適度に頭が疲れてると変なことばっかり考えてしまうねぇ。

 

今は頭の中で「そのほう、あんぱんまんグミを盗んだ廉でシチューかきまわしの刑に処す」とお奉行様がおっしゃってまして寝づらいです。

母ちゃんと二人三脚での、ばあちゃんの介護生活。

 

はじめのうちはただ同じことを一緒にするだけだったけど、それだとどっちもが息抜きできない地獄になっちゃうんだよね。

 

だからお互い相手にできるだけ自由に暮らしてもらいたいって思いながら融通し合えるようになったのは、

 

我が親ながらコイツがバディでよかったと思う瞬間ではあるね。

 

とはいえ生身の人間だから、体調が悪い日も虫の居所が悪い日もある。

 

そういう日を支えてくれるのは、いつもおバカな妄想だったりして。

 

お千代が父の居る家に来てるって連絡が入った時、まだばあちゃんの世話が残ってたりすると、

 

「ここは俺に任せておけ・・・・後から追いかける」とか言いながら主人公を逃がすかっこいい仲間ごっこをして母ちゃんを先に行かせてやる。

 

もちろん「私かっこいい・・・・」とわりと本気でうっとりしながら作業すんだよ 笑

 

やっと用事が終わってお千代に会いに行けるようになっても、私はいそいそと出かけるシンデレラ気分なんかにはならないのさ。

 

「ふっ、、、、やれやれだぜ」とか言いながら、上着を肩に引っ掛けて悠々と出て行く時は、心の中では背後で家が爆発してる。

 

どうせしなきゃいけないことは同じなら、運命の召使いになっちゃいけない。

 

うんといい演出家になって、日常にパキッと鮮やかなワンシーンをつくるのだ。

お千代が今年のクリスマスは例の有名ご一家がほしいって言う。

 

あれは一度手を出すとめちゃくちゃお金かかるって話だから、みんなで協力してプレゼントすることになったよ。

 

シルバニア。

 

人形かぬいぐるみか選べって言われたらぬいぐるみ派だったけど、私は通らなかったなぁ。

 

見た目は可愛いなと思ってたけどね。

 

なんかその、可愛いと思いながらも欲しくはなかった理由が、おもちゃ屋さんに行ったらわかったような気がした。

 

なんかこう、ゴリゴリとジェンダーロール押し付けられてる感じがね・・・・(;^ω^)

 

うさぎ母さんは冷蔵庫、うさぎ父さんはソファーとセットで売られてんの。

 

・・・・うさぎ母さんはみんなより30分早く起きて味噌汁とか作らされてるのかなぁ、あの冷蔵庫開けて。

 

子だくさんなのにワンオペで子育てとかしてないかな。。

 

で、週3でおじいちゃんおばあちゃんが不意打ちで孫の顔見にやってきて、大慌てで散らかった部屋を片付けるとか?

 

もしやお父さんはソファーに寝っ転がって掃除の邪魔になるだけなんてことはなかろうな。

 

うわー、我ながら夢がない(;^ω^)<リカちゃんもなんとなく同じ匂いを感じる・・・・

 

それになんてのか、うさぎはうさぎ、クマはクマ、みたいに同じ種類の生き物だけで家族が形成されてるのもねぇ。

 

一軒くらい猫のお母さんとサルのお父さんとうさぎの子どもの家とかあってもいいじゃん、と思った。

 

いや、お金出せばそういうバリエーション豊富な家族もできるよ?

