チャンスがない奴はどうする?  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

http://ameblo.jp/badlife/entry-10003291257.html
『Half Life』(未公開)の続き
   
   
   仮題: 彷徨う魂の謎
   
                                平成9年12月10日 未明
   
 その人は、どうやって、どのように死んだのか? 
 それは、どこか自分自身の中で、
「人は何のために生きているのか? なぜどうして、自分はこの世に存在するのか?」
という疑問とダブっているように感じていたからかも知れない。
 ともあれ、これからの話はすべて、俺の親戚一同、特に孫の代には隠されてきたことである。
 これまで無言のうち、「決して明かしてなならない」と云わんばかりに、そのように決められ、
その問題にはもう決して誰も触れぬようにとされていたと思われる。
 その証拠に、お爺さんの通夜の席では、父親の弟である俺のもう一人の叔父さんが、
「知らなくてもいいことだ」と、幾分、怒った口調で口を閉ざしていた。が、
「そのことをどうしても知りたい。それを知ることで、きっと自分が楽になれる気がする。
だから教えてほしいし、今、知る必要に迫られている」と、俺は正直に訴えた。 
すると叔父さんは、隣であっさりと、しかも真面目な口調で応えてくれた。
「そう、じゃぁ教えてやろうか。俺の兄貴、そして、お父さんの兄貴にあたる人はな、
当時、自分の勤め先の造船所から青酸カリを持ち出して、それを例えば、こういう物(コップ酒)に混ぜて、
一気それを飲んでに死んだんだよ、それだけのことだよ」と。 
今度は、目の前でそれを聞いていた父親と、従兄弟の叔父さんの三人に対しても、
「どうして? 何で?」と、なおもしつこく質問を繰り返した俺がいた。
 その事実については、翌日の葬儀に控え、
叔父さんが寝袋で寝て、従兄弟の叔父さんも酔い潰れた後で、
俺のお父さんが教えてくれただが、どうやらその自殺した人は、報われない恋愛の末、
自宅の居間で“最高の犯罪”を謀ったらしい。
 ”創った側の人”の監修による『創られた通りに生きるための「洗心」という癒し』という文献の中でも、
[自殺。それは自然界の法則を破る行為であり、最大の罪である]とあり、
[その幽体は突然、肉体がなくなり“生前の苦しみ”をそのまま背負いながら、この世を彷徨う]とある。
(これについては、そんな取って付けたような、どこにでもありそうな断片的な言葉ではなく、
もっと具体的に、別のページで説明し、公開している。
URLは、http://ameblo.jp/badlife/entry-10002652176.html
この意味と、ここまでの話を分かりやすくするため、少々恐れ多いが、
先に触れた『人間の設計図 』(初版)から、
人間の心と体、魂と肉体との関係を、一部、解説を入れた形で引用させて頂く。
   
[人間は大自然の法則によって創られ、各々、その肉体は違っても、
生涯、肉体の中に魂がいる間、肉体は動いている。
 そしてその魂は、
受胎される瞬間(男女両性結合の瞬間/たった一つの精子が卵子にぶつかった瞬間)に入る。
だから魂は決して、親が入れたのではない。
また学問によって入ったわけでもなく、努力したから頭が良くなったわけでもない。
 その魂にある今生で生きるために必要な知識は、受胎する瞬間。その時から、既に決められている。
そしてその魂の中には、
自分の親の直属の先祖霊が五千人(父親と母親から二千五百人ずつ)入っている。
それを統一するための『神魂』 【しんこん】という魂(階級がある神の魂)を、
すべての人間が最初から持って生まれてくる
 (注意: 十月十日、正常な母体の妊娠、正常な分娩を経て、
全身の筋肉が正常な状態で産まれた場合の健康な人間を示すと思われる。
また、“神魂”は人間だけにしか入っていない)
 人は、その肉体がこの地球上において何をするのか決まって生まれてくる。
 その生命が、その肉体が、この世で必要なくなった時、幽体(心/魂と同じ意味)は肉体から離れて、
(世間の言葉で言うところの)あの世へ行く。
それは、「何時、肉体から抜けるか?」ではなく、抜けた時、
幽体が離脱したその瞬間が(その人間の)死である。
 魂、幽体が抜けてしまえば、肉体は動かなくなる。
その時、肉体を焼こうと切ろうと、痛みも何も感じることはない。
魂の入っている間は痛いし、いろいろ考える。
 そして、魂が肉体の中にいられる、今生にいる時間は、初めから決められている。
 それが寿命である。
 「人は生まれれば死ぬんだ」という簡単な考え方があるが、
寿命は、創られる時に、既に決められて生まれてくる。
 今生での寿命には、肉体と幽体、心と体が関わる。肉体とは、幽体の容器である。
 容器が崩れれば、(中にあった心は)そこにはいられなくなるし、
(生きている間は)幽体が悩めば、肉体は当然、苦しくなる。
 それでも、そのまま生きて行く、変形し、苦しみながら、
ある決められた時期が来るまで、人間は生かされている。
 それは、心も同じである。
 だが、心である魂は、決して死なない。魂はまた、自分のいた所へ帰って行く。
 心は、肉体を持って行けず、肉体はこの世に置いて行く。
 生きている間はそれほどまでに、何より自分の体が大切な人間・・・。
しかし、肉体が滅びる時に幽体が離脱すれば、平気で肉体を置いて行き、どこへでも行ってしまう。
なぜならそれ(肉体)は、今生で出来た物だからである
 魂だけは、あの世(この世に存在する別の世界)で出来る
 そして、永遠としてまた廻ってくる。 …以下略
 
