コリアン事件史探訪~神戸洋服商殺人事件~
~恩を仇で返すことしか出来ない異常民族の酷薄な一家皆殺し事件~


神戸洋服商殺人事件(こうべようふくしょうさつじんじけん)とは、1951年(昭和26年)1月17日に兵庫県神戸市生田区(現・中央区)で発生した殺人事件。

=事件の概要=

1951年1月17日、兵庫県神戸市生田区の洋服商のところに一人の孫斗八がオーバーコートを買いにやってきた。孫斗八は以前にもオーバーコートを買ったことがあり、洋服商とは顔見知りであった。孫斗八は真冬にもかかわらず薄着しか着ていなかった。洋服商は、孫斗八の身なりを見て同情して孫斗八にぜんざいを振る舞い、更に近くの飲み屋で酒を奢った。そして帰り際に洋服商は「脱線せんと、まっすぐ家に帰りなはれや」と暖かい言葉をかけて別れた。

1時間後、孫斗八は再度洋服商のところに訪れ「もっと一緒に酒が飲みたい」と無心したが、洋服商は既に就寝していた。洋服商の妻はそのことを告げたが、孫斗八は勝手に家に上がりこみ、洋服商を起こそうとした。金槌が目にとまった孫斗八は洋服商夫妻に突然襲いかかり金槌で殴打。洋服商夫妻は即死状態だった。

犯行10日後の1月27日、孫斗八は警察に逮捕された。

=孫斗八の略歴。=

孫斗八は慶尚南道出身の在日朝鮮人で、幼少時に内地に移り住んだ。貧困ではあったが、学業に優れていたため、1944年に旧制専門学校の広島工業専門学校に入学することができた。

戦後、孫斗八は「三国人」の一員として羽振りをきかせるようになり生活が乱れ始めた。そして、米軍キャンプで窃盗をしたため、米軍の軍事裁判で重労働6月の実刑判決を受けた。そのため、広島工専を退学し転落人生を歩むこととなった。

=事件そのものの裁判=

孫斗八は、強盗殺人罪で起訴された。

孫斗八は無罪を主張したが、「恩人殺し」の情状の悪さから一審の神戸地方裁判所で死刑判決が下った。

孫斗八は直ちに控訴したが、二審の大阪高等裁判所でも死刑が言い渡された。
孫斗八は死刑回避のために生への異常なまでの執拗な執着を見せて最高裁まで争い、1955年12月16日、最高裁判所は上告を棄却し死刑が確定した。

=孫斗八の訴訟作戦=

孫斗八の特筆すべき点は、自身が犯した犯罪よりも、むしろ死刑を回避するために起こした各種の訴訟にある。

当時、孫斗八が収監されていた大阪拘置所には吹田・枚方事件の関係者が数多くおり、彼らが「監獄闘争」をやっていたのを目の当たりにして、自分もそれに倣うことになった。孫斗八は国選弁護人から六法全書などの法律書を差し入れてもらい、徹底的に法律を勉強した。

まず手始めに孫斗八は自分に直接接する刑務官を片っ端から公務員職権濫用罪で告訴した。検察官はその度に不起訴処分にしていたが、孫斗八は付審判請求でそれに対抗した。

やがて孫斗八は行政訴訟も手がけるようになり、「文書図画閲読禁止処分に対する不服事件(大阪地裁昭和29年(行)79号)」で一部勝訴を得ることに成功した。

この行政訴訟で孫斗八は一躍有名人となり、孫は、米国の凶悪犯罪者のキャロル・チェスマンに例えられ日本のチェスマンといわれ「絞首刑違憲訴訟」など様々な行政訴訟を起こし、裁判所より死刑執行停止命令を2回出すことにも成功した。

※米国の凶悪犯罪者のキャロル・チェスマン。
警官を装って走行中の車を止めて運転していた男を殺して金品を強奪。
助手席にいた女性は強姦後、殺害した事件で死刑判決を受けた。
チェスマンは「大学教授の頭脳と変質者の魂を持つ男」と言われていました。
死刑囚監房を法律事務所にして自ら自身の弁護人となります。
そこで執拗なまでの法廷闘争を何度も繰り返し、
死刑執行を8回も執行停止命令を取り付けた男だったそうです。
(死刑囚2455号=チェスマン)。

しかし、「絞首刑違憲訴訟」は一審で敗訴した。この頃を境に刑務当局は体制を一新し、孫斗八に対する規制を強め始めた。1963年4月、最高裁判所は上告を棄却、それとともに死刑執行停止命令の効力も失った。

1963年7月17日に大阪拘置所で死刑が執行された。
孫斗八は死刑執行場へ連行しようとした刑務官に対して暴れまくり、刑務官に引きずられるように死刑台に上った。孫斗八の最後の言葉は「だまし打ちにするのか!」であった。享年37歳。

***************************

孫斗八が手前勝手な犯行を起こしてから殺処分されるまで12年の月日がかかりました。こんな利己主義者のために12年間拘置所で世話をしてやっていたかと思うと虫酸が走ります。

この自分の生に対する妄執ともいうべき態度には自身の犯行への反省する点が一点もないというところにコリアンらしさを如実に反映しています。

自身の罪への反省は一切なく、どうすれば殺されずに済むかというその一点だけを争うために片っ端から訴訟を行い時間稼ぎをしようとするなど、ここまで自分の犯罪を反省もしない人間はコリアンだからでしょう。

先に上げた一勝地、そして和夫一家、さらにこの洋服商といい、殺された側には全く何の落ち度もないばかりか、皆、コリアンに同情して丁重にもてなしています。殺される道理が全くない相手を、ましてや恩なる人間を次々こうやって無慈悲に殺していくのはコリアンのお家芸であることがよくわかります。

こういう事件が1つや2つなら、まあそんな変人もいるかもね。
で済むかもしれませんが、ココにあげているのは氷山の一角です。

やはり、彼らを同じ同類項の人間という括りで観ることには非常に抵抗を感じざるを得ません。しばらくこのコリアン事件史探訪シリーズは続けていこうと思っています。

いかにコリアンが人間のクズであるかということをまたまた再確認することが出来ました。

そんなどうしようもない人間以下の屑野郎のコリアンという下鮮な輩でも、戦前の日本は今より以上の学力偏重社会でしたので、極貧であっても学業が優れていたら、出自にかかわりなくこのように高学歴を得ることは可能でした。当時専門学校まで進める人と言うのは非常に少なく、1割くらいしかいません。
その中に入っていたということはかなり勉強の出来る人物ではあったようです。しかし、この才能を良い意味で社会に還元活用することが出来ない点もやはりコリアン故の限界なのかもしれません。

古い事件なため、金品を盗んだことが書かれていませんが、殺人を犯しておいて、コリアンが金品を強奪しないわけがありません。生田区という繁華街であったことから犯行が見つかるのを恐れて、周囲をサッと探して金品を物色したものの、見つからず、逐電したと考えるのが妥当だと思います。コリアンが強盗や強姦目的もなしに殺人をするわけがありません。

一勝地や和夫一家事件からも類推できることですからね。

3件今迄事件を上げてきましたが、共通するのは日本人がみなコリアンに恩徳を施した結果、仇で報いられているという点です。

素晴らしい民族ですね。本当に感心します。

よく人間の形をした生き物として生まれてきているなあと思います。彼らがいかに日本にとって害になるかということがこれでお分かりいただけたかと思います。