さて、11/7を振り返り終わり。

いよいよ40代のスタートです。

40歳になった朝には

実家に電話をし、父母、そして両親と同じくらいの愛情を持つ叔母に

「40歳になりました、ありがとうございます」

とお礼を言い。

夜には母からもお祝いのメールをもらいました。


記憶がある限り、
幼少から生意気で活発でとにかくバカな事をしては同世代の男子を笑わせる事に一生懸命で
楽しい事をしたい、みんなと騒ぎたいというキモチでいっぱいでした。
あと、女子のスカートの中が大好きなくせに女子に優しくできないエロでキモがられてました。

小5くらいに?クラスメイトのアキラくんに「バンドやらない?」って誘われて、
バンド?チェッカーズ?というくらいの認識から、
姉が持ってきたBOΦWYの『GIGS CASE OF BOΦWY』というビデオと
大映ドラマ『ポニーテールは振り向かない』に
ダブルパンチを喰らい。
お年玉と新聞配達をして溜めたお小遣いを持って
長野市街にある楽器店で無名の赤いストラトキャスターを買いました。

「どうせ長続きしないんでしょ?」と呆れてた母が
お金が足りないボクの為にギターケースを買ってくれて
「やるなら教室に通いなさい」と結局は2、3回しか行かなかったけどギター教室に通わせてくれたところに優しさを感じます。

中学になって初めてバンドを組んで、ライブってモノをして、
オリジナルの曲を作ってみた。
不良に憧れて変な格好や素行もしたけど
バンドブームという時代にも恵まれたくさんのアーティストの生き様や音楽にいろいろ教えてもらった。

17歳の時、ちょっと本格的なギターが欲しくて
新聞配達をして溜めたお小遣いを持って楽器屋に走った。
店員さんに「ミーハーなブランドに寄らず、10年後も使えるギターにしなよ」といわれたギターが
FenderのAMERICAN VINTAGE '57 STRATOCASTER
10年後どころか20年後も今も使っている“枯れ男”がそれ。

母親がよく言ってた、
「アンタは夜中にどこかに出かけていても朝になるとちゃんと新聞配達をしに帰ってくるから安心だった」

父親がこう言った、
「学校で無期停学になっても、部屋でギターを弾くというやり場があったから明徳は救われた」

文化祭でオリジナルのテーマソングが作りたくて生徒会長にもなった。
3年生になった頃はライブがたくさんできるような仲間も増えた。

高校を卒業して、医療系の専門学校に行った。
大好きな音楽から離れた毎日、
CDショップや雑誌、テレビから流れる音楽シーンに未練を感じては
安定した何かから踏み出せずにいたボクがいた。

地下鉄の中で「医療系の資格をもった社会人推薦枠あり」と書いた大学の広告を見つけた。
「もう少し時間が欲しい」と思ったボクは受験して栃木の大学に進んだ。

大学で音楽好きの仲間とバンドを組んだ。
ライブハウスにも出た。
対バンのヴィジュアル系バンドからメンバーになって欲しいと言われた。
諦-アキラ-というバンド。

諦-アキラ-に加入した。
初めてCDを出した。ワンマンもした。ツアーもした。
活動が活発になるにつれ大学に通うのが困難になった。
大学を辞める時、母親に謝った。

母は「どうせ決めた通りにやるんでしょ」

と見逃してくれた。

諦-アキラ-では20代後半の全てを捧げた。
バイトも沢山したし、曲も沢山書いて、
ライブも沢山して、浦和ナルシスにある事務所にも所属し、
諦っちというファンに沢山愛された。

事故にあった。
ツアーの移動中、トラックに追突され
全員が瀕死の重傷の中、ボクだけ軽傷で高速道路の真ん中で一人ポツンと立っていた。

「ボクの音楽人生はここで終わった、この先なにも良い事なんてない」
とさえ思った。

実家に一旦戻って母親にそのキモチを話すと
「バカじゃないの!」の一喝された。

すぐに東京に戻って、沢山セッションをした。

ある日、目から鱗が落ちるように新しいバンドを組む事を決意した。

幸いにも慕ってくれる後輩がいて
一緒にバンドを組む事になった。

ビリー

この時点で30歳、ボクはすでに恵まれていた。

王道かつ革新的なヴィジュアル系を目指し活動した。
メンバーもボクを信頼してくれた。
自分達でメディア媒体やCDショップを走り回った。
目標もどんどん叶えて行った。

大きい事務所にも所属できた。
スタッフにも恵まれていたとは思うが
どこか大きいが故の窮屈さと
自分達の音楽に対するベクトルが変わってきた違和感を感じた。

契約満了と共にビリーを眠らせた。

簡単に言ってるようではあるがそこにもメンバーの失意があって、
ボクも運命の歯車を感じざる得ないモノがあった。

でもメンバーはまだ絆を信じた。

もっと自由な音楽を。

花少年バディーズを結成した。

どんどん規模が大きくなっていった。
2010年~2012年くらいまではバンド活動の他にも色々とやり過ぎて
今でも思い出せないくらい忙しかった。

もっと良質な音楽が作りたいという欲が出て、
ちょっとお休みした。

当時、メイクスタッフだった楠山氏と
ライフワークを確立するため株式会社バデッグボックスを設立した。

「想像する未来はいつも楽しい!」

をモットーに、利益や勢力うんぬん以上にクリエイティブを楽しむ毎日を送る為に。

母親はこういった、

「あなたは子供の頃から周りを楽しませる事ばかり考えていたから
そういう形が一番似合うわよ、頑張ってね!」

頑張り方が30代前半とは変わったのが自分でも分かる。
良き仲間と良き笑顔、感謝するキモチ。

それでも自適に生きるってなかなか難しく、
花少年バディーズは突然止まった。

寂しい、寂しい、寂しい。
そりゃ寂しいけど。

ここで終わらない!という耐性が養われていた。
というか、バデッグボックスという居場所が
腐ろうにも腐れない、誰かに支えてもらっているのだから、皆を支えないと。
自分一人じゃないという環境がむしろ強さと優しさを教えてくれた。

そして冷静に振り返り
ブラッサムという大切な宝物達の人生に感謝をした。



ボクはまだまだ音楽活動を続けます。
良い曲や良い演奏、良いサウンドを作って行きます。



いつの間にか40歳、
人並みに考えれば人生折り返し。

片道で与えられたモノを今度は恩返ししなければいけない。
表現がジジくさいかもしれないけど、
そう思えない方が逆に問題アリとさえ思える。

大人になる事がこんなに楽しい事だとは知らなんだ。
早めにみんなに教えてあげたい!

みんなも早く大人になりたい!って思えるように
まだまだ暫くみんなの人生に密着しますよ。
よろしく!よろしく!よろしく!


最後に一言、明言しておきます。

両親、叔母には長生きして欲しい。
もしお別れの時が来たら、
みんなには申し訳ないが感謝を伝えに行く時間をもらいます。
そこもよろしく。

ミネムラ