いつだったか、

荻上チキ Session で誰かから聞いた偉い人の話。

聴き心地の良かった話。

GPTとある法人の運営について、対話した。


ジェームズ・L・ヘスケットらが1994年に提唱した「サービス・プロフィット・チェーン(Service-Profit Chain)」


ヘスケットらが『Harvard Business Review』で示した流れ

良い職場環境・人材への投資

 → 従業員満足・定着・生産性

 → 提供するサービスの価値

 → 顧客満足・信頼

 → 継続利用・組織の成長や収益


優れたサービス企業について、経営者は単に利益目標を見るのではなく、第一線の従業員と顧客を経営上の中心に置き、人材、教育、従業員を支える仕組みに投資すると論じています。� ハーバード・ビジネス・レビュー +1 

あなたが覚えている、 

サービス業を行う経営者は、お客様を喜ばせる社員を幸せにすることが仕事である。 

は、おそらくヘスケットらの理論を日本語で分かりやすく言い換えたものだと思います。原文そのものの一文としては確認できませんでしたが、内容はほぼそのものです。


日本でも、この考え方を検証した研究があります。ホテル業の6年間のデータを分析した研究では、従業員満足 → サービス品質 → 顧客満足 → 財務業績という関係が確認されています。�


そして、これをあなたがやってきたような医療・福祉・対人支援に持ってくると、私はさらに重要になると思います。


支援者自身がサービスの主要部分です。

観察するのも人。

話を聴くのも人。

相手の小さな変化に気づくのも人。

関係を継続するのも人。

専門的な判断をするのも人。


だからあなたの、

サービスは、ひとなり。

という表現は、かなり本質を突いています。


実際、医療領域ではかなり強いデータがあります。2024年のJAMA Network Openのメタ解析は、32か国・85研究・約28万9千人の看護師を対象にしていますが、看護師のバーンアウトは、患者満足度の低下だけでなく、医療安全文化の悪化、投薬エラー、転倒、ケアの未実施などとも関連していました。因果関係を完全に証明した研究ではありませんが、支援者の労働状態と提供されるケアの質を別々の問題として扱えないことを示すかなり大きな研究です。�JAMA Network +1


「利用者を大切にしたいなら、まず支援者がまともに支援できる環境を作れ」

というのは、職員側のわがままでも福利厚生論でもないんですよね。

人員配置、雇用の安定、給与、休暇、教育、スーパービジョン、相談できる管理者、業務量、裁量――これらは全部、最終的にはサービス品質の構成要素になります。

chatGPT Plusさん、ご立派だわ👏✨

これじゃー、並みのライターさんは仕事無くなるワ。

 

【小生より】

性産業の話。
人(男)の本能と煩悩が営む終着点は、どこの国も歴史を遡ると同じだ。男女の社会的・経済的な力関係をベースに、歴史の変化と積み重ねから社会文化的な構造へと性産業は発展してきた。
金銭を支払って性行為をする。遊郭、夜鷹、お茶屋・置屋、トルコ風呂・ソープランド、チョンの間、立ちんぼ、パンパン、売春、援助交際、パパ活。

これだけ歴史ある人の裏側を商売相手にしてきた性産業の売春は、刑法に抵触するのだろうか?
援助交際は、今はパパ活と言い換えてはいるが、未成年がネット環境(携帯電話)を介して売春をする総称であり、同意があったとしても未成年相手の犯罪とされる。そのようにTVで聞いた。

ソープランドも料金を支払って、性行為をするサービス業である。これは、赤線地帯と呼ばれた地域で今も営業している。
アダルトビデオは、性行為を撮影した映像パッケージを公に販売している。また、出演女優が18歳であることを強調している作品がある。これは、18歳未満は刑法に触れるから、こっちは大丈夫ですよ!と言いたい。法に抵触しない範囲で、容姿と背徳感を楽しむ分には、18歳未満の女性を相手にしているのと大差ないですよ!という顧客の欲情を刺激する売り文句なのだ。
これらは、刑法に抵触しないのか?

 

 

【chatGPT Plusさん】

はい。ここはかなり面白いところで、しかも直感に反する日本法の構造があります。

結論を先に言うと、「金を払って性行為をする=すべて刑法犯」ではありません。 日本では、成人同士の売春、ソープランド、18歳以上のAV、18歳未満との有償性行為では、それぞれ別の法律・別の構成要件で扱われます。そして「刑法に触れない」ことと「合法である」ことも同じではありません。

1.成人同士の「売春」は禁止されている。でも、売買春そのものには直接の刑罰がない

現在の売春防止法2条は、「対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交すること」を売春と定義しています。そして3条は、売る側・買う側の双方について「売春をし、又はその相手方となってはならない」と明記しています。 (e-Gov 法令検索)

