改:第712話.守らなかった約束【連枝の行方.第二部⑦】 | 風月庵~着物でランチとワインと物語

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毎日着物で、ランチと色々なワインを楽しんでいます。イタリアワイン、サッカー、時代劇、武侠アクションが大好きです。佐藤健さんのファンで、恋はつづくよどこまでもの二次創作小説制作中。ペ・ヨンジュンさんの韓国ドラマ二次創作小説多々有り。お気軽にどうぞ。

第712話.守らなかった約束

【連枝の行方.第二部『世界は愛に満ちている』⑦】

いよいよニューヨークへ旅立つ日がやって来た。ミニョンはベッドの上で眩(まぶ)しそうに目を細めた。冬だというのに今朝は春のように暖かい。荷物をまとめた部屋は殺風景なほどに広くて、あるものといえば飲みかけのウイスキーの瓶(びん)とグラスくらいのものだ。窓辺に寄り掛かり、傾けたグラスの中の氷は今は跡形も無くなっている。溶けて水になった氷は、こんなにも少ないものなのだろうか。せめてジュンサンとしての記憶も、ほんの少しあったならユジンへ置いて行けるのに。残像は溶けた氷に漂う上澄みのウイスキーのように虚しい。

ミニョンはベッドから起き上がると冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。ボトルのキャップを捻(ねじ)り取り、勢いよく視線の外へ放り投げるのはいつもはしない事だ。行儀悪く投げ捨てたところで荷物が無くなり伽藍堂(がらんどう)になったフロアーでは、直ぐに見つかるだろう。腰を屈(かが)め、目を凝らして見なくても、足元の感触で分かるだ。運悪く何処かに紛れたとしても、ハウスキーパーの掃除機が上手く吸い上げてくれる。そうは言ってもこんなところをユジンに見つかったら怒られるに決まってる。チョン・ユジンはそういう女性だ。

皆、ユジンは面倒見が良いと言っていた。歳の離れた妹はまだ高校生だ。妹がそんな事をしたら、しっかり者の姉に叱られるだろう。
『何してるのよ。ちゃんとゴミ箱へ捨てなきゃダメじゃない』
そう言いながらユジンは空になったペットボトルも片付けるだろう。
『サンヒョクはそんなことはしないだろうな。キム・サンヒョクは優等生だから』
そう言ったのは誰だったろう。ジュンサンは頬杖を付くと目を閉じた。
『優等生くん』
『よせよ、そんな言い方』
『じゃあ、優等生野郎』
『何だと、もう一度言ってみろ』
『アハハ~キム・サンヒョクの優等生野郎』
『逃げるな、ユジン』
『きゃ~』
帰り道、じゃれ合い、ふざけ合いながら坂道を下りて行った二人の姿は、僕の想像だろうか。それとも眠っていたカン・ジュンサンの記憶だろうか。頭の中に浮かぶモノクロで曖昧(あいまい)な映像は、古い映写機のフィルムのようにカタカタと音を立てて一本のリールに収まった。
『それでいい。カン・ジュンサンの思い出はユジンが持っていればいい』

ジュンサンは着替えを済ますと一階のラウンジへ下りた。ここの朝食を口にするのも今日で最後だ。いつもより早く目を覚ましたせいで時間はたっぷりある。席に腰を下ろしたジュンサンは徐(おもむろ)にメニューを手に取った。いつも決まってパンとコーヒーといった軽めの朝食なので、メニューはよく見た事がない。そこには韓国式の朝の食事が並んでいた。祖父母の家で出てきた豪華な朝食は美味しかった。それより思い出すのは別荘でユジンが作ってくれた朝食だ。美味しくて温かくて嬉しかった。あの朝食を毎朝食べられたら、どんなに幸せだったろう。それも叶わぬ夢となった。

ジュンサンはウェイターを呼んだ。
「韓国式の朝定食があったのですね。気づかなかったな」
「美味しいと皆様よくご注文されますよ」
「そうか、たくさんあるけれど、どれがいいのかな」
ウェイターはメニューを指し示しながら親切に教えてくれた。
「朝ですとお粥(かゆ)もよろしいですよ。豆や木の実のお粥では、チャッチュッ(松の実のお粥)、ケッチュッ(ゴマ粥)、パッチュッ(小豆粥)、ノットゥチュッ(緑豆粥)がございます。海鮮粥では、チョンボッチュッ(アワビ粥)、クルチュッ(牡蠣粥)、セウチュッ(エビ粥)。肉のお粥では、タッチュッ(鶏粥)、ソコギチュッ(牛肉粥)。野菜のお粥は、ホバッチュッ(カボチャ粥)、ヤチェチュッ(野菜粥)がございます」
「昨晩はいつもより少し多めに飲んだから、お粥はいいね」
「それですと、二日酔いに効くヘジャングッ(解腸スープ)、コンナムルクッパッ、ソルロンタンなどはいかがでしょう。ヘジャングッは酔い覚ましスープと言われています。当ホテルのヘジャングッは牛骨スープの味噌風味。豆もやし、大根、白菜、ネギなど野菜をふんだんに入れて煮込み…」
「二日酔いまでは行っていない。やはりお粥にするよ」
ジュンサンはウェイターを見上げた。
「ホバッチュッ(かぼちゃのお粥)にしよう。一番優しい味のようだから」

目に止まったのは離れた席で美味しそうにホバッチュッを食べる少女の姿だった。
『可愛いな、シンシアに似ている』
彼女に言われた言葉を思い出した。まだニューヨークへ帰って来てはいけないと。今はダメだと言っていた。
「ごめんね、シンシア。約束を守らない僕を許してくれ。僕はニューヨークへ戻るよ」

記憶を無くしていた僕は、今までどれほど多くの約束を守らなかったのだろう。ユジンとの約束も友達との約束も守らなかった。そして今、僕は小さなシンシアと交わした約束を破ろうとしている。
「シンシア、君に会いたい。会いに来てよ。そうしてその愛らしい手で僕を抱きしめ、慰めてくれるかな」
ユジンの手ではない暖かなその手で。シンシアの姿はいつしかミニョンへ変わっていた。
「ミニョン、約束を守らない僕を叱り、強く抱きしめてくれ」
甘く優しいはずのカボチャのお粥は、うっすらと涙の味を含んでいた。

次回:第713話.ハミングは繰り返す

(風月)