友人とも家族とも長い間話さないでいると、自分自身について吟味する時間が増え、文字に書き出したいような気持ちになったので、今回は畏まって『人は何故尖るのか』を考えてみる。長くなるので

2章を今後書くかもしれない。


 まず最初になぜ俺がこんな考察をし始めたのかというきっかけだが、それは今までの俺の人生の選択が全て尖ってしまっているからだ。新卒はサウンドクリエイター、エンタメ、ストリートメディアを希望し、音楽はボサノヴァを崇拝、映画はネオリアリスモ、夏は柄シャツ、書いていて気づく、なんだこのテンプレのような糞サブカル大学生は。存在しない「自分らしさ」を追求するあまり完全に自分を見失っている。こんな尖り方を続けていればいつしか、誰からも相手にされず、JR三宮の柱の下で清太のように死に行くだろう。そして苦しいことにこの『尖り』は自分の意志で易々と改善できる物ではないのだ。人間は日常の節々で選択を行うが、自分のような尖りきった人間には深層心理にオルタナティブ思考が刷り込まれており、無意識のうちにマジョリティが選ぶ選択肢を嘲笑する、それでいてマイノリティな選択肢がそれよりも優れているように周囲の人間に言い触れ回る、この日常でのオルタナティブな選択の蓄積が本人の「尖る感性」をより強固なものに成長させていくのだ。そうして出来上がったのが俺を含む、全国の文系糞サブカル大学生だ。こいつらは大卒後も尖り続け、大したアーティストになるわけでもないのに、Youtubeとかで見たヒップホップクルーの制作ドキュメンタリーとか、McgaffinVICEのクリエイターの家紹介動画に憧れ、自分も彼らの一員になれると本気で信じ、大した中身も無いのに自己表現、創作を繰り返す。そうした空回りを繰り返し、行き着く先は同じような仲間との創作物の批評(傷の舐め合い)か、何者にもなれなかった自分への絶望なのだ。そしてその絶望は最終的に諦めに変わり、下町でスパイスカレーと珈琲だけを出す音楽喫茶の店長へと帰着する。そして今、俺はこうなってしまう一歩手前に足を踏み入れており、非常にまずい。だからこそ今、この人生の大きな転換点で自分の「尖り」がなぜ尖っているのかを理解し、自分の人生の「尖る選択」が自分にとって良い物なのかを理解する必要があるのだ。




まず自分の尖る選択への嗜好性を理解するために、なぜ自分は尖っているのか、そもそも尖っているのかについて考察する。


 俺は確実に尖っている、そう言える自信もある、常に周りと同じ人間になってたまるかと、無意識的に他者と違う逆の選択をし続けているからだ。漫画ではワンピースは読まず逆にガロ、マーベルではマイティ・ソーではなくデッドプール、袋麺はサッポロ塩ラーメンではなくマルタイ棒ラーメン、ウィークエンドではなくフランクオーシャン、ラチェクラではなくデススト、SupremeではなくAPE、ほんとうに枚挙に暇がない。そして悲惨なことに他のサブカル愛好者とも差別化を図ろうとし、Twitterのインディ邦楽を熱く語るアカウントを逆に毛嫌いし、逆にタバコは吸わず、逆に写ルンですを無意味に嫌う。社会で一定の支持を得たサブカルを一方的にサブカルの形骸化と認識し、「浅い」と感じてしまうのだ(実際は他者と自分のサブカルが同質化されたくないという意識が勝手に反発しているだけ)。そして時たま、社会から絶大な支持を得るレジェンドバンドの新曲を意味もなく誉めてみたりするのだこれらのキショいサブカル的行動に一貫して見られるのは「他者と異なる存在でありたい」という意識であり、これすなわち尖りの正体である。