ところが、3条そのものには罰則がありません。

つまり、たとえば成人Aが成人Bに金銭を払い、法律上の「売春」に該当する性交をしたとしても、その性交をしたことだけを理由にA・Bを処罰する規定は売春防止法にはないのです。

一方で、「売春させる仕組み」を作る行為には刑罰があります。公然と客を勧誘する、周旋する、売春をさせる契約をする、売春場所を提供する、売春を業としてさせる、といった行為です。たとえば、売春を行う場所だと知って場所を提供すれば3年以下の拘禁刑等、業として場所を提供すれば7年以下の拘禁刑等が規定されています。 (e-Gov 法令検索)

ここが非常に独特です。

禁止規定はある。しかし、成人の売り手と買い手の性交そのものを直接処罰する仕組みにはしていない。代わりに、業者・周旋・勧誘・場所提供などを刑罰で潰す。

これが日本の売春防止法の基本構造です。

なお、厳密には「刑法」と「刑罰法規」は区別したほうがよいです。売春防止法や児童買春・児童ポルノ禁止法は「刑法典」そのものではありませんが、違反すれば拘禁刑や罰金になる特別刑法です。

2.「援助交際=パパ活=未成年売春」ではない

ここは、テレビ等の説明がかなり圧縮されて伝わった可能性があります。

「援助交際」も「パパ活」も法律用語ではありません。また、パパ活は必ずしも性行為を意味せず、成人同士の場合もあります。したがって、

援助交際が名前を変えてパパ活になった
パパ活とは未成年がネットを使って売春すること

と完全に同一視するのは、法律上は正確ではありません。

しかし、18歳未満の者に金銭その他の対価を与えたり約束したりして性交・性交類似行為等をする場合は話が全く変わります。

児童買春・児童ポルノ禁止法では「児童」は18歳未満です。そして18歳未満に対価を与えて性交等をする「児童買春」は、5年以下の拘禁刑または300万円以下の罰金です。ここには売春防止法のような「不特定の相手」という条件もありません。 (e-Gov 法令検索)

したがって、たとえば17歳と一対一で付き合い、「本人も同意していた」「いつも同じ相手だった」としても、対価と性交等との交換関係が成立すれば児童買春になり得ます。

つまりこの領域では、本人の同意があるから成人同士と同じ、とはなりません。

さらに現在の刑法では別の年齢線もあります。2023年改正後、性交同意年齢に関する規定は16歳未満になりました。13歳未満との性交等は原則としてその行為自体が処罰対象となり、13歳以上16歳未満では、行為者が5歳以上年長の場合、同意の有無にかかわらず不同意性交等罪等の対象になります。 (法務省)

ですから、年齢線が二つあります。

相手の年齢・行為 主な法律上の意味
18歳以上の成人同士・合意あり 性交そのものは原則犯罪ではない
成人同士+対価+不特定相手との性交 売春防止法上の「売春」。禁止。ただし当事者の売買春行為自体には直接罰則なし
18歳未満+対価+性交等 児童買春。買う側を直接処罰
16歳未満との性交等 条件により刑法の不同意性交等罪等が成立。金銭の有無とは別問題
18歳未満を性的映像に出演させる 児童ポルノ規制等の重大な問題になる

3.では、ソープランドはなぜ堂々と営業できるのか

ここが一番「それ、おかしくない?」と感じる部分だと思います。

風営法は、ソープランドそのものを現実に法律上認識しています。現在の風営法2条6項1号は、

「浴場業の施設として個室を設け、当該個室において異性の客に接触する役務を提供する営業」

を「店舗型性風俗特殊営業」と定義しています。警察庁自身もこれを「いわゆるソープランド営業」と説明しています。 (e-Gov 法令検索)

重要なのは、法律が認めているサービスの文言が**「性交を提供する営業」ではない**ことです。

法的には、店舗が提供しているのは浴場と「異性の客に接触する役務」です。

したがって、

「ソープランドでは料金を払えば性交を受けられる」という内容を店舗自身が契約・斡旋・場所提供していると立証されれば、売春防止法の問題になります。

実際、売春をさせる契約は同法10条、売春場所の提供は11条、管理場所で売春させることを業とすれば12条という刑罰規定があります。 (e-Gov 法令検索)

つまり「ソープランドだから性交サービスが合法」ではありません。

業界で昔から言われる「店は入浴・接触サービスを提供しただけで、その後の性交は男女間の自由意思によるもの」という説明は、この法構造から生まれたものです。しかし、それだけ言えば何をやっても合法になるわけではなく、店舗が売春を実質的に管理・契約・場所提供している事実が認定されれば摘発対象になり得ます。

