高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。


○強者が書いたシナリオに従わない、ヤバい奴ら

 幕末維新期、新政府軍と旧幕府軍が新日本の覇権を賭けて激突した戊辰(ぼしん)戦争。1868年初の鳥羽伏見の戦いに始まり、翌年半ばの箱館五稜郭の戦いで終結したこの内戦は、その後の明治政府と日本近代の形を決定づける大きな転機であった。
 薩摩・長州を中心とする新政府軍は錦の御旗を掲げて官軍となり、最新式の銃・大砲を装備した圧倒的な戦力で東征。対する旧幕府軍は、総大将たる徳川慶喜が早々に戦意を喪失し、開戦時の兵数では上回っていたものの旧式装備での苦戦や足並みの乱れなどもあってじりじりと後退、東へ東へと追いやられた。

 将軍慶喜は恭順の意を示し、68年4月に幕府の象徴たる江戸城を明け渡す。これに従わない徹底抗戦派は各地で新政府軍を迎え撃ちながら、徐々に北上し東北・北陸に集結する。
 陸奥・出羽・北陸の有志諸藩は奥羽越列藩同盟を結成、北日本を舞台に広域で激闘を展開した。しかし勢いを増す新政府軍に押しまくられ、防衛ラインを次々に突破されてなす術なく陥落していく。最後に蝦夷地に渡り、五稜郭に立て籠った者たちが降参したことで戊辰戦争は終わりを迎えた。

 新VS旧、新時代の旗手と旧時代の残党、新式と旧式、新興と旧態。官軍と賊軍、勢いと決死、物量と欠乏、大義と意地。
 時代の要請は新政府軍の方に傾き、初戦の鳥羽伏見の戦いでの敗退からこっち、旧幕府側は常時劣勢にあって後退を繰り返した。奥羽越列藩同盟は団結と組織的な連携で強固な抵抗を示したものの、東北北陸戦争に突入する頃には日本の大半を傘下に収めていた新政府の勢いを止めることはできず。幕府権威の復活と藩体制の維持を目指して必死の戦いに臨むが、力の勾配はいよいよ相手側に傾き、旧幕府軍は各地であえなく散っていった・・。

 と、大方はこのような「猛進する新政府軍VS蹴散らされる旧幕府軍」という図式になってるんですが。局地的に見ると、会津藩のように決死の防戦で新政府軍を釘付けにし、相当の打撃を与えた戦場もちらほらとありました。
 そして、「敗れし者の美学/追い詰められた者たちの散り際」なんてどこ吹く風、錦の御旗と圧倒的武力を背景に嵩に懸かって北伐する新政府軍を相手どり、まさかの連戦連勝を重ねた藩も存在した。その名は「庄内(しょうない)藩」ッ!


◇NHK『歴史探偵』
 2026年2月4日(水)放送回
 「庄内藩 最強伝説!」
 NHK総合にて 22:00~
(再放送:翌週火曜深夜)
【番組内容】・・
 戊辰戦争で連戦連勝の戦いを見せた山形の庄内藩。強さの秘密を探るため庄内藩の武器や、藩士が行った謎の鍛錬を徹底調査! 藩と領民の強固なつながりを生んだ秘話もご紹介!



 直前で何ですが、今夜放送! 再放送が来週火曜の深夜にやると思うんで、見逃しちゃったらソチラで是非! ・・オヤ? ミラノ・コルティナ冬季オリンピックの放送予定で埋まってる? ハワワワワ、今夜を逃すと再放送がいつになるか分からんぞぃ・・・。
 ウ~ム、こーいう「KY(くうきよめない)」というか「徹底して空気を読まん」(by『ドリフターズ』のぶのぶ)、絶望的負け戦での目を疑うような勝利の戦績。大好きですな~~!

 「散り際の美学」とか「花は散るから美しい」とか、そんな傍観者の訳知り顔の陶酔を笑い飛ばす起死回生の快進撃!
 勝手に悲劇の戦にしてんじゃねえよ、他所はともかく、こちとら負け知らずじゃい! 「旧幕府軍/列藩同盟は惨めに潰走したのだ」との先入観を覆す、一局限定的ではあるが確かな立場逆転劇!