 自分自身に必要以上の知識を一旦、脇に置いて、『人間の設計図』を素直に読むと、
魂が入って抜ける時は自分では選べないし、
それを自殺未遂や瞑想、断食による幽体離脱、臨死体験など、
“途中で抜けてしまう”ことに大きな間違いがあるということが判断できる。
 では、毒を呷って即死した魂は、どうなってしまったのか? 
 俺以外、通夜の席での三人にとっては知る由もないことだろうが、“自殺した人”の想い出、
悔まれる思いに託され、命名された次の存在。つまり俺自身にとっては、
その事実を知ったことが大きくきっかけとなり、
この半世紀の人生、自分の生き方を元通りにするための材料となった。
「和マサ」という名前の人間は、もうこの世にはいない。ところが死んでどこかへ消えたはずの魂は、
どこを浮遊して、あるいは、どこに留まって解放されないまま、
この世とあの世の狭間のような場所を彷徨っているのか・・・。
それを俺に「乘リ遷った」と云えば、それもどこか馬鹿げた話になり、
もしも俺の中に宿っている者が俺以外の者であったなら、それをどうすればいいというのか?
 
よく、世間に転がっているどこかの占い師や、
動物の憑依霊によっておかしくなった全国の霊媒、霊脳者が騙るようなことではなく、
肉体を持って生きる者と彷徨える幽体との関係には、生きている人間の肉体の状態を通じて、
もっと整然としたものがある。
 だからその時、予備知識としては『人間の設計図』にある言葉、
“生きるために必要な知識”はもちろんのこと、
俺にとっては二人目の母親でもある、“創った側の人”と出逢い“創った側の人”を心から信頼する人で、
『人間の設計図』(初版)の発行者()にアドバイスされた
数々の『見えない世界の倫理』のようなものが役立って、
お陰様で「怖いぜ、オイ」という感覚はなかった。
 さて再び、“創った側の人”の言葉、『人間の設計図 』の著者に聞いた話に戻るが、
[自分ではない別のものを自分の中に入れてしまうために、自分自身がおかしくなる。
それを簡単に“憑依”と云ってしまっていいのか悪いのか、世の中に”憑依”という言葉も確かにあって、
それはどこで誰が言い出したのか、確かに使われている。
ただそれは、その人の肉体の問題…。全身の筋肉に流れる血液、気の流れに問題があるのであって、
本来、肉体が正常であれば、そんなことはないし、あっても解らないように創られている。
…例えば、オレのように健康であれば。絶対に解らないし、あっても何でもない、そんなものは。
何が入って来ようと、直ぐに、瞬間に出してしまって、こうしていられる。
だから、憑依であろうが何であろうが、そういう人は肉体がまったくおかしい]
これは、ある夏の日、富士の裾野を走る車中で録音された模様だが『人間の設計図』にはこうもある。
[………気血の流れ(肉体)が正常で、
”与えられた肉体”が大自然と同じように決められた通りに動いていれば、
そんなことは絶対にありえない(中略)。
 幽体(浮遊霊も含む)がいる所は、住む世界、考えていること言うことが違うため、
人間には見えないし、出てくることもない。
現世の中にあっても肉体を持っていない幽体は、住む場所が違う。
この世にいても見えない所にいる。つまり、幽体は、常に異次元空間にいるから、
人間に関わりあうはずもない。
(普通の人間にとって)肉体を持って住む世界と肉体がない幽体だけの世界とは、何の関係もない。
 最近よく、「何かの霊が憑依した」とか聞くが、
自然界に生きている人間の体の中には、(本来)もの凄い速さで
“気”と“血”が回っている(成人にして、およそ地球を二周半するほどの長さの全身の血管に対し、
24秒で一回転する速さで、全身の筋肉に心臓が血液を回し、そこへ同時に気も回っている)。
つまり、その血液が24秒の速さで、完全に体内を一回転していれば、
そんなものはみんな振りほどけるようにできている。
本来、人間の体は、何が来ても振り払えるように創られている。
幽体には、空間概念も時間概念も何もない。
だから、もの凄い速さで移動して飛んで行くことができるが、
人間の住む世界に常にいたとしても、人間に害を及ぼすようなことはない。
もし害を及ぼそうとしてきたとしても、例えば私なら私は、決められた通りに動いているから、
決して幽界から来た霊は憑依できない。
しかし決められた通りに生きていない人が最近では非常に多くなってきた…]
 そして更に、“創った側の人”は云っている。
[何でみんなそんなことが分かるの? 
俺を信用してれば憑依なんてないし、
そんなことは絶対、解らないはずだ。
信用していないから様々に云うわけでしょ…]
と。 
平成九年の正月、俺自身は、この言葉を聞いてようやく、
憑依する事実と、人間に憑依がなかったはずの現実の区別がついてきた。
 
 そして、お爺さんの葬儀も終わり、納骨も終わり、お盆を迎えようとするその年の六月。
俺は、通夜で聞いた“自殺した人”の話と、自分のこれまでの人生をよく振り返り、整理した段階で、その事実の内容を、
俺にとっては二人目の母親もような『人間の設計図 』発行者と、その著者”創った側の人”に伝えてみた。
うまく伝えられたかどうかに問題はなく、何日も何時間も掛からないうちに変化があった。
 まず“自殺した人”が、三十年間、どのように俺に憑かっていたか。
 
