工房がある“食行身禄の里”では、今、茶ノ木が花をつけています。
それにしても、もう十月だというのに、昼には真夏のような陽射しが、戦場での矢のように降り注いで、また暮れて日が蔭れば、深山に人知れず蒼い水を湛える池の水底のような、その沁み入る冷たさに慄いたのか、或いは、あろうことか夜と昼とが鬩ぎ合う狭間に紛れ込んだような様子に、生くるものたちは皆、驚いているのか、この山里の柿さえ今年は実を結ばない。
日本のいつもの秋が失われて、今年で二年目になります。
失って、はじめてわかる、“ふつう”にあったものの有り難さ。
人災を起こした人々の政権が、未だに国の中枢に居座りつづけて、大事なことを決めている。
その人たちが決めた安全基準は、どこまで妥当なものなのか。・・・と、疑問を持つのが、普通の感覚です。
いづれにしても、わたしたちにできることは、反原発ムーブメントの喧騒に酔って、何かが進展したなどと、思い違いをしないように、感覚を麻痺させないで、3・11以前の、日本の秋が還って来るのを待つしかないのでしょう。
秋は稔りの時なのですが、わたしのところでは、いつも、いろんな作業が重なりあうから、同時に、忙しい季節でもあるのです。
秋蠶が済んで、糸取りが進んでも、制作工程のフィニッシュワークは、まだまだ先の事になりますから、そういう染織の作業の合間を縫って、蠶具のかたづけをしているのですけれども、そのときに蔟(まぶし)に残った金色の毛羽が目について、あっという間に過ぎた今年の養蚕の事などが、すごく昔のことのように思い起こされます。
一昨年、去年、今年とつづく養蚕と云う作業のめぐりの中で、行なっているのは、蚕を飼って糸を取るという同じことなのですけれど、それでも、やっぱり、変化してゆく部分などもあるものでして、・・・。
また、その反面では、ずっと長い間、ここで同じような営みを繰り返してきたような錯覚も覚えるのですが、そういう感覚って何に因るのでしょうか。
今年の養蚕は、いろんな事をやってみたので、去年よりは大変でしたが、稔りも多かったのかなと、振り返って思いますが、来年はもうすこし、楽なペースにしたいものです。
ところで、お芝居の世界の言葉に、「千龝樂」と云う言葉がありますけれど、
含蓄の深い、いい言葉ですね。
「多くの豊かな実りを集めたような大楽(喜び)」
・・・というような意味なのでしょうか。
いいことも、悪い事も、遍く一切の諸々を呑み込んで、迎えたこの喜びの季節を、ゆっくり味わっていたいものですが、残念ながら、わたしの目の前には、次の作業が並んで待っています。
これから順次、どのような織物にしたいのかを考えながら、絲にしてゆくわけですが、・・・
そういうところから考えても、物事は分断できない一連のものであり、プロセスと結果は一体であるわけなので、時間がかかろうが、手間がかかろうが、そのプロセスを辿ってゆくしかない訳なのです。
いいことも、悪い事も、遍く一切の諸々を呑み込んで、迎える喜びの「千龝樂」は、いつの事となるのでしょうか。?