 なんでも強すぎて東北戦争の終盤に至るまで領内に一歩も敵兵を入れさせず、あまつさえ藩の外に部隊が遠征してそこでも破竹の進撃を続けたという信じられない壮挙!
 旧幕府軍って連戦連敗のイメージだし、会津戦争のように多大な犠牲を払いながらなんとか互角に持ち込んだ、みたいな悲愴な固定観念があるから、その同じ戦線で勝ちまくってた部隊の話なんて俄には信じがたいんだけれど。史実であります。

 この庄内藩については、同じNHKのBS番組『英雄たちの選択』でも過去に取り上げられていました。
 ああ、2023年っていやぁ、ちょうど大河ドラマ『どうする家康』が放映されてた年でヤスね。その徳川家康麾下の重臣を祖とするのが庄内藩であり、番組では戊辰戦争での目覚ましい活躍の他に、同地方の豪商についても別の回で紹介しています。


◇NHK-BS『英雄たちの選択』
 2023年初回放送:
「幕末最強! 庄内藩の戊辰戦争 ~徳川四天王・酒井忠次の遺伝子~ 」

 幕末の戊辰戦争。奥羽越列藩同盟の中で唯一、新政府軍に勝ち続けた庄内藩。立役者となった二番大隊長・酒井玄蕃は徳川四天王・酒井忠次の末裔。その強さの秘密と選択とは?

 幕末の戊辰戦争。奥羽越列藩同盟の中で唯一、圧倒的な新政府軍を相手に一度も敗れることなかった出羽・庄内藩。その立役者となったのが徳川四天王・酒井忠次の末裔である二番大隊長・酒井玄蕃だ。幕府をつぶした徳川慶喜を馬鹿将軍と罵り、長篠合戦で別動隊を率いた先祖の忠次同様の迂回作戦で連戦連勝を続ける。強さの秘密は徳川への忠誠心と強力な武器。しかし他藩は次々降伏し、残るは庄内藩だけに。降伏すべきか、徹底抗戦か?


◇同『英雄たちの選択』
 2025年初回放送:
「異色の豪商 財政再建を請負う

【内容】・・

 山形県庄内地方に33キロにわたって続く防風林。酒田の豪商・本間光丘が飛び砂から町を守ろうと私財を投じて作り始めたものだ。一見、ボランティアに見えるが、光丘は長期的には利益が見込めると考えていた。そんな光丘に目を付けたのが財政破綻寸前の庄内藩。藩主から懇願を受けた光丘は22年にわたって藩の財政改革を指導。しかし、藩が金貸しになって財政再建と農村復興を行おうとする光丘の改革案は激しい反発を招くことに。

 (引用終わり)


 あらん、一度気になりだすと、庄内藩についてもっと詳しく知りたくなっちゃったわん・・。
 それでちょいと調べてみましたら、近世江戸時代から幕末維新期に至るまで、決して目立つ存在ではないものの、庄内藩の名前はちらほらと日本史参考書の中に出てきますね。それに加えて、現代時代小説の大御所が、この地を作品の舞台のモデルとしたことでも有名な藩なのでした。調べてて思い出しましたが。

 そこで今回は「庄内藩の歴史」と銘打ちまして、同藩の来歴と関連する人物を粗々に辿っていきたいと思います。


○庄内藩の歴史

①土地・地理・・

 現在の山形県は北部に位置する庄内平野。古代にはここに出羽柵(でわのさく=防衛拠点)と出羽国府(でわこくふ=出羽国政庁)が置かれ、都から見て東北地方西側の入口、また日本海沿岸の中継基地として機能してきた。
 中世に置かれた荘園に関係する「庄内」(あるいは「荘内」)が地名の由来とも言われる。東北地方の平野部で米作りも盛ん、戦国時代には諸大名が争う重要地の一つとなる。


②徳川四天王・酒井忠次

 庄内藩の起源は、家康の天下取りに大いに貢献した徳川四天王の一人、酒井忠次(さかいただつぐ)。
 NHK大河ドラマ『どうする家康』(2023年)では俳優の大森南朋(おおもりなお)さんが演じていましたね。郷土の宴会芸「え~び~すくい、えびすくい~」の踊りの音頭を取ってた人ですな。

