みなさまお久しぶりです。

いゃ〜エゴイストって厄介ですよね、、自己中で頑固で輪を乱して、も〜やりたい放題、ヘルプという感じです。何らかのグループに属していたら絶対1人はいますもんね、エゴ兄が。というわけでタイトルが怖いね〜という感じですが、今回は皆の周りにもいる様な嫌〜な独善者、エゴイストとの向き合い方について書いてきます。すみません今回マジで長いですので。
↑ババアのブログの導入みたいでいいわね

○独善性、エゴイストとは


そもそも独善性、エゴイストとは何やねんという所から遡りますが、Weblioによると、、

「独善性(どくぜんせい)」とは、自分一人だけが正しく、他人は間違っていると信じ込む気質のことです。客観的な視点を欠き、自分の考えややり方を周囲に無理やり押し付ける「ひとりよがり」な態度を指します。

「エゴイスト(egoist)」とは、自分の利益や快楽を優先し、他人の気持ちや立場を考えない「利己主義者」や「自己中心的な人」を意味する言葉です。

とのことです、これだけ見るとクソみたいな事象に感じられますな!でもちょっとタイム!!この独善性、エゴって自我あるもの全てに存在しないとおかしくないですか?

○人間はみんなエゴイスト

人間はそもそもそれぞれしかアクセス不可なクオリアを持っていて、それぞれが認識主体として他者とは完全にはあいまみえない感性で瞬間瞬間の物事を感じて、何らかの判断を下していると思うんですな拙者は。同じ事象ひとつとっても感じ方は人それぞれで、、自分の感性の細かなテクスチャにまで注視して、他の人と完全一致した!!となるタイミングは人生で数える程しかないかと思います。その様なキモい自我という機能を持った人間が20数年というクソ長い年月を経た後には、幸か不幸か各人の中にものごとを判断する軸みたいなものが形成されてしまいます。それは幼年期の記憶/経験や、中高教育による賜物によって作られているのかもしれません、ただそれによって各人の中に各人なりの『正しさ』、もしくはそれに類する『気持ちよさ』が形成されてしまうのです。そしてせこせこ培ったこの『正しさ』、『気持ちよさ』は結果的に利己主義、独善性に繋がるんですよな。それは慈愛の心や隣人愛を持つ、一見エゴとは無縁に見える人間でも同じで、『慈愛や隣人愛を持つ』というエゴ、独善が発生している他ないのです。つまり何が言いたいかというとあなたを含めた自我を持つ者は須くそれぞれの『正しさ』、『気持ちよさ』を拠り所に判断を繰り返すエゴイストで独善者であるということです。そのエゴや独善の行使自体に善悪はないですし、良し悪しや、〜すべきとかいう基準もないです、ただ世界に認識主体として生まれてしまった以上、システム上そうなってしまうのは自然な事だと思います。

○エゴイストの厄介さ

そしてこれが嫌に厄介でして、人間はこの『正しさ』、『気持ちよさ』を拠り所に人生のあらゆる局面の判断を下します。何が厄介かというと人間は社会性を持つ生き物という箇所で、各人にそれぞれらしいエゴが形成されると、人間同士で『正しさ』ハレーション、エゴハレーションが起きうるということです。皆が皆、私はこう思う、あなたはどう思う?と『対話』ができるのであればまだしも、そもそもこれまでの人生経験から見出した『正しさ』を即時でひっくり返せるほどの余裕は皆が持ち合わせているものではありません。また人間は感情という最高で最低に厄介な機能も持ち合わせているので易くロジカルからかけ離れた『終わらない争い』が発生してしまいます。『争い』が起こること自体は最終的にひとつの結論が見出されるのであればいいのですが、ロジカルから離れることが各人の『対話』という行為から離れてしまい、『終わらない争い』に変化するか、怠惰から各人が納得いかない落とし所に不条理に落ちついてしまうのです。この流れには特段善悪とか良し悪しとかは感じていないのですがなんかこう歯痒さというか、納得いかなさ、気持ち悪さがありますよね。またエゴ同士の争い/対峙が発生した時に厄介なのは各人の間を取り持って対話/結論を放棄してなあなあにする存在、あとは一般論や常識、善悪、普通はなど絶対的な概念を議論に持ち出してくる存在ですね、前者は議題の解決を放棄し、後者は自分が認識主体として発信した内容の責任を一般論や他の共同体に転嫁している印象がします、これは認識主体同士の対話としてはあまり良くない(意味がない)気がします。
とまぁ長々と語ってしまいましたが、要は人間は構造的にエゴイストになるのに、何故か集団生活を送っているので必然的に他の人間とのエゴのハレーションが起きる、そして先輩人類が培ってきた倫理や善悪、普通などの絶対的な価値基準や、争いを止めようとする省エネ的な動き、感情によって認識主体同士のハレーション改善のための対話/議論が捻れた方向に進んでしまうということです。ほな今僕ら社会は現実的にどうやってこの問題に対応してるんでしょうか?

