実りの秋を前にして-山間部集落の獣害と、集落というフィールドの活用と、その主体- | ーとんとん機音日記ー

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山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記



 やっと、一年の努力が実ろうとしていた矢先に、集落の田圃で、鹿に荒らされるということが起きました。

電気柵や防獣ネットを張り巡らせていても、このようなことが起きます。

 わたしのところでは、お米作りをしていませんが、桑も鹿たちに狙われているので、防獣ネットを張り巡らせていることを、以前に書きましたけれど、こういう点から云うなら、獣害がない地域で作物を栽培するのと、山間部のひどい獣害に悩まされている地域で作物を栽培するのとでは、様々な獣害対策用具や設備を整えなければならない分、後者の方が手間やコストがかかるということは、誰が考えてもわかることですね。




 逆に、このことは、両者で生産された作物が、同じ値段でしか売れないのなら、後者の方が利益が少ないことに通じます。

 山間部の集落の農地の多くは、傾斜地に作られた農地なので、大きな耕作面に農地を集約したり、大型機械を導入したりという形の農業の合理化によってコストを下げるとういう手法も、ここでは合理的ではないですね。
 だから、山間部の集落で行われている農業を、単純に生産性や利益率というところからのみで評価してしまうと、ゼロかマイナスでしかないのですけれど、そこで行われている自給的農業は、日本の食糧の自給率を陰で支えているこいうところは、忘れて欲しくない部分です。

 それに、三重県美杉町川上地区では、去年の台風災害で農業用水の取水口が壊れ、また水路自体も一部が地すべりで埋まってしまうようなことが起きたので、稲作を行っている人たちが中心になって、自分達で緊急に対策をしてなんとか水を確保したと聞きますが、やっぱり、夏の渇水期には水が不足してしまったそうです。
 災害によって水路が壊れたというような、こういう場合、災害復旧事業として、行政が取り組んで欲しいものだと思いますけれど、迅速な対応が望めないのなら、「今年はお米がが作れない」という事になります。
 今年は、稲作をあきらめて、休耕するか、転作するかという決断に迫られたときに、自分達でできることをやって水を確保して、「米作りをあきらめないこと」を選んだそうです。

 耕作面積も平野部に比べれば小さな田圃なのですけれど、ここでは、そのようにして耕作が維持されています。





 そのように、山間部の棚田を維持し稲作を継続的に行なうのには、水路の維持、耕作地の維持、獣害対策などに、大変な手間と人手がかかるのですが、そういう部分を担って耕作している人たちの、ほとんどの方は80代の方たちなのですよね。

そして、この80代の方々の耕作技術が、また感動的なのです。




 わたしが養蚕を手がけていて見えてきたのは、産業構造の中の、ひとつのパートとして組み込まれた養蚕と、自家用に当てることを主目的に据えた養蚕の、それぞれのあり方についてです。

実際には、それぞれが、単純にスパッと分けられるということではないのですけれど・・・

 わたしが意識して見出そうとしているのは、養蚕と云う行為の主体が、どこにあるのかというようなところです。なぜなら、わたしは、物事にとって主体の位置というのは、モチベーションの質にかかわるので、大事なことだと想うからです。



 最近、このような山間部の集落といフィールドを活用して・・・と云う風に語られる、グリーンツーリズムや、森林セラピーのような動きが顕著になってきているのですけれど、いぶかしく思うことがあります。

 以前からも、“村おこし”や“町おこし”で、都市部から人を呼ぶということは行なわれてきました。この場合は、その主体が、“フィールドを活用して”というのなら、その活用の主体は地域の側にあります。
 しかし、最近では、・・・特に、グリーンツーリズムや、森林セラピーのような動きがでは、その活用の主体が都市の側あるというように変化してきているのですよね。
 つまり、そういうところに対する違和感が目立つようになってきているのですよ。変なことですけれど・・・。




 その違和感と云うのは、例えば、グリーンツーリズムや、森林セラピーの企画書などに多用されている、この“活用”と云う言葉なのですけれど、・・・。

 考えれば、これは企画した側の誠に勝手な言い分で、地域の側に立っていうならば、誠に失礼な捉え方だと思いますね。
 なぜなら、「活用」という言葉には、「本来、価値ある物が放棄されているので、それを再び見出して“活かして使う。”」という意味が含まれますから、そこを意識すれば、・・・。


わたしの住む集落も、森林セラピーコースに含まれているのですけれど、うちの集落は、何も活用されずに放棄されている地域なのでしょうか。?


・・・というような、相手(グリーンツーリズムや、森林セラピーなどを企画している側)がどのように山間部の集落を捉えているのかと云うような見識について、疑問が出てくるのですよね。

「山村の自然豊かな環境や、伝統的な暮らしの文化が息づくフィールドを活用して、・・・云々」というような形で常套句的に使われる「活用」という言葉なのですが、・・・では、そのような山村の空間は活用されていないのかというと、そうではなく、「十分に地域の生活場として活用されています。」


 都市に住む、グリーンツーリズムや、森林セラピーの企画者側からの視点で言うと「癒しの場」なのかもしれませんが、「自然豊かな環境や、伝統的な暮らしの文化が息づく、実際の山村では、“自然との闘い”があって、暮らしが守られています。」・・・それは、活用していることではないのでしょうか。?

都市からの視点で、山村というフィールドを「癒しの場」に使いたいということは、それは「活用(利用されず放棄されたものの価値を見出し、新たに使い始めること)」ではなく、「利用です。」

 「活用ではなく、利用しているんだ。」という共通の認識に立てないのなら、いわゆる、都市と山農漁村の交流事業は、お互いにギブ&テイクの関係がつくれない不幸な平行線を辿ります。





 だから、ここには、グリーンツーリズムや、森林セラピーのプログラムを起案する立場の人たちの意識が顕われていて、多くの場合では都市に生活している彼等に目には、わたしが暮らしているような山間部集落のフィールドについて、「価値ある物が放棄されているところ」であり、「(放棄されているのだから)都市の側が起案して活かして使ってもいいじゃないの。」っていうように映っているという、利己的な価値構造が見え隠れしています。そこが、京都大学助教の小出氏が指摘する原発問題の元となっていると仰られる“都市側からの僻地への差別”ということの諸相の現れの一つなのでしょうね。

 『公共性:多数(都市)の利益』ということをたてに、ダムを造り集落をダム湖に沈めたことや、ごみ処理場を山間部に設けることと、原発の設置は同根です。そして、それが風力であろうとも、ソーラーパネルであろうとも、同じ構造が、そこには控えています。

 だって、山村は、そこに人の暮らしの営みがある限り、「十分に利用されず放棄されたものや、場所」ではありません。


 瑣末なことかもしれませんが、「活用」という言葉に含まれる“無意識の部分”に、そのような“重い問題”が隠れているように感じます。

 グリーンツーリズムや、森林セラピーなどの都市と山農漁村の交流は、同時に都市と山農漁村の共生なのだと云うのですけれど、・・・

 この共生は、相利共生なのか。
それとも、都市からのニーズが優先される片利/片害共生なのかというところを、よく考えたいと思います。