
ラジオを聞いて思ったこと。
「普通の人は…」と話し、聞き流す自分。
少しして、
それぞれの価値観、それぞれの立場、それぞれの意図によって、各自が想像する意味は違うんじゃないのかと思った。
相手の中にある言葉、そこに宿るは本人や家族、地域の歴史があるだろうに。
とはいえ、公人が言わんとする「普通の人」の意味が想像できない訳ではなく。
だからこそ、人を繋ぐ言葉の地図として辞書がある訳で。
ただ、言葉という人を人として成り立たせる普遍的かつ日常的に用いる文化と歴史の縮図を、自己表現の有り様を、政治やマイノリティの弾圧等とは別に、時代の流れと共に自然淘汰と解釈の多様性の中にいて、それは言葉を扱う“ひと”そのままに、絶えず生まれては変わり、消えては生まれると。
自分は高校の古文で挫折した身ですが、あれは言葉を知り文字を学ぶチャンスにあった貴族達の知的なお遊びごっこ程度にしか感じていなかった。
それよりは、文字を知らない庶民の生活やひと思う言葉を聞いてみたい。
各国の世界地図、その中心には自国がありまして。
そこからそれ以外をどう捉えるか?であり、自分を軸に他を計る。
自分を見失わず、それを普通を認識しなければ推し量る物差しは意味をなさない。
そんな色々を考えちゃいるけど、冷静に納得のいく話のまとまりに、何故か釈然としないというか、そこに安寧して感じたり考えることを止めちゃいけないようにも思い。
何が普通なのか?
普通とは、こうだ!
などと普通を声高に取り立ててはゲシュタルト崩壊しそうですが(;^_^A
大昔の壁画や木簡から何かメッセージを感じる人もいれば、宇宙の彼方へメッセージを発信する人もいて。
狭義の普通に選別されるのではなく、分け隔てなく繋がり合う姿を普通と呼ぶ日常を思いたいです。
そうした互いの違いや差を言葉で繋いできたのが人間の文化だし、ノーマライゼーションに通じる社会の成長を願いたいです。