○現代社会において

前述の通り人間は色々構造的に問題があるわけですが、、個人的に、現代の人間は日常のコミュニケーションの段階から皆がダスマンとして、極力ハレーションが起きないように各人のエゴを抑えて生活していると思うんですな。それはハレーションが起きないのが正しいとか、善だからとかではなく、ハレーションが起きるとめんどくさいからで、一種の省エネかと考えてます。ただやっぱり社会性のある人間という生き物ががある程度生きていく上で、この他の認識主体の独善性/エゴとの対立は逃れられないタスクとして生活に付き纏ってきます、政治やら国やらの大きな話でも一緒です。この構造的に発現が必然な独善/エゴの対立のめんどくささから出来たシステムが民主主義&多数決に繋がるわけですな。無数の独善性の集合体に命題を投げかけ、賛成が多かった主張を組織システムとして組み込む、ただ少数派の主張自体が間違いとして扱われるのではなく主張としての存在は担保される、めちゃくちゃ乱暴やけど、めちゃくちゃ実用的な仕組みですねん。この段落をかっこいい言葉に変換すると、僕は社会、組織、共同体とは独善的な認識主体同士が、互いの独善性を完全には理解できないまま、最低限一緒に暮らすために作った巨大な妥協装置だと考えているわけです。つまり日本社会は意外にもエゴハレーション、『正しさ』ハレーションを、真っ向から解決&統合しようとはしていない。むしろ、社会に属する万人が独善的なまま一緒に生きるにはどうするのかという立場で動いてると考えてます。でもこれはあくまで共同体としての異なる複数の認識主体が統一された制度、システムを判断/可決する為のツールとしては便利ですが、僕らが普段忌避感を抱く日常的な独善&エゴハレーション自体の解決には繋がってないんですよな、、残念、、!


○僕たちはどう闘うべきか

なら僕たちは発生したエゴ/独善による対峙や議論において認識主体をもつ個人として如何にこの独善&エゴと向き合う、取り扱うのでしょうか。僕は下記の5つの要素が大事やとおもてます。

1. 自分は独善的であるという態度と自覚

これはわしが一番最初に言ったことと同じで、自分を含めた各人にはそれぞれの経験や感性から形成された『正しさ』、『気持ちよさ』があり、それを指標として世界と向き合ってるという前提を引き受けることが大事です。つまり世界の全員がエゴイストで独善的であるという立場に立つところからスタートする。客観的に正しい事象、一般論は各人が自分のものとして所有/使用することは世界のシステム上出来ず、荒野行動の様に大量のエゴがそれぞれの『正しさ』『気持ちよさ』をもって衝突し、暴れ回っているのが世界だと認識することです。そしてこれを認識主体の世界において前提とします。

2.自分が認識主体としてどの様にしてそのエゴに帰着したかの説明ができること(またそれが自分に正直である事)

1.でほなみんな独善者でエゴイストなんや!という認識を前提としましたが、他の人との対話においてほなワイのエゴはこれや!!と急に手札を出すとズレがちです。例えば『俺はみんなイスラム教を信仰すべきだと思う!』と考えていても、人に話すと『ン、何すか?』みたいになってしまう。だから『ン、何すか?』が発生した場合には、『いやワイはこう思いますねん』で終わるのではなく、「ワイは何故こう思うのか」まで自問して、できるだけ正直にワイは○○で○○だから○○だと思ったと道筋立ててワイが持つ『エゴ』『正しさ』『気持ちよさ』を形成された論理/ロジックとして説明可能にしてきますねん。そうする事で対話の際にも相手の認識主体はそのワイの『正しさ』に同意できなくとも、相手が「なぜワイがこの正しさに辿り着いたのか」をロジカルに理解できるパーセンテージを上げることができるんすわ。ワイの認識を、ワイの認識として相手の前に差し出す、これが異なる認識主体同士が対話をするスタート地点になるんすわ。後これの一番の根本は自分自身が自分がもつそのエゴがなんなのかを理解するところにありますな。

3.上記2.の論理に認識主体としての責任をもつこと(一般論や既成概念に依拠しない事、下流から上流に逆流しない事)