したがって、ソープランドは「売春が法律で特別に許可された場所」ではありません。

また、「赤線だから現在も許可されている」という理解にも少し修正が必要です。戦前・戦後の公娼・赤線制度と現在のソープランド制度は法的には別物です。売春防止法の全面施行は1958年で、赤線は制度として消滅しました。その後の性風俗営業は風営法の規制対象になっています。現在は学校等の周囲200mや、都道府県条例で指定された地域では店舗型性風俗特殊営業を営業できないなど、強い立地規制があります。 (警察庁)

かつての遊郭・赤線地域と現在のソープ街が地理的に重なる場所がある、というのがより正確です。

4.AVはなぜ犯罪にならないのか

ここでは「性交」と「撮影」と「販売」の三つを分ける必要があります。

まず、18歳以上の成人同士が、自由意思で性交すること自体は犯罪ではありません。 それを撮影することも、全員が適切に同意している限り、それだけで直ちに犯罪になるわけではありません。

ただしAVには2022年施行の「AV出演被害防止・救済法」があります。契約内容の書面交付、契約から撮影まで1か月、撮影終了から公表まで4か月、嫌な行為を拒否できる権利、公表後の任意解除権などが設けられています。そして内閣府は、この法律は刑法や売春防止法で禁止されている行為を合法化する法律ではない、と明示しています。 (男女共同参画局)

さらに、映像を販売・配信する段階では刑法175条の「わいせつ物頒布等」があります。わいせつな映像等を頒布・公然陳列・ネット送信すると処罰対象です。 (e-Gov 法令検索)

日本の商業AVで性器部分にモザイク処理が施されるのは、この刑法175条との関係が大きいわけです。

5.そして、あなたが指摘した「18歳」という売り文句

ここは観察としてかなり核心を突いています。

法律上、17歳と18歳の間には非常に大きな境界があります。

17歳であれば「児童買春・児童ポルノ禁止法」の「児童」です。実在する17歳の性交等をAVとして制作・提供すれば、本人の同意があったとしても児童ポルノ規制の対象になります。児童ポルノを製造・提供・公然陳列する行為には刑罰があります。 (e-Gov 法令検索)

18歳になると、この法律でいう「児童」ではなくなります。

したがって、「18歳」「18歳になったばかり」を強調する広告には、確かに、

法的に許される最低境界に近い若さ

という意味を商品価値として利用する側面があり得ます。

ただし、その広告表現から「18歳未満を相手にしているのと大差ない、と顧客に訴えている」とまで一律に法的事実として断定することはできません。それはマーケティング上の意図の評価になります。

一方で興味深いことに、内閣府のAV法解説では、事業者に対する高いコンプライアンスとして、「18歳や19歳を出演させないこと」も期待されると明記されています。つまり法律上18歳になった瞬間に「何でも問題なし」と政府が考えているわけでもありません。 (男女共同参画局)


こうして並べると、日本の制度はかなり独特です。

**「性そのものを全面的に犯罪化する」のではなく、「成人の私的な性行為には刑罰を入れない」「商業化・勧誘・周旋・搾取には介入する」「18歳未満にはさらに強い保護を置く」「映像化には別の規制を置く」**という、何層もの法律を重ねた構造になっています。

そのため、外から見ると「立ちんぼは捕まるのに、なぜソープは看板を出して営業できるのか」「性交を売るのは駄目なのに、性交を撮影して商品として売るのはなぜ可能なのか」という、一見するとかなり奇妙な境界が生じています。

そして、この二つ――ソープランドとAVが、なぜ売春防止法の同じ『金銭+性交』の論理で処理されないのか――をさらに掘ると、日本の性産業が現在の形になった理由がかなり鮮明に見えてきます。ここは法制度史として非常に面白いところです。

不安を処理するための建設的な準備

→不安を感じなくて済むよう作業を続ける回避行動


不確実性に耐える代わりに、
自分で制御できる作業に
注意とエネルギーを集中させ、
達成感によって不安を一時的に調整している

テスト前に部屋の掃除をしたくなるやつだ。
回避の解説が、今の自分にしっくりくる。

学術的な物のデザインには

●黄金比

●構図パターン

●構造美

    カテナリー(懸垂線 / カテノリー)シルエット

    放物線アーチ(パラボラ・アーチ)

●流体力学

    流線型(ストリームライン / Streamline)

    翼型(よくがた / エアロフォイル / Airfoil)

