改:第81話.夜間飛行【連枝の行方.第二部①】 | 風月庵~着物でランチとワインと物語

風月庵~着物でランチとワインと物語

毎日着物で、ランチと色々なワインを楽しんでいます。イタリアワイン、サッカー、時代劇、武侠アクションが大好きです。佐藤健さんのファンで、恋はつづくよどこまでもの二次創作小説制作中。ペ・ヨンジュンさんの韓国ドラマ二次創作小説多々有り。お気軽にどうぞ。

第81話.夜間飛行

【連枝の行方.第二部『世界は愛に満ちている』①】

ソウル発~ニューヨーク行き。飛行機はカン・ミヒを乗せ夜の金浦空港を飛び立った。

翼の向こうにソウルの明かりが煌(きら)めいている。ミヒは頬づえを付きながら、ぼんやりとその光景を眺めていた。漢江の向こうには大学路がある。
『あの辺りに器楽科があって工学部はその向こう。ヒョンスとジヌの家へ行くには大学路を下って…』
どういう訳かその辺りだけ煌(きら)めく明かりが見当たらない。
『そうよね。もうあの家には誰もいないもの』
ミヒは小さなため息をつくと視線を移した。

一層明るく輝く辺りは明洞だろう。あの日、明洞グランドホテルのフロアーからヒョンスと二人で光の滑り台を眺(なが)めていた。忘れられなかった初恋の人。私はヒョンスの愛に包まれて幸せだった。
『幸せ…』
父様の愛、母様の愛、ヒョンスのお父様もお母様もとても優しかった。なのにどうして私の隣にヒョンスはいないのだろう。街の明かりが涙で霞(かす)み、込み上げる思いが喉の奥から塊(かたまり)となって上がってくる。無理矢理飲み込んだミヒは焼ける様な胸苦しさを覚え、慌てて口元を押さえた。

「どうした、ミヒ」
通路を挟んだ席からテワンが覗(のぞ)き込むと、ミヒは視線だけをこちらへ向けた。
「酔ったのか。それなら酔い止めの薬を…」
「いらないわ」
そう言ってミヒはまた口元を押さえた。
「大丈夫か」
「えぇ、何も食べていないから気持ちが悪くなったみたい」
「そうか、何か胃に入れた方がいいぞ」
ミヒは喉の渇きを覚えた。
「オレンジジュースが飲みたいわ」
「では軽いお食事もご用意致しましょう。何がよろしいですか」
「食べたくないの。今はオレンジジュースだけでいいわ」
「畏(かしこ)まりました」
ドンヒョンの声を聞きながら、ミヒは胸元を押さえ静かにシートへもたれた。

実際のところ、ここ数日は身体がだるく、日中でも眠たくて仕方がなかった。かと言って外へ出るのも億劫(おっくう)で、部屋の中で一日中ぼんやりとしていた。今まで生きてきて、こんな時間を過ごした事は一度もなかった。何をすればよいのだろう。ピアノを弾く以外、私は何をすればいいの?

あの日以来、ジヌは一度だけミヒの元を訪れた。彼女は薄暗くなった部屋の真ん中で、背中を向けて座っていた。
「ミヒ…」
名前を呼ばれても彼女は振り向かなかった。
「どうしたんだよ。明かりも点けなきゃ泣いていても分からないだろう」
冗談でわざと明るく言ったのに、見上げた眼差しは涙に濡れていた。
「ごめん…」
「私に触らないで」
ミヒは差し出されたジヌの手を振り払った。
「何もしないよ」
ジヌはうつ向いたまま、少し離れた場所へ腰を下ろした。

ミヒはそれと入れ替わりに立ち上がった。
「何処へ行くんだよ」
彼女は無言のまま窓辺に立った。
「何をするんだ」
「窓を開けるだけよ」
細く白い指が窓を開け放つと、ジヌはホッと息を吐いた。
「私がまた何かすると思ったの」
「いや」
「そうしたらまた助けてくれる?」
「バカな事はやめろ」
「しないわよ。私にはもう、誰かのためにやる事なんて何もないもの。そうでしょう」
ミヒは自嘲ぎみに笑うと吐き捨てる様に言った。
「ヒョンスは私を捨てたのよ」

ジヌは振り向いたミヒから視線を反らした。
「ジヌ、泣いているの?」
「泣いちゃ悪いか」
ジヌは流れる涙も拭(ぬぐ)わず、嗚咽(おえつ)する口元を押さえた。
「ごめん…守れなくてごめん」
「いいのよ。ありがとう、ジヌ」
「ミヒ」
「勘違いしないで。私はあなたを愛したことなど、一度もないわ」
「分かっている」
ジヌは涙を拭(ぬぐ)うと部屋の明かりを点けた。
「ホントだ、泣いている時は明かりは点けない方がいいね」
笑顔を向けても、ミヒはぼんやりとしたまま何も答えなかった。

ジージーと鳴る蛍光灯の音が途切れた会話を埋めていく。ジヌは意を決した様に話し出した。
「僕がここへ来るのは今日で最後だと思う」
「何処かへ行くの?」
「あぁ…うん」
ジヌは言葉を濁した。ミヒにはチヨンと結婚するとは言えなかった。
「大学の研究室へ詰めなきゃならないんだ」
「そう」
ミヒは微かに微笑むと窓の向こうへ視線を移した。
「私も何日かしたらここを出て行くわ」
「ソウルへ戻るのか」
「いいえ、アメリカへ行くの。向こうでもう一度、手術をするの」
「そうか、治るんだな」
「分からないわ」
「そんな事言うな。必ず治るから。そしてまたピアノを弾くんだろう」
ジヌの言葉に堪(こら)えていた涙が溢れた。
「応援している。これからも君の事をずっと見守るから」
「私の事は忘れて」
「いや、忘れない」
「私はヒョンスを好きだったのよ」
「分かっているよ、そんな事」
「どんなに優しい言葉を掛けられても、私の心は決してあなたへは向かないわ」
「それでもいいんだ。僕は君を好きだったから」

常夜灯の向こうで夕暮れが宵闇に変わっている。ジヌは玄関へ立つと躊躇(ためら)いがちに呟(つぶや)いた。
「東海建設はかろうじて倒産は免れたよ」
「そう」
「融資をする銀行が現れたんだ。セウングループと取引のある銀行だそうだよ」
何を聞いてもミヒは表情を変える事はなかった。
「じゃあ、行くね」
「さようなら、ジヌ」
「さようなら、ミヒ」

ジヌは立ち止まると僅(わず)かに振り向いた。そこにミヒの姿はもうなかった。ジヌはため息をつくと足早に坂道を下って行った。

次回:第82話.ホワイトナイト

(風月)