内国勧業博覧会-斉藤製絲場のこと・その後の調査より- | ーとんとん機音日記ー

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山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記


 わたくしどもでは、養蚕や機織の作業の合間を縫って、三重県での養蚕や製絲について調べています。そうした調査の中で他分野ながら幾つかの興味深い事実に出会うこともあり、そのような事柄について、このブログで紹介することもあります。

 そうしたもののひとつが「志摩の“煉化石”」として紹介した、竹内仙太郎にまつわる歴史の一端です。 

 
 「明治六年一月二十八日午後第二時東京新橋より汽車に駕して横浜に至り其の夜はこゝに宿り、翌二十九日午後三時過ぐるころ、かねて政府にやとはれし法朗西の郵船フアーズといへるにのりぬ。・・・」と云う書き出しから始まる、近藤真琴の「澳行日記」では、「三十一日朝六時過ることおきいでゝ望めば船は紀勢の海にあり。志摩の国さへ水天の間にかすみて見ゆ十時の比には紀の大島の灯台も手にとるばかりになりぬ、・・・」と綴られている。

 近藤真琴がウィーン万国博覧会日本館事務官として派遣されてヨーロッパに向かう船の中から、志摩の海を望み、南紀の海を駆け抜けてゆく。

 その「志摩の国さへ水天の間にかすみて見ゆ」と記した近藤真琴の視線の彼方では、菅島灯台の建築の場にかかわって、竹内仙太郎がいて、煉化石を焼いている。


 そのような歴史史料の断片が、奇しくも交叉する瞬間を見出すと、とても興奮します。
 わたしの養蚕や製絲や機織にまつわる調査は、そのような瞬間を見出したくてやっているようなところもあるなと自分でも想います。


 加えて想起するならば、近藤真琴が「十時の比には紀の大島の灯台も手にとるばかりになりぬ、・・・」と記した紀伊大島の東端断崖に建つ樫野埼灯台も、リチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton)の設計です。

 明治初期の煉化石(レンガ)製造者 竹内仙太郎にまつわる連載記事「旅人、海へ」の取材で、うちの工房にお越しくださいました六郷孝也さんは、「いつ、どのようにして、竹内仙太郎が煉化石製造の技術を習得したのか。?」という疑問に対しては、明治政府の、お雇い外国人第1号であったスコットランド出身の英国人技師、R. H. ブラントンとの関わりのなかでだろうと御考えでした。
 わたくしどもも、同様に考えましたが、その想定に準じて、竹内仙太郎と、R. H. ブラントンとの出会いを「菅島灯台の建築の場にかかわって」とするならば、「第二回内国勧業博覧会解説」に記された・・・

明治2年中、自己の実験に係るものにして創業し、答志郡安乗島灯台の“煉化石”を製造し、引続き同郡菅島同断(おなじことわり・おなじさま)の“煉化石”を焼き、同5年長州津島灯台設立に付出張營業し同6年帰村。

・・・という内容の、「明治2年中、自己の実験に係るものにして」という記載は、どのような事情によるものだろうといぶかしく思います。

 なぜなら、菅島灯台は、明治5年1月(1872)着工、明治6年7月1日に点灯とされているので、時期的な整合性を欠く感も否めないからです。
 そこで、やはり気になるのは、竹内仙太郎と、R. H. ブラントンとの日本製煉化石製造にまつわる共同作業の始まり(接点)をどこに求めてゆけばいいのかと言うことなのですが・・・。
残念ながら、その辺りを裏付ける史料にも、文献にも、未だ出会えていないので、いまのところ、その物語は、わたしどもの心のうちにしかない歴史の想像に留めて楽しむことしかできません。

 養蚕や製絲や機織にまつわる事柄と、海路や灯台とは、全く関係がないではないかと多くの方は思われるでしょうけれど、幕末から明治と云う時代にかけての、日本の養蚕や製絲と機織にかかわって「輸出蚕種や生糸や織物」というところから考えれば、直接ではないにしろ、無縁どころか深いかかわりがあると言えるでしょう。
 だって、輸出生糸の港である横浜の街を計画したのも、R. H. ブラントンですし、航路や灯台が整備されていったことが、輸出生糸や織物が盛んになってゆく上での基盤だったと思います。
 このあたりの事情を鑑みて、英国の側から言えば、港湾設備や灯台の建設に積極的に協力したのは、自国の交易路整備のための事業ということになるのでしょう。