◇「荘内日報」2023年記事
 酒井氏は三河松平氏の近縁で譜代の名門。雅楽頭(うたのかみ)系と左衛門尉(さえもんのじょう)系があり、忠次は左衛門尉家の出自。その嫡流がのちに庄内藩主となる。
 改めて、酒井忠次(1527~96年)は三河時代からの徳川家康の股肱の臣。家康より16歳年長で、初めは家康の父に仕え、幼い松平竹千代(家康幼名)が今川家に人質に出された際には彼に付いて駿府入りしている。

 成長した家康に従って数々の激戦を経、多くの武功を上げて徳川氏が戦国の世に頭角を現すことに貢献した。軍略だけでなく政務の上でも家中の老臣として重きをなす。
 家康の覇業を補佐した家臣団において顕著な働きを示した「徳川四天王」、長老格ということもありその中でも筆頭に据えられる酒井忠次。家康が豊臣政権に組み込まれた1588年頃に隠居するが、家督を息子に譲った後も、関東移封など難局に直面した家康を精神的に支えた。


③藩主酒井氏と庄内藩

 前出の雅楽頭酒井氏は、江戸時代を通じて幕府の(家老・)老中・大老を多数輩出し、幕閣の主軸として幕政をリードした。最高職の大老としては「下馬将軍」忠清(ただきよ)、江戸幕府最後の大老である忠績(ただしげ)がいる。
 一方の左衛門尉酒井氏は、忠次の貢献度の大きさにしては幕政に参画することはなかったが、1622年に忠次の孫の忠勝が出羽国庄内藩に入封し、10数万石を有する中規模の譜代大名となった。この忠勝が藩祖(初代藩主)である。紆余曲折はあったが、近世を通じて酒井家はこの領地を保持し続ける。藩庁は鶴ヶ岡(つるがおか)城、藩校は19世紀初頭に創建された致道館(ちどうかん)。

 江戸時代前半、日本海側には西廻り航路が整備され北前船(きたまえぶね)が周航し、北は蝦夷地から東北北陸の諸港、西の下関を通り瀬戸内海に出て大坂へと至る日本海・瀬戸内海運が発達した。
 庄内平野の酒田(現酒田市)にある湊(みなと)はその海運の中継地として賑わい、また藩域内を流れる最上川は内陸の物資を港に運ぶ水運の要となる。こうした交通の便と、農政による豊かな農産物とで庄内藩は潤っていった。近世の途中までは・・。


④藩財政再建と豪商本間家

 ご多分に漏れず、江戸時代半ばには庄内藩も財政がカッツカツになる。他の藩だってどこも似たり寄ったりだから、ことさらに悪政を敷いたわけでもないんだろうけど。それでも借金は膨らみ、藩財政の破綻も視野に入ってくるくらい窮乏してきた。
 そこで藩では財政再建策をあれこれと模索し、白羽の矢を立てたのが酒田の商人・本間光丘(ほんまみつおか、1732~1801年)。藩主じきじきに光丘を登用し金融・商業政策に当たらせ、他にも農政家らを起用して総合的かつ抜本的な改革を推進する。どうにか持ち直した藩財政。

 この財政改革を主導したことで、本間光丘も少なからぬ利得を得た。巨額の藩借財の整理と再建策を立案実行していき、その余徳で土地を集積して巨大地主となった。御用商人として内外の金融・商業の特権を掌握したことで、自身の本間家の裁量も拡大。
 酒田の本間家といえば近世~現代まで名を馳せた名家で、「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」とまで謳われた富豪。3代目の光丘の頃には全国長者番付に名を連ね、本間家と酒田湊は全国的に知られる有数の長者・商都となった。


⑤天保の三方領知替と反対一揆

 さてそれで、どうにかこうにか財政破綻を回避し、幕末にまで長らえた庄内藩。ところが1840年、降って湧いたように転封騒ぎが持ち上がる。時は老中水野忠邦の天保の改革期。
 事の発端は、武蔵国川越藩(現埼玉県)が海防負担を苦にして幕府に加増を伴う領知替(領地替え)を打診したこと。そこで水野忠邦は、川越藩松平氏を庄内藩に、酒井氏を越後国長岡藩に、長岡藩牧野氏を川越藩にグルグルと移し替える「三方領知替(さんぽうりょうちがえ)」を命じた。

