自然な不自然 | ーとんとん機音日記ー

ーとんとん機音日記ー

山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記


ゴールデンウィークだからね。
久々にゆっくりと・・・というのは、飛び込みの予定が入らないマイペースでということだけど、
ゆっくりと過ごしているので、久々に記事を書こうと思います。



わたしのように、過疎化した僻地と呼ばれる地域に暮らし、
草木染の染織なんてやっていると、“自然主義”みたいな先入観で見られることが多い。

けれども、本人は、あまり、そういうつもりはなく、合理性で行動している選択の結果なので、そういう先入観には違和感があって、居心地が悪い。
それに、ある意味で、今日的な“自然への回帰”のようなブームは、現代社会の病理だと思っているので、近くでもやっている森林セラピーなんかのスピリチャルな妄想と癒着した部分や、過度に健康効果を言い立てる部分なんかには、胡散臭いなと感じている。
「なぜ、ふつうに、ちょっと田舎を散歩したら気持ちよかったな。」と云うことで済まさないのだろうか。?・・・そのことが不思議でならない。

ところで、twitterに面白いツィートがあったから紹介しておこうと思う。


日経BP WMの憂鬱 @miyatamitsuru · 4月27日
WMの憂鬱。サツマイモで発見された天然の遺伝子操作に関する研究は、2015年4月14日号のPRONASに掲載された。以下から原著にフリーアクセスできる。GMO反対に関する議論は新規性が最大の根拠だった。根本から問い直す必要がある。


・・・要旨は、土壌菌のなかのアグロバクテリウムの自然感染で遺伝子挿入が行われていたことを確認したというニュースなのだけれども、つまり、これは自然界の遺伝子操作と呼ぶべき事例だから、GMO(遺伝子組み換え食品)反対に関する議論は新規性が最大の根拠だった。そのことを根本から問い直す必要があるとの事だ。

この発見は、欧州じゃ大騒ぎになっているそうです。
「1万年前に遺伝子操作、GMO規制根拠をサツマイモが打ち砕く」。GMO問題は私たちの未熟な自然理解の賜でした。・・・と言うことですが、・・・この点は、日経BP WMの憂鬱さんの仰るとおりだと思いますね。

そして、わたしは、このようにコメントを付けてRTした。

この現象を、どのように捉えるのかという問題と、もし甚大な負の結果が出た時に、非人工で起こった時は天災だけど、人為的な操作が引き金だった場合の社会的に担保すべき問題と、現代的な自然信仰のメンタリティーを納得させる問題(笑)・・・かな。


現代的な自然信仰のメンタリティーへの説得は、森林セラピーで木に抱き付いて癒したり、ムカデやマムシの事も考えずに森で寝転んでヨガする事へ違和感を感じない人に、その違和感を説得するに等しいのだから、最もやっかいだと思う。

また、別のツィートでは、こんなメントを付けてRTした。


わたしたちは、「壮大な、わからないこと」の中で生きている。それなのに、『わからない』という前提にたって物事を進めない。
それが人為的な禍の温床になっているのかもね。


わたしは、GMO(遺伝子組み換え食品)反対でもなく、頑なに、自然農法であるべきと思っているわけでもない。ただ、わたしが、自分の生の営みを“暮らして行きたい”と思えば、自分の手の届かない技術のGMOを受け入れるよりは、少なからず生産量が落ちても、自分の手の内にあるもので満たしたほうが合理的だと思っているに過ぎない。

それにね。少し踏み込んで言うと、人為的な遺伝子組み換え操作を受容できるほどに、私たちの社会は成長していないと思うし、また、フェアでもないと思うから、技術的な懸念よりは、社会的な問題が、なかなか解決できないのだと思う。
けれど、食糧難や、飢餓となると、こういう議論を超えて、GMO(遺伝子組み換え食品)を受け入れるだろうとも思う。
だから、人は悲しい生き物なのかもしれないな。

意識していようがいまいが、“食料”は戦略的な物質である。
だから、食料の自給率という問題があるのだけれど、・・・
最近ちょっと気づいたことがあって、
外務省のTiSA交渉のリリース文書に「我が国消費者の利益の向上」と記されていた。TiSAの内容を読むとTPPと重なる部分が多く、また、TPPの方が規模が小さいから、TPPは、TiSAのダミーか事前調整用の試金石なのだと思える。

それで、そのTiSAの関連文書で、どこが気になったかと云うと、従来ならば『我が国国民の利益』とされたであろう表現が『我が国消費者の利益』と記されているところで、わたしはいつの間にか“日本国民”から、経済活動の市場を形成する要素である“日本国消費者”に立場が移行していた。
単なる、表記表現の問題でしょうという理解もあるが、公の機関の文書の中の表記表現とは、様々な言外の意味を含み、それゆえに、かなり重たいことなのだ。

そういう中に、GMO(遺伝子組み換え食品)を置けば、科学的な問題としては是であっても、こういうことや社会的な問題の歪が、わが身に降りかかることを想定すれば、否であるが、・・・。
けれども、こういうGMOを食べるか食べないかと云う問題は、誰かの意見に依存するとか迎合する・・・ではなくて、個々のポリシーの範疇の事で、それぞれが、それぞれ考え決めたらいいことだと思う。単に、買う買わない、食べる食べないの自由意志の選択で済んだ事を、つながり、あつまり、デモなんかしないといけないような政治のマターにしないで欲しいものだ。

なんだかね。世の中では、いろんな事が起きすぎて、平穏に廻っていってほしいものだと思う。