごう)」が基本単位となる。
 国司は中央の貴族が任命されて地方に下り、任期は最初は6年だったがのち4年となった。郡司はかつての国造などの在地豪族から選ばれ、世襲も認められる終身官で任期なし。

 国司は中央から派遣されて一国内の総合的な行政に当たり、その官衙(役所)である国府には諸機能が集積して一国の政治・経済・文化・交通の中心となった。
 一方の郡司は地元の豪族が選任され、税などの徴収や労役の催促、文書の作成などに当たった。役所地は郡家(ぐうけ)と呼ばれ、国府の管轄のもと独自の裁量で郡単位の行政を遂行することができた。

 と、ここまでは飛鳥時代~平安時代前期までの話。10世紀初頭までには律令制・公地公民制が大きく動揺し、農民の税逃れや逃亡の増加、有力者による荘園開発の拡大などの要因から、それまでのやり方では地方行政が立ち行かなくなっていく。
 そこで荘園整理令や班田収授の励行などの応急措置が図られたが、もはや地方衰退の変化は止めようがなく。そこで方針を大胆に転換し、国司の権限を強化して一国の統治を丸ごと委ねる国司請負制を採用した。それが10世紀中の事。

 具体的には国司に税の徴収と中央への納入を行わせ、その代わりに任国での国司権限の強化を許す。国司(機関)と国衙(こくが=役所)の権限は拡大し、相対的にそれまで地方行政を直接的に行っていた郡司・郡家の機能は後退していくことになる。
 人民に直かに接しての徴税・使役と文書作成、それら郡家の中心的機能は次第に国司・国衙に吸収され、郡司・郡家は単なる国衙の下請け組織へと降格していく。また、郡司だった在地豪族は国司の中級・下級官吏として国府に入り、行政事務を担うようになる。国司・国衙が下部の郡司・郡家の役割を吸収して肥大化した構図だ。

 国司・国衙への権限集中は、更なる変化を平安の貴族社会にもたらすことになる。
 任国に赴任した国司のうち最上席者を「受領(ずりょう)」と呼び、この受領の力と権益が特に増大していく。ちなみに、律令官制では国司という機関の内でも等級があり、上位者から順に「守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)」の四等官で表す。長官が守で次官が介。

 平安中期から登場する受領は国司の政務官のうち実質的な最上席者、たいていは守(国守/こくしゅ)だけど、例外で介が最高位の場合もある。
 この受領、国司の徴税請負人としての権限強化によって、奈良時代頃までよりも大きな影響力と利権を持つようになる。身分は貴族の六位階のうち五位ほどと低かったが、税の徴収や税率決定権などを一手に担ったことで蓄財が可能となり、かなり大きな経済力を獲得できた。

 そうなると、受領になりたがる中下級貴族が増えることに。青雲の志に燃えてとか地方の民草の現状を憂えて、とかもあったろうけど、ただただ蓄財のためだけに国守職を求める者が群がった。
 そこで大事になるのが、その職を割り当てる公卿会議の行方。上級貴族の合議により叙位(じょい=位階の授与)と除目(じもく=官職の任命)が行われ、地位・役職を希望する者は自他推薦書を提出してアピールに努めた。

 より利益が大きい任国の受領職なんて奪い合いになるんだけど、あくまで決定・任免権は上級貴族にあり、皇族の意向が反映する場合もしばしば。任官志願者は自己アピールにいそしむとともに、決定権を持つ上層部の者にこっそり贈与や寄進を行うことで便宜を図って貰おうとした。政治献金でしょうか? いいえ、誰でも。収支報告書に未記載? みんなコッソリやってるよ!
 それには経済力が必要で、受領となって蓄えた富をそうした賄賂として贈り、再び受領職(同じ国だったり、他の国だったり)にありつく。そのサイクルを構築できた者には中下級貴族ながら更なる栄達の道が開け、寄進を受けた上級貴族や皇族にも富と権力が集中した。

 この受領職を巡っての富の循環と権力の集中が、平安時代の貴族社会構造の基調をなしている。あとは、天皇の外戚の座を占めての藤原氏摂関政治とか、上皇の発言力が強まった院政とかの要素。
 その摂関政治~院政期の権力構造でも受領任免権は重要な働きをなし、受領からの経済的奉仕は摂関家・院の主要な政治基盤となっていく。