 明治初頭の灯台建築の場で用いられた“煉化石(レンガ)”の製造を手がけたのは、答志郡渡鹿野村の人 竹内仙太郎でした。
竹内仙太郎の“煉化石”は、明治14年の第2回内国勧業博覧会に出品され、「第二回内国勧業博覧会解説」という史料に詳しい記録が残されました。
 ただ、その後の竹内仙太郎については、史料に欠けていて、その姿を追うことができませんでした。竹内仙太郎が習得した“煉化石製造の技術”は、その後どうなったのか。?
三重県内に於けるレンガ造り技術として、定着して広がったのか。?
それとも、竹内仙太郎の“煉化石製造の技術”は、その後途絶えたのか。?
竹内仙太郎の姿を追いかけている六郷孝也さんの連載記事「旅人、海へ」のなかでは、「竹内仙太郎の家は、孫の仙一郎さんの代まで瓦を焼いていたそうだ。」と記されているから、その後、竹内仙太郎は煉化石製造者から本職の瓦屋に戻ったのだろうか。?
 もし、竹内仙太郎は煉化石製造所が、時代の流れに即した立地条件を備えていたり、仙太郎自身が、事業意欲が旺盛で、煉化石の需要が見込まれる東京や横浜、あるいは、名古屋や大阪や神戸へ進出していれば、その後日本の代表的な窯業メーカーの創始者になっていたかも知れないのだけれど、・・・わたしは、そのような誰もが知っているような成功者より、淡々と自分の仕事をきっちりと終えて、歴史の帳の陰に人知れず消えてゆく、仙太郎のような人々の存在が愛おしいと思うような性分だから、そういう視線で歴史を観ています。


 竹内仙太郎との邂逅の縁を与えてくれた、わたくしどもの、三重県に於ける養蚕や製絲について調査は、同時に、一志郡多気村の斉藤製絲場との縁も与えてくれました。

 一志郡多気村の斉藤製絲場については、木製器械製絲機の陶器製繰糸鍋がどこで作られたものなのかを調べ続けていますが、まだ手がかりには出会えません。
 けれども、その後の史料調査で、斉藤製絲場の生糸が、明治28年(1895)4月1日~7月31日の期間、京都市岡崎公園で開催された第4回内国勧業博覧会に出品されていたことをつきとめました。


 一志郡多気村の斉藤製絲場の存在は、地元でも忘れ去られた存在でしたし、三重県の蚕糸業史に於いても取り上げられることのないような規模の小さな製絲場でした。
 斉藤家の家文書によれば明治18年頃から・・・、国の統計調査によれば明治19年頃から操業を始めたと記されている斉藤製絲場なのですが、実際にいつまで操業をつづけていたのか詳らかにはわかりません。
 とにかく、そういう性質の案件を調べるのは、砂漠に落とした針を探し出す覚悟で、根気とモチベーションを糧として、斉藤製絲場と同時代性のある史料をひとつづつ読み進めてゆくしか方法がありません。


そのような作業の中で、幸運なことでしたが、第四回内国勧業博覧会関連の史料の中に、「生糸 一志郡多氣村 斉藤文三郎」と記載されているのを見つけました。
 それに、同史料には、三重県に於ける生糸製造者も多く記載されているので、いままで調べてきた三重県の養蚕と製絲にまつわる史料を補完するところもあり、大助かりです。

 今年の養蚕を終えたら、わたくしどもの、探求の旅がまた始まります。
それまで、好奇心を抑制して、養蚕に集中することに勤めます。



・・・・・・・・・・・・・・ <web上の参考文献> ・・・・・・・・・・・・・
現存する明治期築造の灯台一覧

明治前期お雇い外国人の給与

外国人のみた明治日本の近代化と欧化