 言い出しっぺの川越藩はともかく、これには庄内藩・長岡藩は猛反発した。それぞれ転封に伴う費用負担や新しい封地への不満、住み慣れた土地を離れる不安や近接する商業地との繋がりの断絶を懸念して幕府に愁訴を願い出た。もし断行なさるならそれ相応の救済措置を、すぐさまは無理なんでできれば実施時期の延期もお願いしますと。
 庄内藩を中心に領民の反対運動も起こり、両藩の嘆願に同調する徳川一門や有力藩からの陳情も幕府に多数寄せられ、水野政権内の動揺と幕政批判もあって翌41年に転封令は撤回された。この中止には庄内藩の藩主・藩士らの政治工作や近隣への根回し、また本間家の献金なんかも奏功したのだろうけど。

 領民の反対運動も大きな要因で、領知替の中止を求めて村役人らが訴えを提出。領内の百姓の集会は1万人超の規模にまで膨れ上がり、全藩挙げての一揆となった(反乱・暴動は起こしていない、あくまで訴えと団結だけ。数の暴力? それはそう)。
 藩主酒井氏の善政を楯としながら、近頃の農村への負担増や移転費用の徴収の軽減を求める要求も併せて掲げた。まぁ最悪領主が変わってもいいけど、それにかこつけてオレたちに不利な条件を押し付けるんじゃねぇぞと。幕末のたくましい領民の姿を見ることができる。


⑥清河八郎と浪士組

 幕末の庄内藩といえば、ここの出身である尊皇攘夷運動家・清河八郎(きよかわはちろう、1830~63年)の軌跡にも触れねばなりますまい。清河八郎は尊攘思想に傾倒し、薩摩などを巡って同志と交流した。1862年に挙兵を企てるが寺田屋事件で頓挫し、次の手を考える。
 1850年代からの黒船来航・開国決定・相次ぐ政変に激動する幕藩体制を立て直そうと、62年に行われた文久の幕政改革。そこで政事総裁職に就いた松平春嶽(しゅんがく/慶永よしなが)に、清河は建白書「急務三策」を提出した。この意見が取り上げられ、上洛する将軍の護衛として江戸で腕の立つ侍を募り「浪士組」が編成されることとなる。

 63年、将軍警護として浪士組が上京し駐屯地とした壬生(みぶ)村に入ると、清河は一同を集めて自らの尊皇攘夷論を演説。それは反幕すら含めて尊攘運動の魁を目指す、先鋭的な指針であった。浪士組の方向性をそちらに誘導しようとしたが、反発を覚えた一部の者は組を離れる。
 清河率いる浪士組は朝廷に接近し、天皇のお墨付きを得る。幕府の下部組織とはいえ腕自慢や無頼漢など有象無象が集まった一部隊に対しては、異例と言える名誉である。浪士組は江戸に戻るがその間も参加希望者が増え続け、勢力の拡大と清河の急進的な行動理念を危惧した幕府の刺客によって清河は暗殺された。

 一方、浪士組から離脱して京都に残った一派。彼らはあくまで幕府の側に立って働くことを望み、その中の芹澤鴨・近藤勇・土方歳三らが中心となって独自に壬生浪士組、のちの新撰組を結成した。
 ちなみに、2004年の大河ドラマ『新撰組!』(三谷幸喜脚本)で清河八郎を演じたのは白井晃(しらいあきら)さん。純粋一途に理想を追いながら、強引に事を運ぶ危うい狂熱を持った人物として描かれていました。
 

⑦戊辰戦争での獅子奮迅の活躍

 ここが本記事のハイライトだけど、『歴史探偵』でもやるからサラッと触れるだけにしときましょう。詳しくはテレビで!
 戊辰戦争において庄内藩が連戦連勝の破竹の快進撃を続けたのは前述の通り。その勝因を幾つか挙げてみよう。

 壱、藩士が実戦経験豊富だったこと。
 文久の改革が行われた後、1863年から庄内藩が江戸市中の警備に駆り出され、それから倒幕直前まで4年以上もその任に当たった。当時の江戸は幕府のお膝元とはいえ、尊攘派志士や無法者が全国から集まって諜報活動や要人要地の襲撃を繰り広げる混乱地帯ともなっていた。
 そこで不逞浪士や騒擾を画策する志士らを取締り、実力行使などで実戦経験を積んだ藩士が多かった。その経験が戊辰戦争で活きたと。江戸は各地から知識も集まってくる、最先端の兵学や武器の扱い方なども習得できただろう。

