雨ネタ:英会話できますか?
いっぱい聞けていっぱい喋れる♪の御サルさんが大変なことになってますね。
いっぱい喋れるのCmに反して、ぜんぜん予約が取れなくて憤慨してる受講生が
たくさんいて、戦後最大級の被害者数かもしれないらしいです。
でもそれだけ英会話できるようになりたい!って思う人が多いのも事実です。
投稿期間:2007/11/07~2007/11/21
英会話?
ロック・ミュージック 好きですけど
できません!
…いや、ベリーlittleです。
んなこたぁ、どうでも、音楽に国境はない!
自然界に生かされる人間に言葉の壁はない!
ところが、世間様と俺の間(?)には
なぜっか、大きく聳える壁のような…
それでいて実は、
貧弱な金網のフェンスみてぇな、
体制側の教育常識世界に燻る大衆意識…
が、行く手を阻んでる…
いや、さいきん は…そうでもない…かな 。
だいじょうぶ。 …その雨も、いつかきっと
やんで、デッカイ虹を仰ぐ日もくる。 必ずな。
誰も そんな約束はできないけど、そういうことになってんの。俺の周りでわ。
つうことで(?)、ある日、あることをきっかけに
近頃、アメーバさんのペタ機能 ってのを遣ってみることにした。
今までは対応がめんどくせぇので
みなさまのブログにも、貼り逃げ!状態でしたが (すんまへん。)
やはり、他のブログサービスには あまりない機能も
遣ったほうがいいような気持ちになって
そういうところから繰り拡げられる、出逢いと湧かれもあっていいのでわ…ないかと…
日本人てのは、ここ何十年も、横にいる異人・変人には声をかけづらく
昭和の20世紀末から今日まで、外国人とも他人行儀につきあってきたわけで
そればかりか、大人も子供も関係なく
同じ日本人なのに、どうもウワベだけで仲の善さそうな身振り手振り、口ぶり買い被りも多いし…
そういう、画期的!な機能も、遣い方によっては便利かな…
とか、今頃になって いろいろと見つめなおしてみたりしているわけ。
…ああ、今日の朝。通勤時間に、
海の向こうではなく、スグ近く。 目の前に
でっかい虹が出てたよ。
そういう清々しい朝の中、
人間の胃の痛みや頭痛…、膝関節を覆う筋肉の修復とか
慢性の便秘や軽度な生理痛の克服…
そういう日常的に大勢の日本人が抱えている肉体的な問題の解決について
自分の肉体を最期まで自分で面倒みるには、どうすりゃぁいいのかってことを
ずぅっと想いを巡らせながらクルマを運転してると
なんだかねぇ、いろいろとヒラメキやトキメキもあって
んじゃぁ、これは世界中の人間へ向けて伝達したほうがいいじゃん!
て気持ちが高まってくる。
神や仏もヒトを救わない時代、
虹を見るのはジュディ・ガーランドだけではない。
…こうなるともう、話が通じる人も日本人…普通の人には いないかもしれないけど
普通ってなに?
人間として あたりめぇに生きて、自分自身に対してどこまでも
クリアーな正直さ、素直さを見失わずに心と身体が健全なヒトが数すくない今の世の中で
「普通」とか、「世間一般常識的に…」とか、
カンケーネーナ! だよ。
でも俺は、なれるもんなら、普通の人間になりたいよ。
ボディジャック現象 なんて一切ナシで
全身の血の巡りも、好奇心旺盛にどんなことにも立ち向かってゆく勇気も
なるたけ産まれた頃に近い状態で
そういう正常な肉体と精神のバランスを保って
太陽の下で澄みきった空を仰いで
汚れていない空気を肺に吸い込んで
汚れていない物をみんなでおいしく食べて
ウンコもシッコも滞りなく出して
病気や怪我の因果も、そっちの方から関わりが持てないくらいの
生きるエネルギーを漲らせて
雨に負けても風に叩かれても
事故や災難の不運なんてのは、最初から呼び寄せなきゃいい。
そんなスーパーサイア人がセンズを持って歩いてるような姿には
もう誰も成れはしないけど
言葉では どうにもならなかったことを
俺は言葉によって どうにかするつもりでいる。
なぜなら、“言葉を交わす”という超能力を持たされて生きて生かされているのは
この世で人間だけだからな。
人類とは、言葉を発する霊能力によって発展してきた。
この事実は、どんな科学者でも否定できない。
ヒトは猿から進化した…。あれはウソ!
サルには人間の持ってるような勇気はない。
もともと腰を曲げて俯いてるような生物に
大地に真っ直ぐに立って歩いて前を向いて生きる能力はない。
サルやゴリラやチンパンジーやオランウータンやオリバー君が
雨あがりの空を仰いで虹を見つけて感激してる…なんてこともない。
彼等の手を触ってみても、
「これが自分の祖先につながる温もり…」ということも感じられない。
ちょっとカタチが似ているだけで、猿は猿。人間は人間。
申年うまれは申どし産まれでしかない。
ただ、人間より猿が優れている部分は
狭い場所での縄張り争いはあっても、同じ生物種族で殺し合いなどしない。
自分の子供を育てるにも、意気地ナシな育児はしない。
他の迷惑も弁えず酒を飲んでクルマを運転することもない。
トイレで用を足したあと、自覚しながらトイレットペーパーで洗った手を拭くこともない。
今の時代の人間は、たとえ言語が異なっても
言葉の壁を越えた意思の疎通は可能なのに…
どうして?
自分と他人を比較することを得意とされる教育の中で生きた人間には
自分のモノと他人のモノの区別・識別・判別がつかなくなってる大人も多い。
猿より程度の低い今の人類。
サルから進化したわけねぇじゃん!