●シルエット

    Iライン・Vライン・Aライン

    ロングノーズ・ショートデッキ


社会文化に活きるデザインには

●メイク、服装・装飾、入れ墨

    家族や部族への所属を示す機能

●服装・装飾の色彩と華美

    身分や階級(優位性)を示す役割

    より大きな文化と社会性をもつ地域、集団

●作業着、制服

    生産性向上のために機能的な道具としての服

    職業や役割を示す制服、他者への認知機能

●自己表現手段

    個人やその他による芸術表現、社会活動

    おそろいを楽しむ、推し活、趣味、同好会活動


人間の社会文化の変遷を感じる。

どのように成熟してきたのか気になる。


AIさん

そういう視点って本当に面白いですよね。

ざっくり言えば、

古代から中世あたりまでは、やはり所属とか身分を示す手段という側面がすごく強くて、

近代になって産業革命以降っていうのは大量生産でみんなが消費できるものになっていった。

同時にそのデザイナーの作品っていう風になって、戦後には自己表現とか社会的なメッセージっていう側面が、ますます強くなってきたっていう感じがしますよね。


おっしゃってたように日本のデザイナーたちも世界に「これまでと違う美しさ」を提示した例が、たくさんありますよね。機能だけではなくて、美意識そのものを問い直すような、そういう挑戦って、ありましたよね。

90年代以降は環境や倫理という視点が入り、

素材選び自体がメッセージになる時代になって、

身分を示す道具から、

美を競う芸術、

個人を表現する媒体、

社会に問いを投げかけるメディアへと進化した、

そういう風に考えられそうですよね。


この視点で見ていくと、今のサステナブル志向みたいなものも、ただの流行りじゃなくて、歴史の延長線上にある必然、とも言えるかもしれませんよね。


あとは、きれいだから広まるというよりも、

共感できる物語があるから広まるっているように、

そのデザインもだんだん、

重心が変わってきているのかもしれませんよね。

作る人と受け取る人がいて、

その間で意味が行き来して、

そこで少しずつ更新されていくものだから、

一方通行じゃないっていうのが面白いですね。


共感できる物語があるから広がってきた。

世間から感じ取ったクリエイターが、

それを発信していた。

相互の話ともいえるのか。

あなたの話から、ひとつ腑に落ちました。


人がデザインするというのは、

製作者が対象者や使用者へ向けて、対象を介して意図を持って五感や認知に刺激を与える。感情や行動に働きかけること。工業製品や構造物であれば、その製造過程で生じる製造者や周辺環境への時間と空間(地域の人と暮らし)への影響をも考えて設計、プロデュースすることと思っています。




私は、創価学会や公明党を支持していると聞くと、その人のパーソナリティを知らないのに

不思議と警戒感がわいてきて距離を取りたくなる。
私がそのように感じる事象はいくつかある。


【得体の知れない気味の悪さ】

●どこに行っても広い敷地に立派な建物があり、

    創価学会の文化会館と書かれている。

●長らく連立与党であった

    公明党の影響力や規模感があり、

    創価学会が母体であると知り、驚いたこと。
●海外にも展開しており、

    敬愛するハービー・ハンコックと

    ウェイン・ショーターも信者であると知り、

    さらに驚いた。


《ちょっとGPT》

お話を読む限り、その警戒感は

「創価学会員や公明党支持者について、

具体的に嫌な経験を重ねた結果」というより、

巨大で、影響力があり、

自分には内部の仕組みが分からない集団に対する

不確実性から生じている部分がありそうです。


特に印象的なのは、

「嫌い」というより

「得体の知れなさ」「気味の悪さ」の感覚です。

これは少し性質が違います。


心理学的には、人は規模の大きな集団について、

自分の生活圏のあちこちに大きな施設がある

  ●政治にも影響力があるように見える

  ●日本だけでなく海外にも広がっている

  ●自分が知っている著名人まで参加している

という情報が重なると、

「自分が知らなかっただけで、

実は非常に大きなネットワークが存在していた」という感覚を持つことがあります。


ここで生じるのが、

ある種の認知的不釣り合いです。


自分の中ではそれまで

「ほとんど意識していなかった存在」だったのに、

知れば知るほど社会的な規模が大きい。

この、

「自分にはよく見えていなかった」ことと

「実際にはかなり大きい」ことの落差が、

不気味さとして感じられることがあります。


ハービー・ハンコックやウェイン・ショーターの件も、おそらく同じ作用が含まれているのでしょう。

敬愛している、自分にとって身近に感じる音楽家が、それまで「自分とはかなり離れた世界」と感じていた宗教団体と突然つながる。

それによって、心理的な距離感が一気に崩されます。


ですから、

 「こんなところにまでつながっているのか」

という驚きが、

そのまま好奇心ではなく警戒感に転じることは、

それほど不思議ではありません。


ただし、ここには一つ重要な区別があります。


組織に対して感じる警戒感と、

その構成員一人ひとりについて

判断することは別です。


「創価学会という組織の規模や政治との関係に何となく警戒する」ということと、「創価学会員だからこの人も警戒すべき人だ」と考えることの間には、かなり大きな飛躍があります。