 弐、領民も民兵を組織して加わったこと。
 藩の武士以外にも二千人を超える民兵が戦闘に加わり、総兵力の半数に上った。刀剣の腕前ならともかく、銃の扱いに慣れれば民兵でも立派な戦力となる。強制徴集されたわけではなく志願兵だったので士気も高かった。

 参、またまた本間家の助力で戦備が充実していたこと。
 豪商本間家の献納で最新式の銃火器・大砲が揃えられ、装備が充実した強力な部隊を養成できた。旧幕府軍の諸藩が旧式の装備で蹴散らされていったのを考えると、これはかなり心強い支援である。

 肆、優れた戦闘指揮官が隊を率いたこと。
 藩戦力を大きく4部隊に分けて庄内防衛戦と外地への遠征を行ったのだが、特に二番大隊を率いた「鬼玄蕃(おにげんば)」こと酒井了恒(つねのり、家代々の通称が玄蕃)。
 文武両道かつ芸事にも通じたイケメンだったらしいけど、抜擢されて20代半ばで出陣した戦場では鬼謀を振るった。庄内から出て内陸部を北上し、神出鬼没の遊撃戦で新政府軍を打ち破りながら秋田方面まで快進撃を続けた。「破軍星旗(はぐんせいき)」を掲げたその部隊は敵を恐懼させたという。

 これらの要因から、庄内近辺の戦闘を終始優位に進めた庄内藩。幕末最強伝説の由縁である。逆に、最終的に降伏の決断に追い込まれた敗因は一つだけ。周辺の諸藩が次々に投降して、庄内の一地域だけじゃ戦線を維持できなくなったからですね。多勢に無勢、四面楚歌。
 東北の雄藩で江戸幕府との関係も深かった米沢藩と仙台藩。列藩同盟において盟主の位置付けだった両藩が降伏し、頑強に抵抗していた会津藩も落ちた。まだ戦力が残っていた庄内藩も衆寡敵せず、白旗を上げる。


⑧戦後の処断と西郷隆盛との縁

 降伏した庄内藩に乗り込んできたのは薩摩藩。新政府軍の主力であり、かつ薩摩藩と庄内藩とは因縁浅からぬ間柄であった。倒幕目前の鬩ぎ合いの中で江戸市中の警備に当たっていた庄内藩と、尊攘派志士や藩士らが江戸入りして盛んに活動していた薩摩藩とは、互いに仇敵として対峙していた。
 そして1867年から68年にかけて大きな衝突が起こり、庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ちする。戊辰戦争でも両藩の勢力は激戦を繰り広げ、最後まで散々に手を焼かされた庄内藩への憎々しさは薩摩藩側に相当に積もっていたものと思われる。

 似たような経緯で、藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職に就いて新撰組を擁し維新志士たちを弾圧して、今また戊辰の戦で新政府軍にもかなりの痛手を負わせた会津藩は、戦後に過酷な処罰を受けている。他にも理由があったみたいだけど、会津藩が最も厳しい措置を受けたのは確か。
 青森県下北半島の小地に転封を命じられ、23万石から3万石への大幅な減俸となった。馴染みのある領地・領民とも引き離され、これではとても抱えている藩士を養ってはいけない。ある者は藩を離れ、ある者は金策や求職に全国を放浪し、またある者は塗炭の苦しみに耐えながら新天地での生活を切り拓こうとした。

 この京都の騒乱から戊辰戦争については前掲の『新撰組!』、加えて会津藩など敗れた側が下された戦後処断については同じく大河ドラマの『八重の桜』(2013年)に詳しい。
 主人公の山本八重(やまもとやえ、のち新島八重)は会津に生まれ育ち、会津戦争に銃撃手として参加し戦後の厳しい処置の中で最初の夫と別れている。その最初の夫の川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)は長谷川博己さんが好演しました。綾瀬はるかさん演じる八重との苦渋の別離がもの悲しかった・・。

 そんな感じで、勝った官軍側は敗れた奥羽越列藩同盟側の藩に酷薄な処分を下す例があり、列藩同盟の中でも特に薩長らと因縁のある会津藩・庄内藩は同等の厳罰を与えられるのでは、との臆測があった。庄内藩側では戦々恐々。
 ところが、17万石から12万石への減封はあったものの、転地もなく武士団も解散されずと、身構えてたよりも寛大な措置で済まされた。のちに移封案が浮上するが、その時も色々あって結局は沙汰止みとなる。

