「大樹にやどるもの」
この大樹の根元にも、大日如来と観音菩薩、尾崎稲荷(御先狐)に、白龍大神というように、日本は神仏習合…と謂われるような、様子が繰りひろげられている。
第三者として通りかかり、その様を見れば、混合とでも言いたいような雑多な様になっているから、日本では神と仏が同居しているとか、宗教に対して寛容であるとかいうような論になるのだろうけれど、けれども、案外、日本文化の根底にあるのは、animaに感応する感受性と美意識というような、一つのものしかないように思う。
多分、創作された神と仏が破綻なく習合する宗教説話や、ことばで編まれた教義というような絵空事には興味を示さず、大樹の存在感や生命力というようなリアリティーに生得的に反応するのが、日本的な日本人であったのではないか。?
もし、そうでないのだったら、どのような理由で、今日の日本の、あちらこちら、いたるところに、このようなアニミズムが、今でもどっしりと存在しているのだろうか。?
もちろん、異論もあるだろうけどね。
わたしは、そのように想う。