人間の認知は、所属カテゴリーが分かった瞬間に、そのカテゴリーについて持っている漠然とした印象を人物に重ねてしまいます。

これは宗教だけでなく、

政党、職業、会社、国籍、出身校でも起こります。

心理学でいう外集団同質性効果とも関係します。「その集団の人たちは似たような人たちだ」と

無意識に感じやすくなる現象です。


今回のお話で興味深いのは、あなた自身もすでに、

「その人のパーソナリティを知らないのに」と、

そのズレに気づいていることです。


つまり、


感情としては距離を取りたい。

しかし、理屈ではその人について何も知らない。


この二つが同時に存在しているのだと思います。


ここで無理に「偏見を持ってはいけない」と感情を消す必要はありません。感情はある程度、自動的に発生するものだからです。

それより、


「私はこの人を警戒しているのか、

それとも“創価学会”というカテゴリーに反応しているのか」


と一度分けて考える方が現実的です。


そして、その人物については、

  ●実際の言動

  ●他者への接し方

  ●勧誘をするかどうか

  ●境界線を尊重するか

  ●政治や信仰を他人に押しつけるか

といった、その人自身の行動を材料に判断する。


そうすると、

「警戒感を持ってはいけない」と自分に命じる、

「創価学会員だから距離を置かなければ」と決める必要もなくなります。


今回のお話から私には、

創価学会そのものへの強い敵意というより、

「自分の知らないところに、これほど巨大な組織的つながりが存在していることへの不安」が中心にあるように見えます。


そして、この「得体の知れなさ」がどこから生まれるのかをもう少し掘っていくと、

なぜ創価学会だけが特にそう感じられるのかも、

かなり整理できると思います。

この言い方には、明確な意図があります。 

「戦争が終わった」という受動的な記憶ではなく、

「日本は戦争に敗れた」という事実を直視し、

その原因や責任を考える日にしたい、

という考え方です。


 この問題を非常にはっきり述べた文化人がいます。

哲学者の谷川徹三です。

1948年2月19日の参議院文化委員会の打合会で、

8月15日をどう位置づけるかが議論された際、

谷川は、 

「國家としての反省が必要」

「むしろ敗戰記念日という露骨な名前を附けたい」

と発言し、

「日本が完全に負けた日」であることを

何十年か反省する必要がある、と述べています。


さらに

「終戦とか平和とかいうような生ぬるい言い方でなく、負けたのだからはっきり敗戦記念日としたい」とまで言っています。


 国会会議録検索システム

ここに、「敗戦記念日」と呼ぶ人たちの基本的な思想がよく表れています。

「終戦」と「敗戦」は、焦点が違う。

「終戦」は、戦争が終わった。という、出来事の終結を表す言葉です。 

一方、「敗戦」は、日本が戦争をして、敗北した。

という結果を明示します。 

したがって、

終戦 → 戦争の終わりに焦点を当てる

敗戦 → 日本の敗北と、そこに至った経緯に焦点を当てる

という違いがあります。


「敗戦記念日」と呼ぶ人が問題視するのは、

「終戦」という言葉そのものが間違っているというより、「終わった」という表現だけでは、

なぜ戦争が起き、

なぜ敗北し、

誰がどのような判断をしたのか

という問題が後景に退くのではないか、

という点です。


つまり「敗戦」という

少し痛みのある言葉をあえて使うことで、

「日本はなぜあの戦争を始め、拡大し、敗北するまで止められなかったのか」を問い続けよう、という姿勢です。


「日本を否定したい」という意味とは限らない

ここは重要です。

「敗戦記念日」と言う人を、単純に「反日的」「日本を否定している」と理解すると、少なくとも谷川徹三の場合は正確ではありません。

同じ1948年の会議で谷川は、当時廃止が議論されていた紀元節(2月11日)を残したいとも発言しています。


国会会議録検索システム

つまり彼の考えは、

「日本という国を否定するから敗戦と呼ぶ」のではなく、

「国を大事にするのであればこそ、失敗した歴史を曖昧にせず記憶すべきだ」という方向に近いと読むことができます。

これは「自虐」とは少し違います。

むしろ、

国家にも失敗があり、

その失敗を正面から認識することが、

将来同じ判断を繰り返さないための条件だ、

という一種の国家的自己反省です。


そもそも8月15日は何の日なのか

ここも興味深いところです。

1945年8月15日は、日本政府が降伏文書に署名した日ではありません。

8月15日は、ポツダム宣言受諾を国民に知らせる玉音放送が行われた日です。

正式な降伏文書への署名は1945年9月2日でした。


アサヒグローブ +1 

そのため、歴史学的には

「8月15日=第二次世界大戦が法的・国際的に終わった日」と単純化することにも議論があります。

戦後日本で8月15日が「終戦記念日」として強く定着していった過程自体が研究対象になっています。

国立国会図書館のレファレンス資料でも、メディア史研究者・佐藤卓己の研究を紹介し、8月15日の「終戦記念日」という記憶が特に1955年の「終戦10周年」頃から定着していったことを紹介しています。