 これは、父親を含め三人の話から俺が解釈したことだが、
要するに俺のお爺さんは、生前、「大和」という言語から取った名前を二つ考えている。
 一つは俺の名前の「大」。もうひとつは「和マサ」の「和」。そして、世の親であれば、
21歳の若さで死んだ自分の長男。その哀しみを越えようとする気持ちで、
孫として最初の男、第二の長男として産まれた俺に、もう一度、何らかの希望を託し、
その名前を用意したのではないか…と思う。
例えば、「もう二度とあんなことにはなって欲しくない・・・」というように、
それはまた、誰もが思うことだったかも知れない。
父親も叔父さんも「そうかも知れないな」と云っていたので、今は確かめようもないお爺さんの気持ちも、
きっとそうであったと思いたくなくても、思わざる終えないような、
これまでの俺の人生にオーヴァーラップする「和マサ」の存在がある。
 それそのものは、これまでの話の他にも、
かつて俺が書いた詩や物語の形式で、別の場所で紹介しているので、
そちらを参考にしてもらっても明白になっていると思うが(どの内容がそれにあたるかは読者の判断に任せる)、
それはまた、『創られた通りに生きるためのー「洗心」という癒し』の後半の内容も参考になると思う。
 [ “あの世”と“この世”が同時進行する中で、
目に見えない世界との共鳴により ##### 省略 ##### ]とある。
 このことから踏まえても、まず、「失恋」という無念の思いが、目に見えない世界で、
当時、17歳の俺と、自殺した人の気を結びつけていたのだと思うが、問題は肉体的なこと。
それは先にも触れた、
[“与えられた肉体”が大自然と同じように決められた通りに動いていれば、
そんなことは絶対にありえない]
ということと
[決められた通りに生きていない人が最近では非常に多くなってきた…]
という、この2点の事実を決して念頭から外して、
“見えない世界”だけの話に偏ってしまうことは許されない。
 少々余談になるが、車に跳ねられ道端に死んでいる猫などの死骸を見て
「可哀そうに…」と、そう思った瞬間、場合によっては、
その霊が取り憑いてしまうとか、そういう話も聞いたこともある。
また、無意識のうちに草むらなどを荒らし、
そこに眠っていた動物の霊(狐や狸、鼬や蛇などの浮遊霊)に憑かれた後も、
“そのまま”という人などは、本人ではない仕種、動作が身についている人も多いし、
そうした自縛霊が取り憑いた力によって、一種の神通力のようなもので
相手を化かしたり、化けるという人もいるらしい。
果たしてそれらがどうでもいいことなのか…。相手が生きている・いないに関わらず、
生きているこちら側がもし、強く何かを思い、念じたりすれば、
その気は邪気であれ正気であれ、必ず相手にも行くし、当然こちら側にも来る。
 また、生きている相手が、こちら側を思えば、
その人その人が感じる強弱はあれど、その気も懸かってくる。
 そのことは、生きている人間にとって、人を好きになったり、大切に思うことで、誰にでも該当するし、
世の中には「以心伝心」という言葉、解釈もあるから、それほど不思議なことでもない。
ただ最近では、この関係から、全国の医者、看護婦、治療師、カウンセラーや学校の先生方の仕事が、
まったくおかしくなっているようにも思える。
 そういう部分でも、「和マサ」という名を付けられて21年だけ、この世に肉体を持って生きていた魂は、