 だから「成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)・遙任(ようにん)」なんて、国司の任官争いに関してのワードが日本史で注目されたりする。システムも慣例化し、国司職を巡る除目の鞘当ては貴族社会で普通の光景となっていった。
 遙任では国守に任命された貴族が本人は任国に赴かず、代わりに目代(もくだい)を派遣して徴税・統治を任せる。留守所(るすどころ)という機関が国衙を指揮し、そこに属する現地豪族が国司の一員として通常の政務を執り行った。

 それで、莫大な利権が絡むということで。中には清廉実直な為政者も居ただろうけど、平安中期からの受領の多くはどんどんガメツクなっていった。4年の任期中にもう、やりたい放題になる強欲者も。
 とにかく在任中に民から搾り取れるだけ搾り取って、やるだけやったら都に帰っていく。それで重任して舞い戻ってくるか、そ知らぬ顔で他の国の受領となり似たようなことを繰り返すか。

 そうした非道な国司の横暴は、時に領民から訴え出られることもあった。988年に中央に提出された「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらのげ)」では、尾張国守・藤原元命(もとなが)の非法な行いが訴えられた。
 朝廷はこれを取り上げ、元命の国守職を解任する。それでどんな厳罰が下ったかというと、特にナシ。やがてほとぼりが冷めた頃、元命は他の官職に就きそのままキャリアを継続している。

 利権絡みの訴訟ゆえ、「まあまあ、そんなに事を荒立てずともよいではありませんか」、みたいな既得権益側の横槍が入ったのかもしれない。その頃には一部の受領の強欲は周知の事実となっており、そこから上がってくる利得を享受する貴族層にも、自分たちの懐を肥やす仕組みをあえて糾弾してことさらに追及する気はなかったか。
 ちなみに、大河『光る君へ』でもこの事件はチョロっと描かれていましたね。公卿会議・陣定(じんのさだめ)で尾張国からの訴状が議題に上がるんだけど、大方はスルー。藤原道長(柄本佑さん)だけが問題視して動き、とりあえずは処分が下るが。貴族たちの間には「民草の訴えなんてイチイチ取り上げてどうする」、「オイオイ、おいしい収入源を潰すような真似をするんじゃないよ」、みたいな冷めた空気が漂っていました。

◇美術展ナビ 2024年記事


○さて、歴検の論述問題に一瞬だけ戻りまして

 お題が要求したのは「国司・郡司の任命の在り方と任期の違い、両者の関係は時代が進むにつれどうなっていったか」。あと、「(国司の最上席者=)受領」と文章中の「郡家」のワードを入れて80字以内でまとめよと。てんこ盛りじゃあッ!
 なので「国司は中央の貴族が任命されて赴任し/任期は4年」、「郡司は地方豪族が出仕した/(世襲制の)終身官」、「次第に受領の権限が拡大し、国府(/国衙)が郡家の機能を吸収していった(/郡家の役割は縮小していった)」みたいなことを書いて字数内に収めたい。もうこれでほぼ80字に達しちゃうしね。

 国司は「中央貴族が任命され」「任期4年」、郡司は「現地の豪族から選ばれ」「(世襲制で)任期なし」、「受領」の「権限が強まり」、反対に「郡家」の「機能は縮小した」、これで部分点になりそうな8要素。
 あとは、それぞれのワードと説明の組み合わせが合っているか、これらをうまく並べて文章を組み立てられるか、が採点基準かな? 知らんけど。


○再び『光る君へ』

 さて、今まで見てきた「松原客院」と「国司・郡司の在り方と職掌の変遷」ですが。
 一見ほとんど関係なさそうなこの2事項を、結び付ける奇跡の存在がいた! 大河『光る君へ』で岸谷五朗さんが演じた、主人公まひろの父・藤原為時であるッ!!