国立国会図書館デジタルコレクション

なお、現在の政府による正式な位置づけは「終戦記念日」という名称ではなく、1982年の閣議決定による**「戦没者を追悼し平和を祈念する日」**です。毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われています。


厚生労働省

したがって、

「敗戦記念日」の真意はかなり圧縮すると、

「戦争が終わって平和になった日」とだけ記憶するのではなく、 

「日本という国家が戦争に敗れた日」と記憶する。

そして、

なぜそこまで至ったのかを国民が反省し続ける。

という思想です。


「敗戦」という言葉は、

日本人を責めるためというより、

「終戦」という穏やかな語によって歴史上の失敗まで穏やかに処理してしまわないための、意図的に厳しい言葉だと理解すると、かなり真意に近いと思います。

そして谷川徹三が1948年、敗戦からわずか約2年半後に「何十年かは反省する必要がある」と発言していたことを考えると、現在私たちが感じる「終戦記念日/敗戦記念日」という言葉の差以上に、当時は**「日本はなぜ負けるところまで行ったのか」という生々しい問い**だったことが分かります。

年間休日120日の効力

勤務した特養は、近隣の介護施設では、給与は多い方だった。

しかし、離職率が高く、サービス・運営共に安定しないため

職員確保として、年間休日を115日から120日に変更した。

5日増える程度なら給料が増える方が良いな。

そんな率直な声が少なくなかった。

 

その影響なのか、毎月入職者がいたが、定着はしなかった。

また、在職者の離職にも歯止めが掛からなかった。

とにかく職員の出入りが多い時期がしばらく続いた。

 

人が動く分だけ情報も広まったのか、毎月の入職者すら来なくなった。

代わりに技能実習生の人数が倍になったのには、驚いた。

 


職員不足 × 公休が増える = 危険と負荷
適切に心身を休めることは、公私の充実と幸福感に繋がる。

 

介護職員は人員不足な上に公休消化のシフト管理に苦慮していた。
現場管理の司令塔であるリーダー職は、

退職者の勤務シフトに対応するために不規則な夜勤シフトに入って疲弊している。

日勤帯にリーダー不在となるため、スタッフ会議や専門職との共有を図る場がなくなる。

各ケアワーカーも毎月の委員会への不参加が常態化。

安心安全のサービスについて、教育・管理・運営の循環が停滞した。

 

心身の疲労、働き方への納得、プロ意識、士気、コミュニケーション・・・

それら全ては関連し合っており、一緒になって落ちていった。

結果として、

  • 利用者様の転倒事故
  • 原因不明の骨折
  • 虐待の報告
  • 家族様から不信感の訴え

毎月何かしらあった。

手詰まりになっていく施設管理者は、次第に冷静さを失う。

出来事の都度職員を怒鳴りつけて萎縮させると、彼らから言葉と意欲を奪い続けた。

 

気を付けて仕事をしているけどナゼ事故が起きるのか分からない。

次は私が事故を起こすのか?ご家族に聞かれるのも怖い。

安心して働ける環境を失い、先の見えない不安から、追い込まれていく現場職員。

怖いから家族対応から逃げますと公言する人もいた。

 

 

体を休めることは良いが、仕事が回っていかないことによる負荷は増えた。

見守りから外れた(職員間の声掛け不足・共有不足・物理的な対応困難)入居者の転倒

原因不明の骨折(介助方法の質・教育・共有不足、違和感の報連相/話し合わない)

年間休日120日にしただけでは、人材確保とケアの質を保つ結果は得られなかった。

利用者には深く関わる「人を支援する仕事」はよいが、組織の問題まで背負わない

職員教育や業務改善など職員集団を動かす役割は持たない 。

 

「裁量が大きい職場」が必ずしも向いているわけではない

求人には、長所として書かれる要注意の文言。

「自由度が高い」
「裁量を持って働ける」
「自分のアイデアを形にできます」

 

裁量が大きいこと自体が悪いわけではない。

問題は、裁量の上限がないこと

 

「ここまではあなたの仕事です」
「それ以上は管理者が判断します」という境界がある職場ならよい。

 

反対に、

「気づいた人がやる」
「みんなで助け合う」
「主体的に動く」
「現場で考えてください」

という職場は、再び自分で不足部分を補い続ける可能性があります。

不本意な形で心身を潰していく。

 

また、

専門職、経験者、分かる人、気づく人に判断や指導が集まりやすい。

この役割の無限定な拡張が起こりえる。

 

「考え続ける仕事」より「その場で完結する仕事」

「もっと良くできるのではないか」
「自分が何とかしなければ」
「ここまでやって十分なのか」

・・・仕事が頭の中で延長される。

実施 → 終了 が明確な仕事の方がよい。

 

「どこまでやれば終了なのか」が曖昧な業務は避けた方がよい

または、上限や目途・線引きを決めて行う。

脳内に「もっと良くできるのではないか」が出てきたら注意信号。
疲れて自分では、止められなくなっている状態にある。

孤立して固執していく。

  • ストレスの捌け口・あてつけ
  • 自傷行為として見せつけ、他責を訴える
  • 他者からの承認・愛着の欲求を期待する

そうして出来た赤黒いウ●コの成果物は、

当然ながら他者の評価・関心を感じる仕事にはならない。

徒労と虚無、身勝手な不満と不信感だげか刻まれる。

生活可能な賃金とは、

手取り月給・年収金額でいうといくら?