 ではこの「他者と異なる存在でありたい」という欲求はなぜ発現してしまうのか。それは他者よりも自分が優れているという優越欲求を人間誰しもが持つからである。誰もがより優れた人間、より興味深い人間、より深い人間になるため、ある人はメジャーな舞台の中で多数と競争しながら自分の成長に全コストをベットし(大谷翔平的な人間)、ある人はメジャーな舞台での敗北or逃走or回避を経験し、その後マイナーな舞台に移行しメジャーが舞台の人間との競争を他人事にし、自分自身をメジャーから差別することで、オルタナな舞台で勝利し自らのプライドを守るルサンチマン的な行動をとる(オタク、サブカル人間)。しかしながら全員が全員、同じ舞台で戦うことへの指向性を持つとは限らず、実際にサブカルな舞台が天性の才にマッチする人や、最初からサブカルな舞台を選択する人間も存在するため、一方的に逃走だとか敗北という言葉を使うことは正しいとはいえないことは理解しないといけない。しかしながらそういった天性のサブカル人間でさえ、他者より優れたいという優越欲求を持っているということを忘れてはならず、つまる所体育会系でも、サブカル系でも、オタク系でも、研究者系でも一部の天才を除いて皆が平等に持つものが優越欲求であるということだ。*一部の天才とは藤井聡太だったり、大谷翔平だったり、自分の目標の追求のみに興味があり、そこに付随してくる他者との競争自体には全く興味を示さないが、勝利してしまうような天才である*


 ではなぜ優越欲求は発現するのか。マズローの心理学ではこの優越欲求は承認欲求と等しいとされ、食欲・性欲などの生理的欲求の次に生まれる身体の安全の欲求、そしてそのまた次に生まれる他者と繋がりたいという社会的欲求、そしてそのまたまた次に生まれる周囲の人間に認められたいという感情こそが承認欲求であるとされている。そんでこれが人間の自発的で無意識な欲求であるということが大事なんだと。他者より優れたいと思う気持ちは、睡眠欲だとか性欲とかと同じレベルのもので、誰しもに自然に平等に発現するからこそ、その強弱が否定される筋合いもないということだ。食事をする時、食べたいと感じるから食べるのだ、眠る時、寝たいと感じるから眠るのだ、友達が欲しいと感じる時、寂しいと感じるから友達を作るのだ、そして尖りたいと感じる時、それは他者と差別化したいと感じるから尖るということである。


 ここでようやく「尖り」の正体が判明した。アメリカの賢い人によると「尖り」はどうやら人それぞれに自然に発現しているようである、つまり生まれついた時には決まっているということなんですって。じゃあ俺はなぜ尖っているのか、、、、、それは優越欲求が強いからだ、、、、。『いや待ってください、、釈然としないんです、本当に、普段は優越欲求の塊みたいなSNSで自慢もしないですし、それに周りの人間もリスペクトしてますッ!!!』こうゆうサブカルがいっちゃんきついんですともマズローさんは語る。しかし実際、サブカル人間は普段の選択の節々で「他人より優位に立ちたい!!みんなと違うジブンになりたいッ!!」と考えているわけでは無い。あくまで優越欲求は人間の思考の水面化に生息しているから、普通に生きていて立ち会える存在ではないのだ。しかし同時に常に立ち会っている存在とも言える。それはお腹が空いた時無意識的にコンビニに入ってしまったり、マクドナルドへと吸い寄せられるような、はたまたムラムラ田村な時に無意識的に人の所作を性的に見てしまったりなどと同じで、無意識的に行動に出てしまう欲求こそが自然発現の3大欲求であり、それすなわち承認欲求であるので、他者の承認を必要としない自己完結型の行動でさえも優越欲求が根底に存在し、それに従って人間は動くのである。だからこそサブカル人間は悪びれもせず、さも「いや、俺本当にこれが好きなんです、、」みたいな顔をしながら、よりマイナーに、よりマイナーにと足を進めることをやめられないのだ。これではマイナーのハイパーインフレが起こり、最終的にはYoutubeで再生回数143回のアフリカ人ジャンベ奏者の動画を推し始めたり、ティッシュ箱のデザインを意味もなく褒めたりし始めるだろう。しかしこれ程の狂気でもその嗜好はごく自然であり、「これを好きといったらみんな俺に一目置くだろう」みたいな雑念は存在しない(厳密には無意識の土台に存在する)。サブカル人間は本当にピュアにひねくれている、だからこそ厄介なんです



今後書くかも分からない2章に続きます(人生の当事者意識の軽薄化についてです)