 と、その前に、その藤原為時の基本情報を押さえておきましょう。と言っても、紫式部の父親ということで有名ではあるものの、為時単体ではちょっとマイナーな歴史人物ですが。ホントにまひろ(紫式部)が娘で良かったのぅ・・。
 藤原為時は学識豊かな教養人、中国典籍をひもとき漢文・漢詩を読みこなす中々の学者。とくれば仕官の道もありそうなものだが、どうにも官職に恵まれず。藤原氏の末席には連なるものの傍流も傍流、先祖に有名な歌人も居たが、政治の中枢に参画した名家とは距離がある低い身分に甘んじていた。文官の仕事に就いていた時期もあったが、そこそこ長い不遇の時を過ごす。

 『光る君へ』の為時も、真面目な学者気質で仕官を熱望するものの、先述の国司/受領の席を巡る激しい椅子取りゲームからは終始弾かれてばかり。世辞に疎くて世渡りベタの、おっとりした人物として描かれている。手当てもロクにない下級貴族なのに無官だから、一家は常に貧乏だったけれど。
 だがそこがイイッ! 不器用で堅物、なかなか仕事を得られず娘ともぎくしゃくするなど、欠点もちょこちょこ見られる人物ながら。どこか呑気で為時なりに家族には優しく、岸谷五朗さんのマイホームパパオーラも相まって『光る君へ』後半の清涼剤のようになっていた。(わたくし的に)

 物語中盤ではその学識と清廉な人柄を買われ、花山天皇の教育係・相談役なる大層なお役目を拝命する。ただ、この時期の二転三転する政局においてある勢力に与すると、政変が起こった時にそれに巻き込まれる可能性も出てくる。為時も近侍した天皇が失脚し、職を解かれてまた無官に逆戻り。
 そこを何としたものか、『光る君へ』ではまひろと道長の浅からぬ絆から、再び要職に就くチャンスが巡ってくる。紫式部が中宮彰子の側仕えとなるのはもうちょい先の話だから、これは為時の学識・経歴を買われての抜擢だったのだろう。

 996年、越前国司(守)を命じられ同国に赴任した。これぞ受領の任、夢にまで見た出世の糸口! ドラマではまひろや供の者も帯同し、喜び勇んでの越前行きであったが。その前途には様々な困難が待ち受けていて・・。
 というのが、『光る君へ』中盤のちょっとしたターニングポイント。まひろも越前国で人との出会いがあり、また都にいる思い人との別離の期間であることも物語のスパイスになっていました。それとは別の男性貴族のプロポーズを受け、それに応じることにハワワワワ・・。


○越前国守・藤原為時と中国からの来航者

 で、ともすると不器用な学者タイプの為時が、熾烈な競争をかい潜って越前守に任ぜられた理由として。先々の紫式部の女房・文筆家としての大活躍、娘の七光りはまだ先の話。
 それとは別に、為時の漢詩文の教養が活用された可能性はあります。と言うのも、為時が赴任する越前国やお隣の若狭国ではその前年、中国・宋からの船が来航して商人と乗組員が居座っているという問題が持ち上がっていたからでした。ドラマでは若狭湾に船が漂着したことになってたんでしたっけ?

 越前といえば松原客院、しかし996年では渤海や唐は既になく、新興の宋との通交・交易は西国の大宰府や都などわずかな拠点に限られ行われていた。なので松原客院は半ば閉鎖され、たまに来航者があっても都や大宰府に送られるか、本国に丁重に送還されるか。いったん帰って出直して下さいと。
 だが995年の来航者一団は付近に居座り、越前・若狭の地域に乱暴を働くなど扱いに困る事態が起こっていた。下手に追討すると宋との外交問題に発展しかねない。ドラマでも越前政庁で対応に苦慮し、かつての迎接館で使途のなくなっていた松原客院に一行をとりあえず逗留させ一時的な身柄預所としながら、都にも連絡して善後策を練ることに。

 だけど困ったわ、外国使節が来航してた百年前ならいざ知らず、今は中国語・朝鮮語を話せる通訳がいない。大人しく滞在させるにも帰国を促すにしても、まず宋人と話し合いができる人物が必要だわ。
 そんな切実なニーズがあったもんで、簡単になら中国語も話せる為時に白羽の矢が立った、んじゃないかなと考えられている。いずれにしろ異例の抜擢ではあったが、史実として為時は996年に越前国に向かいます。・・あんまり上手く事態を収められなかったみたいだけど。