一体どうなってしまったのか?  という疑問が、今も俺の中にある。
 「人が人に心から何かを託す」という、契りや絆と同様の、目に見えないものを提供する行為。
あるいは、人間誰もが心に秘める思い。それは、
人が人を慈しみ思いやることや、親が子供に、子供が親に対して、
何の交換条件のなく愛情を抱くことと同様に、
人類が代々、受け継いできた魂の関わり合いがある。
例えば、憎しみもそのうちの一つかも知れないが・・・。
そういう意味での“気”というものの存在は、確かにこの世に存在している。
そしてそれは、いつの時代にも在る。
それを「ない」と否定すれば人間ではないし、
その人は、今、自分が生きていることさえも否定することになる。
例えば、目に見えない音、音楽というものもその一つだが、簡単なところで、“言葉”というものも、
文字に表さない限りは目には見えない。
ところが、目に見えない物を何もかも否定するような科学者や、
共産思想にドップリ浸かって生きている人のうち何人かは、目に見えない物の存在を否定しながらも、
その、“言葉”を使っている。 ・・・・連中の話を聞いていると実に滑稽で面白い部分もある
 
と、ここまでの内容が、かつて俺が8年前に書いた『Half Life』という(未公開)本の原稿の一部だが、
人間として産まれて40年近くにもなる今の俺にとって、かつてこの世に、その半分程度の命、
21年しか生きることが出来なかった“和マサ”の存在は、どうやら俺の右半身に、
最後に使ったとされる右腕の一部が、別の世界から来る感触として、ある意味で、
俺の身体を共有しているような事実もある。
それも、俺が仕事で非常に疲れたとき(肉体に血液の循環が鈍くなっているような時)や、
睡眠不足の身体でREM状態に陥った時など、これまで2~3度、確かにあった。
そしてそれは、父親の兄である“和マサ”の存在を確実に知ってから、
つまり、ごく最近になってからのことである。
具体的にそれが、どんなふうに出てきたのか(あるいは“出てくるのか”)については、
もしも、いつかどこかで読者とお逢いすることがあったなら、その機会に具体的に話して聞かせようと思う。
俺自身それを、何か怖いことのようには決して思わない。
むしろそれは、ある意味で、もう一人の俺のようにも感じている。だから、
「なんだよテメェ、俺の意思とは別に勝手に出てくるんじゃねぇよ、
俺の中に在ってもいいから おとなしくしてろ、
ちゃんとテメェの分まで生きてやるから心配すんな」
というような、そういう気持ちでいる。
かつては、その存在が、どこか邪魔だったのか、
ナイフを持ち歩いていたような時期、二十代後半までの俺は、
常に何かに追われるように生き急ぎ、常に殺気立って苛々することで周囲にも迷惑をかけてきた。
その姿は、俺の両親や実の弟、親戚一同も、俺以上によく知っていると思う。
ただそれを今現在の俺自身が完全にコントロールできているわけでもない。
それはやはり、精神と同時進行して動く肉体の問題もあり、
日常の中で多分に困難なことも実際はあるし、
俺が結婚して子供が産まれてからも まったく「ない」と否定はしない。
簡単な意味で、もしそれが俺の“短所”ということなら、今後それを“長所”にも変えられるような工夫…、
つまり、俺の中にまだいる(かも知れない)同居人、“和マサ”を利用して生きる・ということだ。