いっぱい喋れるのCmに反して、ぜんぜん予約が取れなくて憤慨してる受講生が
たくさんいて、戦後最大級の被害者数かもしれないらしいです。
でもそれだけ英会話できるようになりたい!って思う人が多いのも事実です。
投稿期間:2007/11/07~2007/11/21
英会話?
ロック・ミュージック 好きですけど
できません!
…いや、ベリーlittleです。
んなこたぁ、どうでも、音楽に国境はない!
自然界に生かされる人間に言葉の壁はない!
ところが、世間様と俺の間(?)には
なぜっか、大きく聳える壁のような…
それでいて実は、
貧弱な金網のフェンスみてぇな、
体制側の教育常識世界に燻る大衆意識…
が、行く手を阻んでる…
いや、さいきん は…そうでもない…かな 。
だいじょうぶ。 …その雨も、いつかきっと
やんで、デッカイ虹を仰ぐ日もくる。 必ずな。
誰も そんな約束はできないけど、そういうことになってんの。俺の周りでわ。
つうことで(?)、ある日、あることをきっかけに
近頃、アメーバさんのペタ機能 ってのを遣ってみることにした。
今までは対応がめんどくせぇので
みなさまのブログにも、貼り逃げ!状態でしたが (すんまへん。)
やはり、他のブログサービスには あまりない機能も
遣ったほうがいいような気持ちになって
そういうところから繰り拡げられる、出逢いと湧かれもあっていいのでわ…ないかと…
日本人てのは、ここ何十年も、横にいる異人・変人には声をかけづらく
昭和の20世紀末から今日まで、外国人とも他人行儀につきあってきたわけで
そればかりか、大人も子供も関係なく
同じ日本人なのに、どうもウワベだけで仲の善さそうな身振り手振り、口ぶり買い被りも多いし…
そういう、画期的!な機能も、遣い方によっては便利かな…
とか、今頃になって いろいろと見つめなおしてみたりしているわけ。
…ああ、今日の朝。通勤時間に、
海の向こうではなく、スグ近く。 目の前に
でっかい虹が出てたよ。
そういう清々しい朝の中、
人間の胃の痛みや頭痛…、膝関節を覆う筋肉の修復とか
慢性の便秘や軽度な生理痛の克服…
そういう日常的に大勢の日本人が抱えている肉体的な問題の解決について
自分の肉体を最期まで自分で面倒みるには、どうすりゃぁいいのかってことを
ずぅっと想いを巡らせながらクルマを運転してると
なんだかねぇ、いろいろとヒラメキやトキメキもあって
んじゃぁ、これは世界中の人間へ向けて伝達したほうがいいじゃん!
て気持ちが高まってくる。
神や仏もヒトを救わない時代、
虹を見るのはジュディ・ガーランドだけではない。
…こうなるともう、話が通じる人も日本人…普通の人には いないかもしれないけど
普通ってなに?
人間として あたりめぇに生きて、自分自身に対してどこまでも
クリアーな正直さ、素直さを見失わずに心と身体が健全なヒトが数すくない今の世の中で
「普通」とか、「世間一般常識的に…」とか、
カンケーネーナ! だよ。
でも俺は、なれるもんなら、普通の人間になりたいよ。
ボディジャック現象 なんて一切ナシで
全身の血の巡りも、好奇心旺盛にどんなことにも立ち向かってゆく勇気も
なるたけ産まれた頃に近い状態で
そういう正常な肉体と精神のバランスを保って
太陽の下で澄みきった空を仰いで
汚れていない空気を肺に吸い込んで
汚れていない物をみんなでおいしく食べて
ウンコもシッコも滞りなく出して
病気や怪我の因果も、そっちの方から関わりが持てないくらいの
生きるエネルギーを漲らせて
雨に負けても風に叩かれても
事故や災難の不運なんてのは、最初から呼び寄せなきゃいい。
そんなスーパーサイア人がセンズを持って歩いてるような姿には
もう誰も成れはしないけど
言葉では どうにもならなかったことを
俺は言葉によって どうにかするつもりでいる。
なぜなら、“言葉を交わす”という超能力を持たされて生きて生かされているのは
この世で人間だけだからな。
人類とは、言葉を発する霊能力によって発展してきた。
この事実は、どんな科学者でも否定できない。
ヒトは猿から進化した…。あれはウソ!
サルには人間の持ってるような勇気はない。
もともと腰を曲げて俯いてるような生物に
大地に真っ直ぐに立って歩いて前を向いて生きる能力はない。
サルやゴリラやチンパンジーやオランウータンやオリバー君が
雨あがりの空を仰いで虹を見つけて感激してる…なんてこともない。
彼等の手を触ってみても、
「これが自分の祖先につながる温もり…」ということも感じられない。
ちょっとカタチが似ているだけで、猿は猿。人間は人間。
申年うまれは申どし産まれでしかない。
ただ、人間より猿が優れている部分は
狭い場所での縄張り争いはあっても、同じ生物種族で殺し合いなどしない。
自分の子供を育てるにも、意気地ナシな育児はしない。
他の迷惑も弁えず酒を飲んでクルマを運転することもない。
トイレで用を足したあと、自覚しながらトイレットペーパーで洗った手を拭くこともない。
今の時代の人間は、たとえ言語が異なっても
言葉の壁を越えた意思の疎通は可能なのに…
どうして?
自分と他人を比較することを得意とされる教育の中で生きた人間には
自分のモノと他人のモノの区別・識別・判別がつかなくなってる大人も多い。
猿より程度の低い今の人類。
サルから進化したわけねぇじゃん!