 相手の言葉が大体分かってこちらからも少し話せるのは交渉の第一歩ではありますが、その先にも異文化交流の難関は待ち構えています。宋人が、越前国で交易を行わせろ、都のお偉いさんと直接やり取りさせろ、と無茶を言い出せば為時の一存では対処できず、一国の国守の手に余る。
 この時の宋人は頑固に粘ってなかなか思うようには交渉が運ばなかったのでしょう、スッキリした解決に至らないまま有耶無耶で事は終わったらしい。その後の宋人一行は他の地に移り、しばらくの間は朝廷の懸案事項のままいずこかに去っていった。

◇福井県「若狭湾観光連盟」公式
〖 大河『光る君へ』5月26日から越前編 「松原客館」登場、敦賀に光 〗(2024年)
◇中日新聞 2024年記事
〖 幻の松原客館に光 大河『光る君へ』越前編で登場へ 〗



○受領といえど中間管理職

 厄介な滞在者への対応はうまくいかなかったけど、それは為時でなく他の者であってもそうなっただろうなと思われます。いち地方官の裁量で対処できる案件ではないと。国際問題も絡んでくるし。
 しかしそれとは別に、越前国守となった為時を待ち受けていた、人間関係・職場関係の難題が。着任した越前国府の役人たちとの関係が、思いのほか険悪になるという。地方赴任者には悪夢のパターンである。

 おさらいすると、1000年前後の国司は一国内の統治権を集約した大きな機関。その国司の内側でも色々あるんですよぅ。長官である守、実際に本人が赴任してくれば受領が組織のトップであるが、次官以下の実務官吏は在地豪族が世襲制で担うことが多かった。こっちは終身官。
 中央から期間限定で赴任してくる受領と、その土地で長らく政務に携わってきた中下級役人。もちろん受領の方が役職は上なんだけど、地元の内情を知る実務担当者の力も無視できないものがあった。

 受領の指図と国府の役人たちの意見がおおよそ合致していれば良し。だが、もし指図が横暴だったり地元の実情に合わないものだったら、役人たちの反感を買って強い抗議やサボタージュを食らうかもしれない。
 受領と役人の間には職場の上司・部下という関係の他に、中央からの出向者と地元の有力者という、利害が必ずしも一致しない微妙な間柄があった。

 現代の省庁の大臣と実務官僚という関係にも似てますな。有能であったり人徳があったり、現場を尊重してくれる長官だと、次官以下もその指揮によく従って組織全体の雰囲気も良好になる。
 一方、この反対の資質を持った長官がトップに立ったなら、現場が離反・対抗して雰囲気がギスギスし、場合によっては中央への訴えや解職請求まで起こされるかもしれない。中間管理職はツラいよ。

 ああ、『光る君へ』為時もそんな目に遇ってましたなぁ。着任当初は盛大にもてなされて、「現場のことは我々にお任せくだされば、」ってやんわり釘を刺されるんだけど。
 岸谷為時は清廉で変に生真面目なもんだから、「いやいや、拝命したからには長としてこの国を良くしていこう」と張り切ってしまい。越前には越前の長く続いてきた政治の取り決めや暗黙の了解があり、それが合理的ではなくとも組織の慣習というものがある。

 為時の積極的な勤務意欲に反して、現地役人たちは浮かぬ顔。そのうちに執務の輔佐を怠るようになり、一人で膨大な仕事を処理せざるを得なくなった為時は、あまりの忙しさから腰を壊してしまう・・。
 だんだんと、為時が国府の既存のしきたりや権益を強引に変更しようとしている訳ではないと伝わっていき、最終的には和解して国司の任を全うしましたが。任期終了後に再任は叶わず、再び無官の憂き目に。やはり組織で大事なのは人間関係とコンセンサス(意見一致)!

 権能が増大していく受領といえど、現場の支持なくしてその職務を遂行することは難しかったということで。人間関係、大事。
 この時代に受領としてやっていくには上昇志向と健全な蓄財欲、権力者に取り入る才覚、人をうまく使う能力、上下関係の間を泳ぐバランス感覚、諸方面への根回し、それらを気苦労とも思わないある種の図太さが求められた。岸谷為時には、ちょっと荷が重かったような気も・・。