 
「若い頃は自分を不死身だと思って当然だ。そうやって人生を学んでゆく。
でも、成長して子供を持つようになると色々 考える。考え方も変わる。
人生そのものが変わってしまう。
子供は純粋で無邪気さに満ちあふれ、ひたすら微笑みながら、あんたにキスしたり抱きついてくる。
あんたは “こんなにも愛されたことがあるだろうか”と考える。
そしてオレも、そうやって両親を愛していたことを想い出させてくれる。
たとえば夜中に目を覚ますと、いつのまにか子供がベッドに忍び込んでたりする。
ずっと同じベッドで寝てたのさ。
そういうのが、オレも子供も嬉しいんだよ。
家族ってのは特別なんだ。
なんて云うか・・・・いや、とても言葉にはできない。
ま、チャンスがあったら絶対に試してみることだ。        (・・・・チャンスがない奴はどうする?/
この地球上で一番いいものの ひとつなんだから。
人生の意味が やっと完璧になるっていう。
『パパ』ってことだけで、子供達は世界一素晴らしい人間だと思ってくれるし、
いつだって、こっちが尽くした以上のお返しをしてくれる」
 
俺は初めてこの雑誌記事を読んだとき、涙が止まらなかった。
ちょうど芝居の勉強を真剣に取り組むようになって、
独りっきりで頑張ってた
当時はそう思っていた頃にこれを読んだ。
で、
「この人の作る音楽なら間違いないだろ!」
そう思ってCDを全部、買い漁った。
それこそ、西新宿に何時間もうろついて、ブートレグまでみんな手に入れたかった。
頭の中で、あした喰うためのカネの計算がどうあろうと構わなかった。
”そういう人間”になりたかった。
この世に創られ、生まれ、育って、やがて寿命が来て死んでゆく正常な人間。
生きている自分が幸せを実感できる、そういう人間になりたかった。
誰の言葉かって?
決ってるだろ、キース・リチャーズさ。
聞けば訊くほど、知れば知るほど、あの人の苦労は並大抵のもんじゃない。
でも当の本人は、そんなことはちっとも気にしてない。
ロックンロールびんびんの、存在そのものがカッコイイ親父だ。
エリック・クラプトンはちょっと違うけど、これもまた大変な人生を歩んでる。
両者共、比べてみるのも恐れ多く)俺の人生なんて全然、大したことねぇ。
ただ名前が、“スグに沈んじまった戦艦”を造ったうちの一人、お爺さんに考えられ、
それを見て気に入った親に用意された、その名前が、
平成の今の時代になっても未だ、第二次大戦を引き摺ってるだけだ。
たったそんだけのことが俺にとっては、このうえなく有り難くもない物凄い迷惑だった。
特に“和マサ”の存在の最初から最後まで(せっかく産まれてから勝手に死ぬまで)の事実を
今の今まで、末代に隠し続けようとしてきた親戚一同も含め、大変な迷惑だった。
(連中は別に謝る気もないが・・・)
だって俺は、爺さんの財産がどうあれ、
本来なら、92歳で死んだ爺さんの「姓」を継ぐはずの三代目か四代目だったんだぜ。俺は。
本来なら、“和マサ”は二代目だ。
それを次の長男になった俺の父親以外、
ただひた隠しにしてきた存在、父方の親戚一同の連中は許せない。
死んだ爺さんも含めてな。
何のための法事だ、何のための仏の供養だ、笑わせんな。仏教も聞いて厭きれるよ。
自分達家族のことなんだろ、そんな重要なこと(少なくとも俺にとっては)を隠してどうするよ、隠して…。
“和マサ”はどうあれ、俺の父親以外は、絶対に成仏させない…と、俺は常に、
禅宗だかなんだかの寺の坊主が説教をする法事や、連中関連の葬式がある度ごとに、
いつもそう思って来たし、今でもそう思ってる。
それは、俺自身がそう思っているのか、俺の中にいる“和マサ”がそうさせているのか。
かつて、父方の親戚の誰かが亡くなった時も、お盆や年末年始に八王子へ行った際にも、
俺は普段以上に凄まじい焦燥感に駆られることが多かった。自分でも意味も判らずな。
あれは何だったのか? その時の俺の顔はどうだったのか? 
同じように どこか異質な存在とされた“和マサ”には似てなかったか? 俺のそん時の顔は。
「そんなことはない」「そんなこと気にするな」では済まされない。
「カズ兄ィの呪い」ではない。俺の呪い。
俺が佐渡に婿養子でいる今は、もう関係ないと云えば関係ないが、
それだって簡単に婿養子になったわけじゃない。
父親や爺さんには どこか申し訳なかったが、三代目だか四代目を捨ててまでも、
俺は楽になりたかった。
そういう思いを判らない連中は、このあと恐らく、マトモな死に方はしない。
だから、くだらねぇ財産のことでも揉めるし、
常に病気と付き合いながら過ごすような一生を送ってる毎日だ。これからはもっとな。
「先祖を粗末にした」などという簡単なことではない。
そんな新興宗教の捨て台詞はどうだっていい。
生きている人間、しかも身内の人間と“助け合って生きる”という愛情がなかっただけのことだ。
誰にあった? 実際になかったじゃないか、俺の母親が苦しんでる時も。常に他人行儀な面構えでな。
こんな貧乏人の僻みみてぇなことを今になってなんで、こんなとこで書いているのか。
それは、そうすることで少しでも、この『mind resolve』の実行が先に進むように…。
 