 この異例の措置にも幾つか理由がありそうだが、大きなそうなものを並べてみよう。
 まず一つ、庄内藩は奮戦により新政府側に強敵と認知され、しかも規律ある戦い方をしたため敵味方から一目も二目も置かれていたこと。厳しい処分を下して暴発されても困るし減刑を求める声も出そうだから、とりあえず軽めの処分で済まそうという新体制側の思惑。

 更に大きかったのは、庄内入りした薩摩軍の西郷隆盛が、あまり厳しい処分を加えるなと通達したこと。実質上の新政府軍総大将の一角の意向で、庄内藩は存続の危機をなんとか免れた。
 これに先立って、酒田本間家の分家出身の本間郡兵衛(ぐんべえ、号は北曜。1822~68年)という人が幕末の鹿児島に招かれ、薩摩藩の近代化に寄与したという。多才な人で最初は芸術工芸、各地を遊学して洋書翻訳と蘭学・英語修得に海外の知識、果ては日本最初期の株式会社を興すなど多方面に活躍した。西郷らと親しく交流し、戊辰戦争のさなかに急死したが、遺徳を偲ぶ者が薩摩藩の側に多く居た。その縁もあっての緩めの処分であった。

 新政府側から転封をチラつかせての賠償請求が出された際も、三方領知替の時のように藩重臣の交渉工作とともに、またまたまた豪商本間家が集めた数十万両もの政治献金が功を奏したという。本間家当主も破格の5万両を拠出し、新政府の追及の手を逃れることに成功した。
 もうなんだか、本間家にべったり頼りきってるな庄内藩。あまり甘やかすと庄内藩のためにならないと思います! そんな本間家は維新後も酒田の富商・名士として存続し、今日まで同地の近現代的な発展に貢献する経済・政治活動を行ってきた。

 戊辰の敗戦の戦後処理を乗り切った庄内藩は、この本間家の奔走と西郷隆盛の温情に感謝しきり。西郷の人柄に感じ入り慕う声が多く、1870年には藩主自ら藩士を連れて薩摩を視察し、西郷のもとを訪れ滞在もしている。
 そこで西郷から聞いた教えや問答の内容を関係者がまとめ、『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』として後日公刊もされている。南洲は西郷の号、西郷隆盛という人物の思想信条を知る一級の史料だ。


⑨藤沢周平の時代小説の舞台

 鶴岡市出身の小説家、藤沢周平(1927~97年)。池波正太郎、山本周五郎らと並ぶ時代小説の大家であり、誠実な下級武士がやむにやまれぬ流れに翻弄されていく哀歓をつづった作品で知られる。
 その作品群の中で、庄内藩をモデルとした架空の「海坂(うなさか)藩」がちょいちょい登場する。代表作である『蝉しぐれ』がそうであるし、直木賞受賞(1973年)の出世作『暗殺の年輪』も。これらは「海坂藩もの」としてファンに知られている。

 作家が生まれ育った庄内地方の自然と人物、文化風俗を、故郷の在りし日の姿=庄内藩に託してイメージを重ねていったもの。
 藤沢作品は多くが映画化・ドラマ化されているので、映像化された作品を介して藤沢周平の心象風景を視聴者は追体験することができる。

◇「荘内日報」サイト内
◇『ロケーションジャパン』編集部ブログ(2006年記事)

⑩庄内映画村(現スタジオセディック庄内オープンセット)

 あっ、色々検索して調べてたらたまたま見つけた。なんでも映画・ドラマ関係者の間では有名な撮影ロケ地が鶴岡市にあって、これまで数々の時代劇作品などにスタジオセットを提供していると。設立は2006年。きっかけは、その数年前に隣接地で撮られた映画『蝉しぐれ』の秀逸なセットの評判だそうです。
 うわっ、めっちゃある、ここで撮られた作品、しかも時代劇の半分くらいは観てる。ナニナニ、『十三人の刺客』に『超高速!参勤交代』に『殿、利息でござる!』、『斬、』『首』。他にも『おくりびと』『山女』『ゴールデンカムイ』など近現代ものも。藤沢周平作品では『必死剣 鳥刺し』(2010年公開)がありますな。

◇公式サイト
○参考サイト

◇「つるおか観光ナビ」

◇「ミツカン水の文化センター」