 ちなみに為時、越前守の任期を終えて帰京し、またしばらく無官でのんびり(?)逼塞してたりしてましたが。そののち再び国司、今度は越後守として赴任し、70歳近くのけっこう高齢まで生きました。
 ドラマでは嫡男を失って悲嘆にも暮れますが、娘のまひろが藤式部として道長と中宮彰子に仕え、藤原摂関政治の絶頂期の一員として大いに活躍しました。何より、日本文学の最高峰たる『源氏物語』を世に送り出す紫式部、彼女の栄誉を目にしての穏やかな晩年だったでしょう。


○過去放送ではありますが・・



◇北陸スペシャル✕大河ドラマ『光る君へ』越前紀行(2024年放送)
【番組内容】・・

 平安の息吹に触れる親子旅! 大河ドラマの舞台は紫式部親子が1年あまりの時を過ごすことになった大国・越前へ。そこで式部と父・藤原為時を演じる吉高由里子さんと岸谷五朗さんが福井県越前市を巡る旅に出た。
 為時が赴任することになった「越前国府」の発掘現場を訪れ、平安貴族が愛したグルメを再現した御膳料理を堪能。そして1000年以上の伝統を持つ和紙の紙すきも体験。式部親子の面影をたどる、越前の奥深い魅力がたっぷり詰まった旅をお届けする。

 (引用終わり)


 アラアラ、こんな父娘旅がありましたか。
 おや、ドラマでも越前編で映ってた海とか砂浜、もしかして「気比の松原」だったのかな? かつて松原客館があったという(所在地は諸説あり)。この松原は岸谷五朗さんも撮影の時に歩いてて、お気に入りの場所だそうです。

 越前の歴史的特産品の一つが和紙。1500年前から作られ、紙の需要・使用量が高まるとともに越前和紙は様々な階層で広く用いられた。
 朝廷で公用する事務用品に記録簿、貴族の普段使いの書き物に。それこそ『源氏物語』などの物語類に、贈答・贈歌の言葉の台紙として。丈夫で美しく、品質・種類・量ともに一級品の越前紙は古代から現在に至るまで、日本文化の伴走者として長く活躍してきた。

 越前は都に近く、そこそこ大きな国で必需品の名産もあったし、近隣に若狭湾・能登半島という日本海側海運の中継点があったことから交通の要地でもあった。中央の貴族からも人気の赴任地だったかも。
 『光る君へ』では為時のキャリアが一段上がる一歩となったし、その間にまひろが異国への憧れを深めたり、初婚を迎えたりと色々ありました。しかしまさか、大河ドラマの物語中に「松原客院」「国司のお仕事」がクロスオーバーするポイントがあろうとは。恐るべし、NHK・・。


○きょーくんきょーくん、

 歴検日本史対策に、大河ドラマを欠かさずチェックしましょう!
 ・・・・・・。
 一年通しで放送してて、何話分あると思っとんじゃあ・・。

 でも、いきなりの「松原客院」の出題、去年放送『光る君へ』で客院(客館)と敦賀が一躍脚光を浴びたからだと思うんですよね~。『光る君へ』にまつわる知識だけで、25年歴検日本史1級で15点くらい獲れるぞぃ。
 それを思うと国司・受領に関する論述題も、ズバリ『光る君へ』が描いていた平安時代中期の貴族の憧れの職務であるし。ちょうどその頃ですよ、古代の律令制地方統治から受領国司請負制への転換が完了したのは。

 だけど、本記事の内容のほとんどはドラマをただ見てただけじゃ掴めない深度で、関連書籍まで調べ上げての成果です。
 するってェと何かい、そこまで大河ドラマを深掘りして、毎週欠かさずチェックしておけよ、と? どんだけ大河に肩入れするんだ、歴史能力検定協会・・・。

 ちなみに『光る君へ』越前編は物語中盤、第20話「望みの先に」で任官が決定し、21話「旅立ち」で文字通り越前に出立。22話「越前の出会い」で先に松原客館に立ち寄り宋人と面会、そののち国府に向かいます。
 大河って長丁場だから、たまにBS局でやってるけどそれ以外では再放送をあまり見かけないもの。一期一会を大切に、今見ているドラマを思いっ切り楽しみ尽くしたい。・・イヤ、問題として出されるのはまた別の話ですが・・・。

