今日、歩いていたら、少し色づきはじめた梅の実を見つけました。
今年は、急な寒波に見舞われて、霜害が起きたので、予定外の作業が生じて忙しく過ごしているうちに、季節は、どんどん進んでいっていたようです。
この季節、いつもは自動車で駆け抜ける道も、自動車を止めて歩いてみれば、小さな花をつけた野草をみつけて、心豊かな時間を持つことが出来る時期なのですが、わたしは稚蚕飼育にかかりっきりで、寝不足気味です。
「限界集落の棚田の田植えと水」の記事にも書いたことですが、“食行身禄の里”の田植えは、大変なことになりました。
平成23年の台風12号が起こした山崩れで田圃の灌漑用水路が壊され、復旧できないまま二年が経ちました。去年は降雨にも助けられて、水が少ない乍も、何とか乗り切ったそうですが、今年は、最初から水不足に悩まされて、このままでは田植えをすることが出来ないので、二軒の家が随分高低差のある雲出川の源流の流れからポンプアップして田圃に水をいれることにしました。
けれども、そのうち一軒の家の二枚の田圃は、エンジンポンプを用いても力の及ばないくらいの高低差があったので、どうしようもなくて、田植えすることを諦めました。
残るもう一軒の家の田圃では、土が水を含んだところを代掻きをして、また水を含んだところが増えるまで待って代掻きをするという作業を少しづつ繰り返して、やっと田植えができるところまでにこぎつけました。
しかし、そんな大変な苦労をして、やっと田植えをした田圃も、これからの夏の時期に水が途切れてしまえば、稲は枯れてしまいます。
・・・かといって、水がなくなる毎に、エンジンポンプで高低差の随分ある川の水面から水を汲み上げて田に水を送るというやり方では、その都度ガソリン代がかかってしまい大変な負担を強いられることになってしまいます。、
お米づくりを、事業として単純に考えれば、こういう事は生産コストがかかり過ぎてしまい、投資した資本を回収できるような事はないので止めるべきだし、してはいけないことです。
なのに何故、そこまでしてお米をつくろうとするのか。?
そういう事を、TPPで揺れる今だからこそ、あらためて見つめ直し考えてほしいと思います。
日本は、米作りの文化と共に歩んできた。・・・というような事が、よく言われます。
この場合の“文化”と云うことの意味は、嗜好的で趣味的なカルチャーというような事ではなく、「生を営む上で、切実であり重要な事柄」と云う意味での「文化」であることは、改めていうまでもないことですが、もっと実情に近づけて述べるなら、それは稲作を代表的なイメージとした雑穀や多様な作物をつくる日本の農業の文化ということなのでしょう。
米作りをやめたら環境も文化も失う(新聞「農民」2003.5.19付)/「農民」記事データベース
田植えの済んだ田圃に、五月の晴れた蒼い空が映っています。
田植えの最中は、軽快な農業機械のエンジン音が山に反射して、すこしお祭り騒ぎのような雰囲気でしたが、作業をしていた人々も去ると、山村は、いつもの静かな貌に戻ります。
あたり前のことのように、空の青さや木々の緑を鏡のように静かに映す、棚田の水面なのですが、・・・。
この、“あたり前の事”の陰には、山を切り開いて石垣を積み、棚田をつくり上げた人々の歴史や、きょうまで、それを維持し続けてきた人々の生き様があることに気付かされます。
・・・けれども、そのような中山間地域では、同時に、過疎高齢化による限界集落化が深刻な問題となっているという事も、やはり目をそらせられない事実なのです。
わたしどもは、この地域の集落に移って来て、養蚕に取り組み始めたのですが、もともとの活動拠点は大阪でしたから、“過疎高齢化による限界集落化”とかいう問題は身近なものでもなく、また、“都会に住む他者の眼”から見れば、“過疎化の全てが、悪いこと”と思えないと感じていました。
そのような感受性を代表するものを揚げれば、例えば、平成16年の新潟県中越地震を契機にして行われた「被災地域における多様な主体の連携による中山間地域まちづくり推進調査」(平成17年度国土施策創発調査)の国土交通省報告書に記された観点などが、その代表的なものなのかもしれません。
その報告書では中山間地域に対して、『「自然の営み」と「人の営み」が共存・共生する場所』と位置づけて、「条件不利地域」と云われる中山間地域に、新たな視点や価値を見出そうと試みで、その内容は好ましいのですけれど、それはやはり、“都会に住む他者の眼”からの観点に終始しているのだと思います。
また、同じ調査の農林水産省報告書でも、“農業・森林の多面的機能”ということに、中山間地域の持つポテンシャルが明確にまとめられていて、とても頷ける内容なのですが・・・。
しかし、実際に、その過疎高齢化にする限界集落で暮らしてみて想う事は、『“都会に住む他者の眼”を通じてしか、中山間地域に対する価値を見出すことができなくなっている現状』が、中山間部地域にある最大の苦悩なのではないのだろうかと感じられます。
なぜなら、“都会に住む他者の眼”が見出す、中山間部地域の価値のほとんどが、・・・。
それらは、計画的に意図されて残されてきたものではなくて、ある意味で、社会構造の歪から生じた出来事として、「取り残されて、忘れられていた」から、奇しくも残されたことであるという矛盾に触れずに、中山間地域の価値を語り、未来を語るから、熾るものなのかもしれません。
その矛盾について、どのような姿勢を持っているのかと云うところの齟齬が、都市の側と地元の側には横たわっているのではないでしょうか。?
今、一番必要なのは、“都会に住む他者の眼”を通じて見出された、中山間部の暮らしに対する価値ではなくて、「中山間地域に暮らし続けてきた人々が、主体的になって“新たな価値をつくり、影響力をつくりだして行く事”なのですが・・・。」
けれども、そのような地域戦略的な要素を作る為に奔走していることよりも、もっと切実に必要なのは、「ここに暮らし続けてきた人々が、その文化に包まれて、安らかな生涯を送れること」であるとも思います。
結局、集落に暮らす側の立場では、『“集落機能の存続”と“集落の終焉”というような相反する事』に、どのように対処してゆけばいいのかと、考え続けることしか、今は出来ません。
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被災地域における多様な主体の連携による中山間地域まちづくり推進調査






