改:第713話.ハミングは繰り返す【連枝の行方.第二部⑦】 | 風月庵~着物でランチとワインと物語

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第713話.ハミングは繰り返す

【連枝の行方.第二部『世界は愛に満ちている』⑦】

朝食を済ませたジュンサンはCDを取り出すとケースの中にメモを忍ばせた。これが今の僕の気持ち。精一杯の僕の気持ち。ユジンのクリスマス・プレゼントのためにピアノを弾いたジュンサンには敵(かな)わない。春川の家で見つけたカセットテープ。あの中でジュンサンは何度も『はじめて』を弾いていた。繰り返し繰り返し、そうして『はじめて』を弾く度(たび)にユジンの驚く顔や喜ぶ声を思い浮かべ、胸をときめかせたのだろう。

ニューヨークの家にあるピアノは見向きもしなかった。鍵盤に触るどころか蓋(ふた)を開けたこともない。カン・ジュンサンはピアノを弾いた。けれどイ・ミニョンはピアノは弾けないからだ。ソウル科学高校の友人たちに会った時、ジュンサンはピアノを弾いたと聞いた。孤児院の子供たちやヒョリンさんの歌の伴奏と、頻繁に弾いていたのなら春川第一でもきっと弾いたはずだ。スキー場に置かれた埃(ほこり)まみれのピアノに触れた時、どうして僕は弾けたのだろう。あの時キム次長とは何を話していたんだっけ。
「愛する女性?」
愛する女性か…今の僕ではなく、高校生の僕の恋、淡い恋、初恋。ユジンにとっても僕にとっても、絶対に再現出来ない宝物。僕はその欠片(かけら)の一つを愛する女性の元へ置いていこう。僕はどうしよう。練習したらまた弾けるだろうか。

ホテルを出たジュンサンは空港へ向かって歩き出した。ホテルからタクシーに乗らなかったのは、もう少しこの街を見ておきたいから。ユジンと過ごしたこの街。僕がいるマルシアンがあり、ユジンがいるポラリスがあり、チェリンのブティックがある。サンヒョクがいるラジオ局やヨングクの動物病院。チェリンとよく行ったレストランやキム次長と飲んだバー。あぁ、ユジンとは、まだ行きつけの店はなかったな。城北洞へ目を向ければソウル科学高校がある。青瓦台で過ごした夏を僕は覚えていない。大統領官邸なんて滅多に入れるものではないのに。

ジュンサンは寂しげに目を伏せた。春川を訪れても、ジュンサンが何処で何をしていたか、誰も教えてくれなかった。唯一ソウル科学高校の仲間たちが春川の冬の祭典に訪れた事を教えてくれた。大統領夫妻がボランティアで訪れたのに発電機がショートして停電した会場は大騒ぎになったと、マシューは身振り手振りで教えてくれた。ふと疑問が湧いた。だいたい僕は何で春川第一へ転校したのだろう。高二の冬という中途半端な時期に。
『それはジュンサンが』
『おい、マシュー。やめておけ』
『何でだよ。ウォンセだってジュンサンが春川へ行くのは…』
ジェビンは二人の会話を遮(さえぎ)った。
『ニューヨークへ帰る前にお母さんの母校へ行ってみたかったんだよ』
母の母校と聞いても不思議と実感はなかった。

ジュンサンは楽器店の前で歩みを止めた。ショーウィンドーにレトロな映画のポスターが貼られている。ディスプレイ用なので、たぶん本物ではないだろう。それでもこの風景に懐かしさを覚えた。
『何処かでこうして飾ってあった』
床に重なり合い埋もれたポスターに見覚えがある。あれは『プリティ・ウーマン』だ。

気がつくと楽器店のドアを開けていた。あまり広くないフロアーの奥には古ぼけたピアノが見える。ジュンサンは吸い寄せられるようにピアノの前に立った。
「弾くかい?」
初老の店主は言った。
「型は古いが今しがた調律したばかりだ。良い音が出るぞ」
ジュンサンは鍵盤へ指を置いた。奏(かな)でたのは『はじめて』だった。ピアノの音は幾らも行かぬうちに途切れてしまった。
「どうした」
「あれ、どうだったかな」
彼は何度かハミングを繰り返えすと恥ずかしそうにはにかんだ。
「このあと、忘れちゃいました」
誰かもそんな事を言っていた。遠い記憶にあるその曲の続きを彼は弾いた。
「トロイメライか。だが何で途中から弾くんだ?」
「さぁ」
彼はその曲を最初から弾いた。
「何だ、トロイメライは弾けるのに『はじめて』は弾けないのか」
店主に笑われジュンサンは頭をかいた。
「ずっと忘れていたんです」
「じゃあ、もう少し弾いてみろ。思い出すかも知れないぞ」
「『はじめて』はそのうち弾きます。別の曲を」
彼は軽快な曲を奏でた。
「『オー・プリティ・ウーマン』か。映画の主題歌にもなったな」
「はい」
「随分と男前だがプリティ・ウーマンは見つけたか」
「えぇ、ずっと前から」
「リチャード・ギアより前からか?そりゃあ、見る目がある」
「ジュリア・ロバーツより可愛いです」
「言うねぇ」
店主はスーツケースへ目をやった。
「旅に出るのか」
「はい、ニューヨークへ戻ります」
「プリティ・ウーマンも一緒か」
「いいえ」
「置いて行くのか」
「仕方ないんです。僕がリチャード・ギアだって信じてくれないから」
「それは困ったな」
「はい、困りました」
二人は一頻(ひとしき)り笑うと握手を交わした。
「もう行きます。ありがとうございました」
「あぁ、達者でな」
店を出るとき店主は言った。
「鼻歌を歌っていろ。思い出すかも知れないから」
「そうします」

空港へ着いたジュンサンは『はじめて』を口ずさんでいた。ハミングを繰り返しているうちに、何処となくメロディが浮かんできた。
『あぁ、たぶんこれでいい』
繰り返し繰り返し、時にはトロイメライとオー・プリティ・ウーマン、そしてまた『はじめて』。
「♪ルル、ルルル~」
喧騒の中にハミングが流れる。ユジンはその背中に叫んだ。
「ジュンサン!」
「ユジナ!」
ハミングは途切れ二人は駆け寄った。
「ジュンサンなんでしょう」
『あぁ、ユジン。僕だよ、僕がカン・ジュンサンだ』

抱きしめられた腕の中で、私は『はじめて』のハミングを聞いた気がした。

次回:第714話.ユジナ

(風月)