【内容紹介】・・

 敦賀の松原客館に立ち寄ったまひろと為時は、宋人の朱(浩歌)、通事の三国(安井順平)らに迎えられる。浜辺に出かけたまひろは、そこで佇む周明(松下洸平)と出会う。その夜、国守を歓迎する宴が行われ、まひろは皆と楽しいひと時を過ごす。翌日、越前国府に到着し、大野(徳井優)、源光雅(玉置孝匡)に出迎えられるが、為時は早々に激務で体調を崩してしまう。医師として現れたのは⋯

 (引用終わり)



○参考図書


◇NHK大河ドラマ・ガイド
▽巻末付録「ドラマの背景が分かる! 平安しつもん箱」
[回答者:倉本一宏(平安時代研究/『光る君へ』時代考証担当)]

▼「質問1.平安時代の日本と中国はどんな関係だったのですか?」(p.167)・・

 ドラマ『光る君へ』は越前編に入ります。主人公・まひろは、越前守に任じられた父・藤原為時に従って越前国(福井県)に向かいます。この頃、越前には宋から来た商人たちが滞在していました。(中略)
 朝廷は宋との貿易を大宰府の管轄とし、博多湾に限って貿易が行われました。宋の商人は九州沿岸まで来航していましたが、日本海沿岸に来ることはありませんでした。

 越前には、かつて中国東北部にあった北方民族の国・渤海からの使節が定期的に訪れ、使節を迎えるための施設として「松原客館」が置かれていました。しかし渤海が10世紀前半に滅亡したあとは使われていません。
 為時が対面した宋の商人たちは、初めから越前を目指したのではなく、漂着したのだと思います。かれらは交易を求めますが、朝廷としては、中国の産品が大宰府を通さず、直接国内に入ってくることは避けたいと思ったのでしょう。
 彼らにそれを納得させ、速やかに帰国させることが為時の重要な任務だったかもしれません。しかし、藤原行成(ゆきなり)が記した日記『権記(ごんき)』の記述によると、宋の商人たちは越前にとどまって、隣国・若狭の国守に暴力行為を働いたり、一条天皇の后・定子に物品を送り、代金が支払われていないことを朝廷に訴えたりしています。為時は、朝廷の期待に応えることはできなかったようです。


▼「質問2.為時のような中級貴族の人事はどうやって決められていた?」(p.168)・・

 越前守への任官を希望する為時の「申文(もうしぶみ)」は、朝廷に提出する、いわば自己PRの書状です。
 (中略)
 人事は貴族社会の主要な関心事の一つ。特に注目された「除目(じもく)」は、年2回、春と秋に宮中で行われる、官職に就く者を決定する政務でした。正月に行われる「県召(あがためしの)除目」では、受領(国守)などの地方官が任命されます。
 (中略)
 受領としての任期を無事に終えると、今度は「受領功過定(こうかさだめ)」と呼ばれる厳しい査定があります。ここで実績が認められれば、任期を重ねたり他国の受領になることができますが、認められなければ、官職を失うこともあったのです。


▼「質問3.国守と国府の役人はどんな関係だったのですか?」(p.168)・・

 ドラマでは、越前守として着任した為時が、国府の役人から賄賂を渡されたり、嫌がらせを受ける場面があります。京から下向した受領(国守)と地元の役人たちは、どんな関係だったのでしょう。
 各国の国府では、受領の下に、「介(すけ)」「掾(じょう)」などと呼ばれる役人がいて政務に当たりました。「介」は次官を意味します。介や掾は、奈良時代には朝廷から派遣されていましたが、この時代は現地の豪族が務めるのが一般的でした。受領の任期は4年ですから、介や掾は4年ごとに前任者を送り出し、新しい上司を迎えることになります。現代の官公庁や、企業の地方支社にもありそうな光景です。

 受領は自由に税率を決める権限を持ち、国内で徴収した税のうち、一定数を朝廷に納めれば、残りは懐に入れることもできました。しかし介や掾は地元の人間ですから、受領とは利害が一致しません。
 介や掾が、高い税率に抗議して、地元農民などと組んで朝廷に訴え出ることもあり、時には紛争の末に受領が解任されることもありました。逆に、受領が彼らをうまく使い、朝廷に任期延長を働きかけてもらうこともありました。受領にとって、地元の役人たちとの関係を良好に保つことは、必要不可欠だったと言えるでしょう。

 (引用終わり)