改:第718話.スミレ【連枝の行方.第二部⑦】 | 風月庵~着物でランチとワインと物語

風月庵~着物でランチとワインと物語

毎日着物で、ランチと色々なワインを楽しんでいます。イタリアワイン、サッカー、時代劇、武侠アクションが大好きです。佐藤健さんのファンで、恋はつづくよどこまでもの二次創作小説制作中。ペ・ヨンジュンさんの韓国ドラマ二次創作小説多々有り。お気軽にどうぞ。

第718話.スミレ

【連枝の行方.第二部『世界は愛に満ちている』⑦】

目覚めたジュンサンは忘れていた記憶を徐々に取り戻し始めた。朧(おぼろ)げではあるが、ソウル科学高校や春川第一で過ごした自分も思い出した。

退院したジュンサンは祖父母の紹介で新築のマンションへ引っ越すことになった。退院直後は何日か祖父母の家にいたが、幾らも経たぬうちにマンションを探し始めた。祖父のジョンホは孫のために中央建設の本社が管理するマンションを提示した。
「ここはどうだ。今月完成したばかりの新築だ」
「あぁ、これは良いですね」
「部屋を見に行きましょう」
ジュンサンは一目でその部屋を気に入った。
「ここなら落ち着いて過ごせそうです」
「お友達と飲み過ぎないようにね」
「はい、おばあ様」
「時々顔を見せてね」
「週末にはご一緒します」
「楽しみに待っているわ」

直ぐに契約は済ませたが、それまでホテル暮らしだったものだから、家財道具はおろか日用品も揃っていない。冷蔵庫は届いたが食器もキッチン用品も無い。
「私に任せて」
ユジンは大急ぎで用意すると言ったが、ジュンサンは首を振った。
「慌てる事はない。ずっと使う物だからじっくり選ぼう」
「ソウル科学高校のお友達が来るんでしょう」
「あぁ、引越しにかこつけて一緒に飲みたがっているよ」
「じゃあ、お料理は私が作って持っていくわ」
「大食漢のウォンセもいる。一人では大変だよ」
「ケイタリングを調べてみる?」
「ユジン、君も少し休まないと」
「大丈夫よ」
「無理しないで。君が倒れたら僕はどうすればいいんだ」
ジュンサンはユジンの背中を優しく包み込んだ。
「クム・ジェビン先輩が気を利かせてくれて城北洞の自宅で用意して下さるそうだ」
「そうね、その方がジュンサンも疲れないわね」
「ユジンも一緒においで」
「私はいいわ」
「セビンちゃんに赤ちゃんが生まれたんだ。見に行こう」
「わぁ~」
「今は城北洞の実家にいる。可愛い男の子だとウォンセが自慢しているんだ。ジェビン先輩のところは子沢山だから賑(にぎ)やかだよ」
「病院の礼拝堂ではヒョリンさんにとても励まされたから、お礼をしに行こうかな」
「そうしよう」
「子供たちにもプレゼントを持って行かなくちゃ」

ユジンは本屋で何冊か絵本を選んだ。
「どれにしよう」
「ゆっくり選んで」
その間ジュンサンは本を立ち読みしていた。やがて詩集の棚にやって来たジュンサンは、徐(おもむろ)に一冊の本を手に取った。
「ワーズワースか」
詩集を広げた横からタイミングよくユジンが顔を出した。
「何を見ているの」
「ウィリアム・ワーズワーズの『ルーシー詩編』だよ」
「ふうん」
「イギリスのロマン主義の代表的詩人なんだ」
ユジンと頬を寄せたジュンサンは、囁(ささや)くように読み始めた。

『微睡(まどろみ)がわたしの心を封じ、人の世の恐れは消えた。

あの女(ひと)はもはや感ずることもない、この世の時の流れに触れて。

身じろぎひとつせず、力もなく、聞く耳も見る目もなく日々廻る大地の動きの中で、岩や石や木々と変わりなく。

その女は人里離れて暮らした。鳩という名の流れの水源に近く。

その女を褒めそやす人はなく、愛する人とても数少なく。

苔むす岩かげの菫(スミレ)のごとく。

人の目につくこともなく。

星のごとくに麗しく、ただ一つ輝く星のごとくに。

人知れず暮らし、知る人ぞ知る、ルーシーが逝ったのはいつ。

地下に眠るルーシー、ああ、かけがえのないルーシー。

彼女はダヴの泉のかたわら、人の訪ねぬ地に住んでいた。

讃える人なく、愛する人なき孤独の乙女。

人眼になかば隠れし。

苔生す岩根に寄り添う菫(スミレ)、空の中にただ一つ輝く星に似て美し。

人は彼女の日々を知らず、また知ることもなし。

ルーシー逝きし、いまはの時を。

乙女はいま奥津城に眠り、ああ我ぞ詮(せん,なす)すべもなし』

「誰からも注目されないルーシーを、ひっそりと咲くスミレの美しさに例えたんだね」
ユジンは懐かしむように言った。
「サンヒョクが『スミレ』の曲をリクエストしてくれた事があったの」
「リクエスト?」
「私に聞かせるために自分が担当するクラシックのラジオ番組で掛けたのよ」
「嬉しかったろう」
「えぇ、とても」
それは、さりげなく見守るサンヒョクの優しさ、そのものだった。
「行こう。ウォンセの赤ちゃんのプレゼントも買わないと」
「可愛いのを見つけなくちゃ」
二人はそう言って顔を見合わせると、笑いながら腕を組んだ。

二人が立ち去るとサンヒョクは本棚の前に姿を現した。一冊だけ僅(わず)かにはみ出した本がある。さっきまでユジンとジュンサンは仲睦まじく頬を寄せ合い、楽しそうにこの詩集を読んでいた。
『ユジン』
僕は心の中で何度も君の名前を呼んだ。
『僕はここにいるよ』
ユジンは一度も僕に気づくことはなかった。その目はジュンサンだけを見ていた。

サンヒョクは詩集を手に取るとパラパラとページを捲(めく)った。
「スミレか」
ラジオから流れる『スミレ』をユジンは笑顔で聞いていただろう。その笑顔はもう自分には向けられないのだ。

詩編の下には解説が書かれていた。儚(はかな)く消え行くスミレと共に、死という形で妹ルーシーへの思慕を断ち切ったというワーズワース。
『ユジンと僕も、いっそ姉と弟だったら、こんな風に断ち切れたのに』
それは偽りだと分かっていた。もう一度『スミレ』を掛けたら、ユジンは気づいてくれるだろうか。優しい眼差しで僕を見つめるだろうか。その答えは誰がくれるのだろう。

サンヒョクは苦い思いを飲み込むと、静かに詩集を閉じた。

参考:『対訳ワーズワース詩集』山内久明編(岩波文庫)

次回:第719話.つかの間の幸福

(風月)