 

うさぎ父さんは子育てに協力的で(お母さんのことを「子育てに協力的」と表現してるの見たことありますか・・・?)、お母さんより料理上手とかいうパターンもあるかもしれないけどね。

 

でもなんかそういうつらーい想像しちゃう辺り、私も昭和の日本の毒吸っちゃってるね(;^ω^)

 

もちろんお千代が望むなら喜んでプレゼントするよ。

 

そしてどうか大人になったお千代の心が自由であれ、と思う。

 

だれかと一緒に暮らしても、だれとも一緒に暮らさなくても、自分が思うままに生きていけたらいいね。

若い頃と変わったことの中でも真っ先に思い当たるのは、何かの待ち時間をただの暇にしなくなったことかもしれない。

 

今じゃ信じられないけど、帰りの電車まで一時間も待たなきゃいけない時でも、結構ホームのベンチに座ってなんもせずに過ごすことも多かったよ。

 

ずっと緊張の連続みたいな毎日で、だれにも気を遣わずに抜け殻になれる時間だったから、それはそれで必要だったと思うけどね。

 

今の私は、ただただ楽しいものや面白いことを知りたい。

 

便利なグッズや美味しい食べ物や、知って得するなんかの技術とか、得なんかないけど知識欲が満たされる話とか、

 

世界には私の知らないことがたくさんあるんだろうなって。

 

本だけじゃなくて、お店のご自由にお取りくださいって書いてるチラシとか、宣伝も兼ねたフリーペーパーとかも興味がある。

 

たくさんの情報に触れることで自分を保ってる部分がある。

 

いつもは行かない通りにあるリサイクルショップにふらりと入って、「まさにこういうものがあったらいいなと思ってたんだ!」って目がハートになるようなものに運命的に出会うとか、

 

若い頃はほとんどなかったけど、今はあるんだよな。

 

新しいものは緊張するし怖いって、そういう防衛本能みたいのは相変わらずあるよ。

 

でもいつだって私自身を救ったものは、「ここまでしか行ったことない道」を数メートル先に行ったところにあったんだよ。

認知症の人と暮らしてると、時々すごくさびしい気持ちになることがある。

 

私の都合を考えてくれないとか、そういうのとは別次元の問題で。

 

たとえば、ずっとファンだった歌手のポスターを、もう要らないって言ってみたり。

 

べつにその歌手を好きじゃなくなったからって、私がなにか困ることがあるのかって言われたら、ないよ、困ることなんて。

 

でも、その人らしさがだんだん薄くなってるような気がしてね。

 

ずっといい関係だった人を、見知らぬ人を見るような目で見てる自分に戸惑うの。

 

そういうことを友達に話してみた。

 

するとその友達が「その人らしさとか、これぞその人物って部分はどこに宿るものだと思う?」って言う。

 

「テセウスの船」って知ってる?

 

私はこの前初めて知ったんだけど。

 

テセウスと名がついた船をメンテナンスし続けて使うと、いつのまにか一番始めからあった部品はひとつもなくなってる、みたいな時、

 

果たしてその船をテセウスの船と呼んでいいものなのだろうか、みたいな問いかけだった。

 

なんか人間の新陳代謝とか、もっと広義に解釈すると老いとか?近いものを感じるんだよね。

 

子どもの頃の私は、ただただ新聞紙を固く丸めたり、きれいなどろ団子を作ることに明け暮れる生活をしてた。

 

さすがに四十近くなった私が今も新聞を丸めてるかって言われたら、そんなことはない。

 

じゃぁ、子どもの頃の私と今の私の間に連続性があることを感じないのかって言われると、それは感じることもある。

 

細々となにかを作ることに没頭する時間を愛する気持ちなんかは、新聞を丸めてた頃に生まれたものをそのまま持ってるんだと思う。

 

そういう私が思う「私らしさ」は、どういう部分に宿るのかと考えてみる。

 

思うに私は、習慣の中にその人らしさは宿ると信じてるみたいだ。

 

どんなに調子が悪い時でもすることに、その人らしさが表れると。

 

熱が40度あってもカレーが食べたい人のその人らしさは、カレーが好きなことの中に宿る。

 

きっと私がボケて、本が読むものだってことも、文字の読み方も忘れてしまったとしても、

 

硬くて寝心地はそんなによくないのに、なんだかあるとホッとする不思議な枕だな。とか思うかもしれない。

 

思い出なんて全部忘れてしまっても、肌がそのいい思い出の微かないい香りを嗅ぎつける。

 

ばあちゃんは何をどこにしまったのか全部忘れてしまうけど、今日も片付け魔です。