これは上記2とセット、意外とこれが大事で、対話においての捻れがこっから発生してるケースが多い様な気がします。つまりは2.でワイのエゴは○○で○○だから○○だと帰着したと説明していたが、この○○で、○○だからのエゴ発生の根拠の部分を自分自身の責任として引き受けるということです。例えば世間的には、、普通は、、倫理的には、、○○だからよくないと私は思う、などの枕詞をつかって自分のエゴ発生の根拠を説明したとすると、、『世間的』『倫理的』『普通』はそれ自体が誰か一人の認識主体から独立した絶対的な主体では無いので、そもそも人によってその解釈や内容がブレているものを論理の根拠にしていることになり、相手の認識主体性を無視していることになるんですわ。これは結構乱暴でそもそも認識主体同士の対話ではなくなり、ただの一方通行の発信になる。別に一般論も倫理も社会規範も、対話においては当然使っていいのですが、ただ『それを最終的にエゴの論拠として採用しているのは何処の誰なのか』というのを有耶無耶にしたら対話ができないというお話しです。「世間的にそうだから」ではなく、「ワイは世間のこういう価値観を妥当だと認識していて、それを根拠としてワイはこのエゴを採用した」と言うとズルくない。これは「世間がそう言っている」から「ワイもそう思う」に移った瞬間、その「ワイもそう思う」についてはワイの責任として受け止めていて論理に筋が通るようになる。
またあるあるなのが、自分のエゴとしての結論が先にあって、その結論を正当化するために後から原因や理由を組み立ててしまうことでし。
認識主体は下記の流れでエゴが発生していると僕は考えています。

▶︎エゴ発生の流れ

〜上流〜認識主体の経験・感覚→解釈→価値を見出す/前提構築→根拠の形成→結論(=エゴ)の形成→行動を起こす〜下流〜

これがエゴ発生の「上流から下流」の流れで、具体的な例えをだすと下記の様な感じ!

☆流れ
「昔ウンチを漏らした」
「ワイはウンチを漏らすのを嫌悪するようになった」
「だから駅ナカの公衆トイレの価値を重視するようになった」
「その価値から考えると、費用削減から公衆トイレを破壊するという行動は問題だと思う、ウンチが危ないので」=エゴ発生
「だからワイはこのトイレ破壊活動を支持する集団に反対する」

逆にこれが下流 → 上流へと逆流すると何がダメなのかという部分ですが下記になります。

☆逆流
「ワイはこのトイレ破壊行動を支持する集団が嫌いや」=エゴ
「なぜ嫌いなんやろ?」
「たぶんウンチに関してワイが過去体験した経験があるからや」=根拠の付け足し
「俺は自分の認識主体としての体験を論拠に集団に反対していたんや!」=偽のエゴ発生

この逆流の場合、本当にその結論通りに最初から自分の判断が形成されたのか分からないのです。実際には「なんとなく嫌い」が先にあって、後から説明を作った可能性もあるのです。これは起きがちやが注意しないと自分の認識に一貫性を与えるために、過去の自分の認識まで後から編集してしまう危険がある、そうなると自分自身すら信用できなくなるわよという。つまるところ自分が認識主体として「分からない」となってる情報を「分かっている」に改竄しない。「なんとなく」という感覚を、もっともらしい理屈に変換して自分を無理に納得させないということです。だから日頃感じている『わからないけど嫌い』は『わからないで嫌い』のままでいいし、『なんとなく気持ちいい』は『なんとなく気持ちいい』のままでも立派な論拠になります。それが認識主体として自分の感性から発生してしまっているエゴを持つときの責任ですねん。その素直さ正直さの精度から初めてエゴ同士で対話を作る為の発信が有意味になりますねん。

4.対峙した相手の認識主体性を認める事(互いの認識主体を勝手に代行しないコミュニケーション)

これは対話においてめちゃ重要です、シンプルにすると対話の相手の認識主体をガチで『決めつけない』というだけなのですが。上記1、2、3で自分自身の認識を自分のものとして責任を持って引き受けたのであれば、対峙する相手にも同じことを適用する必要があります(対話をしたいのであれば)。またここの小タイトルの「認める」とは、相手のエゴ/結論を自分にとっても正しいと同意/認めることではなく、ただ『その結論を持っている認識主体が相手自身であるということを勝手に奪わない』ということです。ガチに「貴方は本当はこう思っている」「貴方がそう感じるのは○○が原因だ」などの自分が認識出来ない相手の認識を確定させてしまうと、それは認識主体同士の対話ではなくなります。「ワイには貴方がこう見える」「ワイは貴方をこう解釈した」と、自分が認識主体として感じた認識として差し出すところで止める、というか認識主体としてはここまでしか言えない。仮に相手が「いや、自分はそう思わない」と言ったなら、そこから先の認識は相手のものとして捉える。つまり対話を通して相手を理解することと、相手に代わって相手を説明することは違うということです。対話を用いれば相手の認識を理解しようとすることはできるのですが、その認識の最終的な所有者は相手のままだし。これは自分のクオリアも相手のクオリアから説明されることができないのと同義で、対話においての自分の認識主体性を独立させる担保になってると思う。