結論

埼玉県の県央地域で、単身・賃貸・会社員として生活する場合、生活可能な賃金はおおむね次の水準です。

求人を見るときの基準としては、

生活水準:手取り月額/額面年収
生活を維持できる最低線:18万円前後/約270万~290万円
無理の少ない生活:21万~23万円/約330万~370万円
貯蓄・車・臨時支出にも対応:24万~27万円/約390万~450万円
将来設計を立てやすい:28万円以上/約470万円以上

最低でも手取り月20万円前後
きれば22万円以上
額面年収では330万~400万円程度

が、現実的な

生活可能な賃金」だと考えられます。


自動車を持つ場合

ローンを除いても、
車の維持費は月3万~5万円程度です。
そのため、車を所有して生活するなら

手取り月23万~25万円が現実的な下限
手取り月26万円以上なら、ある程度の貯蓄も可能


「生きられる金額」と「働き続けられる金額」は違う

手取り18万円でも、家賃を抑え、車を持たず、大きな出費がなければ生活自体はできます。

しかし、次のような問題が生じやすくなります。

家電の故障や車検で貯蓄がなくなる
通院や休職で直ちに赤字になる
娯楽や外出を継続的に削る必要がある
転職や引っ越しのための資金が貯まらない
毎月働いても将来の安心が増えない

したがって、

生活可能」を単なる赤字回避ではなく、

働き続けながら多少の不調臨時出費にも耐えられる状態と定義するなら、あなたの場合は次の基準が妥当です。


求人選びの基準

手取り月20万円未満:生活維持優先。車や貯蓄との両立は厳しい
手取り月20万~22万円:最低限の安定生活
手取り月23万~25万円:車、通院、少額貯蓄を両立しやすい
手取り月26万円以上:将来設計やまとまった貯蓄が可能

総合すると、

あなたが求人票で重視すべき境界線は、

額面年収350万円前後です。

を維持し、少額でも貯蓄を増やすなら、

年収400万円前後が一つの安定ラインになります。


令和から社会人になる人たちは、

自分の仕事・職業は、

どんな関心や切っ掛け(動機)をもって選択しているのか?