・・・・このことは、“創った側の人”の存在を知っている俺の父親なら判るかも知れないが、
俺は俺で、第二次大戦…大東亜戦争の清算をしなければならない。
そしてそれを、この、変貌した日本の高齢化社会の世の中で、
何人かの人に気づかせなければならないことがある。それは、
人類が人類ではなくなるほどにまで、バラバラにされた心と心の繋がり、
あるいは、これまで戦後教育による弊害が齎した社会の歪みを、その修復はできなくとも、
せめて次の世代が、もっと生きやすい状態の世の中を築くためにも、
新しい時代への架け橋(橋渡し)の一つを残しておかなければならない。
 -------- とぎれたものをつなぎあわせる --------
mind resolve』の実行には、そうしたことの意味も含まれている。
その辺にある宗教の枠の中にあるような似非ら事でもなければ、
巷の本屋に無駄に山積みにされた精神世界シリーズの何巻目の本という、
そのうちの一つで終るようなものでもない。
 
またこれは、今の俺と同じ世代、もしくは俺より下の世代の若い人達には判らないことかも知れない。
また、もしかすると、ちょっと内容は違っても、同じような境遇で生きてきた人もいるかも知れない。
それは今まだ生きている高齢者。あの、戦争体験者の連中なら判ると思う。惚けていなければな…。
70代、60代後半ならかろうじて判るかも知れない。
そして問題は、その呪縛(?)を解くために、今後の俺はどうするか? ということだ。
一度は、父親やお爺さんの故郷でもある広島の呉を訪ねて、
生前の「和マサ」という名前の人間が、その魂が、何を見てどんな場所に生きていたのか…。
また当時、どんな肉体の状態で心身のバランスを崩し、自殺するにまで至ったのか。
「結ばれなかった」というその相手の女性に遭ってみれば、
そうした疑問を解くにも時間は掛らないかも知れない。
そう考えて、今年(2005年)5月16日、俺は、
孫の顔を見るために佐渡へ遊びに来た両親。その実の父親に尋ねてみた。
「その女性はなんて名前で、今も生きているなら探して逢ってみたい。
本人が俺の顔を見て、また俺と俺の肉体の中の同居人がその人を見て
その瞬間に何を感じるのか。俺は試してみたい…」と。
すると父親は、
 
          つ づ く 。
 
                       以上、mind resolve : chapter 018