5.対話において相手のエゴを変えることと、エゴ自体を理解することを分ける

これはつまるところエゴ通しの対話においての終着地として必ずしも2つの異なる認識主体のエゴを1つの結論に帰着させる必要はないということですわ、エゴに勝利も敗北も無いんですわ。上記1、2、3、4の対話を通して相手を捉えた結果、相手の考えが変わることはあってもそれは対話の副産物であって、対話そのものの目的ではないということですねん。対話してお互いを理解したし俺ら統合しようやー!!だけではなく理解した結果、なお分かり合えないというのも全然起こりうるということです。相手のエゴがどう発生しているのかを理解することと、そのエゴを変えようとすることには論理的な必然性がないので。わかりやすくすると『ワイは貴方のエゴのロジックは理解した、けど理解した上でなんか嫌なので嫌いです、貴方とは分かり合えないです』と言える権利を全ての認識主体が持っているということです。そう言われて逆に「ワイは貴方の考えを理解した。でも変わってほしいと思っている」と言える権利もあります。

○つまりどうすればよいのか

長々とクソみたいな記述を続けてしまいましたがつまり俺が何を言いたいのかというと、人類皆がエゴイストな訳でそれを統合したり、エゴ同士のハレーションを完全に解消することはシステム上不可能な世界にいるので、エゴを消そうとするのではなく、自分がエゴイストであることから逃げず、自分のエゴを自分のものとして責任を持って引き受け、相手のエゴも相手のものとして扱いながら、その二つを持ち寄って、互いに勝手に相手の認識を奪ったり、勝手に相手を代行したりせずにちゃんと対話しようということです。そうすることで何故衝突するのか、何故分かり合えないのか、何故分かり合えたのかの輪郭を捉えることができるのです。その輪郭を素直に正直に受け取る、これが認識主体としての人間がお互いにできる最大限のこと、ということです。


○対話しないというエゴ

究極的には上記の様なエゴとの向き合い方を全て無視するという方法もありますが、その場合対話という行為自体が難しくなる、というか必要なくなります。相手の認識主体性も認めず、ただ自分の『正しさ』を押し通すのであれば、そこにはもはや認識主体同士が互いの認識を持ち寄る『対話』という行為が成立する余地がありません。それはコンビニでお金を払わずにパンを貰っていくのと同じで、そいつが小売側に立った時に自分の商品を無料で持ってかれても、万引き犯を批判するロジックが成り立ちにくいみたいな感じで、筋が通らないことが、結局認識主体としての自分の根元にある『気持ちよさ』『正しさ』から発生した行動原理/ロジックにも自分に向けた欺瞞が生じざるを得ないというか、これは別に論理として破綻しているわけではないのですが、個人的な自己整合性の美学に起因してその感覚が発生しているんだと思います。


○最後に

本当に駄文で長くなってしまいましたが最後に、、これは別に常日頃このスタンスを継続すべきと言ってる訳じゃないです、『君は何で今チャーハンを選んだんや?それは君自身の判断か?その判断は君のどこからきた?』とか言い出してしまうと狂い人になってしまうので、普段は他者を適当にあしらっても大丈夫です、みんなそうしている様な気がします。あと全てをロジカルに説明しない美学もありますし、余白があったほうが気持ちいい状況もあります。ただその各人の人間性、思想、哲学、論理、倫理、行動指針などについて本当に腰を据えて話す時、つまり対話を始め、互いのエゴを互いのものとして持ち寄ってるなと感じた時にはエゴの運用ミスによる捻れを発生させない為に慎重にいきましょうというお話です。またこの主張自体も僕のエゴ、独善、美学から発生したものであって普通に信頼できないです、あくまで現在地点の僕が捻り出したうんちに過ぎないという部分はご理解頂きたい。

呂の格言
単純なものを単純なまま置けること。
複雑なものだけ、必要なだけ複雑にすること。

流石に次回は音楽について書きたい!!