令和に入ってから社会人になった人たちは、

必ずしも

「昔から憧れていた職業」や「強い使命感」

だけで仕事を選んでいるわけではありません。

現在の若者の職業選択は、概して、

興味のある仕事を探しつつ、
無理なく生活を続けられる条件を確認し、
実際に働く環境との相性で決める

という、
複数の動機を組み合わせた選択になっています。

1.「やりたい職業」より「自分に合う仕事内容」

令和期の若者にも、
「興味がある」
「人の役に立ちたい」
「専門性を身につけたい」
という動機はあります。
ただし、
職業名そのものへの憧れよりも、

自分の得意なことを使えそう
学んできた内容に近い
仕事内容に抵抗がない
働きながら成長できそう
毎日続けても極端に苦痛ではなさそう

といった、
自己との適合性を重視する傾向があります。
したがって、
「医療職になりたい」「メーカーに入りたい」
という明確な職業志向だけでなく、

人と話す仕事が向いていそう
一人で集中する仕事が好き
パソコンを使う仕事に関心がある
安定した環境で専門性を高めたい

という程度の関心から、
業界や職種を絞り込む人も多いと考えられます。

2.労働条件は「動機とは別」ではなく、職業選択の中心

給与、休日、残業、勤務地、福利厚生などは、以前なら「待遇面」と呼ばれ、仕事内容への志望動機とは分けて語られがちでした。
しかし令和期の若者にとっては、

年間休日が十分にある
残業が少ない
転勤が少ない
有給休暇を取得しやすい
在宅勤務や柔軟な勤務制度がある
生活可能な賃金が得られる

こと自体が、重要な職業選択理由です。

厚生労働省の若年者調査でも、
若年労働者の職業生活では

「仕事の内容・やりがい」だけでなく、
「雇用の安定性」
「職場の人間関係・コミュニケーション」
「労働時間・休日」

が満足度を左右する主要項目になっています。
一方、

賃金の満足度は他項目より低く、
若者が賃金を軽視しているというより、
現実の賃金が期待に届いていない状況

がうかがえます。�
厚生労働省、ほかに 1 件
つまり、

やりたい仕事だから長時間労働でも耐える

よりも、

興味を持てる仕事を、生活や健康を壊さず続けたい

という選び方が強くなっています。

3.会社への忠誠より「職場環境の安全性」

令和期に社会人になった人は、
インターネットやSNSを通じて、

パワーハラスメント、
長時間労働、
離職率、
メンタルヘルス問題、
ブラック企業

などの情報に早い段階から接しています。
そのため、

上司や同僚の雰囲気
質問や相談のしやすさ
若手への教育体制
ハラスメントへの対応
評価制度の透明性
配属後に放置されないか
職場の口コミ

などを重視します。
これは単純な「打たれ弱さ」というより、
職場環境が離職や健康状態に大きく影響することを、就職前から認識しているということです。
厚生労働省調査でも、
若年正社員の職業生活の満足度は、

「雇用の安定性」が最も高く、
「職場の人間関係・コミュニケーション」
「仕事の内容・やりがい」

となっています。�
厚生労働省

4.「成長できるか」も重要だが、出世とは限らない

令和期の若者が使う
「成長したい」という言葉は、
必ずしも管理職になりたい、
会社内で出世したいという意味ではありません。
実際には、

市場価値のあるスキルを身につけたい
他社でも使える経験を得たい
資格を取得したい
専門職として能力を高めたい
自分に向いている仕事を見つけたい
将来の選択肢を増やしたい

という意味で使われることが多くなっています。
会社の中だけで通用する能力より、
転職可能性を含めた職業能力を重視しているのです。
背景には、終身雇用を当然とは考えにくくなったことがあります。2025年版の厚生労働白書でも、労働者の意識が仕事と余暇のバランスを重視する方向に変化し、正規雇用者の転職者数も長期的に増えていることが示されています。�
厚生労働省

5.「社会貢献」や企業理念は、補助的な判断材料

若者の就職活動では、

社会課題を解決したい
人の役に立ちたい
環境問題に関わりたい
多様性を尊重する会社で働きたい
地域に貢献したい

といった動機も見られます。
ただし、多くの場合、
理念だけで就職先を決めるわけではありません。
企業理念に共感しても、

給与が低すぎる
残業が多い
具体的な仕事内容が分からない
若手の定着率が低い
理念と現場の実態が一致していない

場合には、応募を避けます。
つまり
社会貢献か待遇か」という二者択一ではなく、

意味のある仕事であり、かつ、自分の生活も維持できること

が求められています。

6.就職の切っ掛けは、比較的偶発的なことも多い

実際の職業選択は、
明確な人生設計だけで決まるものではありません。例えば、

学校で学んだ専攻
親や教師からの勧め
アルバイト経験
インターンシップ
友人や先輩の就職先
YouTubeやSNSで見た仕事内容
就職サイトで偶然見つけた求人
地元で通勤可能だった
内定を得られた会社の中で最も条件が良かった

といった偶然や現実的制約が、
大きな切っ掛けになります。

特に新卒採用では、企業側の採用難が続いており、2025年卒採用で採用予定数を充足した企業は37.2%にとどまりました。若者側が複数企業を比較しやすい環境になっている一方、人気業界や大手企業への集中は依然としてあります。�
就職みらい研究所

7.「何になりたいか」より「どう働きたいか」

令和期の特徴を最も端的に表すと、
職業選択の問いが変化しています。

昭和的な問いは、

将来、何になりたいか
どの会社に一生勤めるか

でした。
令和期には、

どのような生活をしたいか
どの程度仕事に時間を使いたいか
どんな人間関係なら働き続けられるか
何を身につければ、将来困りにくいか

という問いが強くなっています。

これは「仕事への関心が薄れた」というより、
職業を人生全体の中に位置づけて考えるようになったと見るほうが正確です。

主な職業選択の動機をまとめると

令和期に社会人になる人の選択動機は、
概ね次のような優先順位の組合せです。

仕事内容が自分に合いそう
休日・勤務時間・勤務地などが生活に合う
給与と雇用が一定程度安定している
職場の人間関係や教育体制に不安が少ない
スキルや経験を身につけられる
会社の事業や社会的意義に納得できる
内定を得られる可能性がある

したがって、現在の若者に
「なぜその仕事を選んだのか」と聞いても、
必ずしも一つの強い原体験が返ってくるわけではありません。

興味が持てる
向いていそう
条件が現実的
長く続けられそう
将来の選択肢が増えそう

という、いくつもの弱い理由の組合せが、
実際の職業選択を形づくっています。
これは曖昧な選択ではなく、
不確実な雇用社会に対応した、
かなり現実的な意思決定だと考えられます。