鬼女 紅葉の憂鬱 -2012 9/1 北畠神社霧山薪能- | ーとんとん機音日記ー

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山間部の限界集落に移り住んで、
“養蚕・糸とり・機織り”

手織りの草木染め紬を織っている・・・。
染織作家の"機織り工房"の日記


2012 9/1 北畠神社霧山薪能




 今読んでいる本に書いてあったという薀蓄(うんちく)を語ることが好きな好事家の人などより、“モノをつくる人”は忙しいので、リアルなものに出会えそうな自分自身の予感を頼りにして日々を往くのだけれども、・・・。

 雨雲にポッカリ穴が開いたような雲間から夏の残り香のように強い陽射しがフラッシュしたかと思えば、すぐさま景色は変わり、龍神が、その身をくねらせ空を往く様に、雲が行き交い、谷間から霧が立ち上るというような、“エキセントリックな予感”に満ちたその日は、“何かが始まる”ことを虫の知らせに告げるような、シチュエーション=バッチリの演劇日和でした。

 開演直前まで雨が断続的に降り、飼坂峠の方から訪れた人達は皆、虹のアーチに迎えられ、開演時にはその雨もぴたりと止むという神慮や瑞祥に満ちた濃厚な空間に出会えるという、野外劇ならではの自然のダイナミズム(演出)に酔いしれながら薪能の始まりを待つ、わたしたちの気持ちには、自然と心地よい昂ぶりが宿ります。

お目当ては、以前から楽しみにしていた霧山薪能で演じられる“紅葉狩”。


ーとんとん機音日記ー-鬼女 紅葉の憂鬱-02



 “紅葉狩”は、戸隠の鬼女紅葉の物語りであるが、「鬼」という字を戴くことからも、紅葉は、既に、亡者となり、この世の存在ではなくなっていることが知れる。また、遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山という場所には、幽界(隠り世)のイメージが漂っている。

 霧山薪能が行なわれる北畠神社は、戦国期の北畠氏が織田氏によって攻め滅ぼされた因縁のある場所なので、霧山城落城の悲運に泣いた北畠氏の女性たちの御霊を慰め鎮魂する為に、能楽が奉納されるということを考えれば、この「紅葉狩」ほど似つかわしいものはないに違いない。


ましてや、篝火の炎が揺れるたびに、光と影が錯綜し、あの世と、この世の境が解けて、この世ならざる者達が、顕われ出づることのありやなしやと、その想像を掻き立てられるロケーションを得て、誠に待ち遠しいプログラムでした。


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和泉流狂言の「柿山伏」も、面白く拝見いたしましたし、
加えて、喜多流 長田驍、井上靖浩の両氏による「紅葉狩」は、とても良かったです。


・・・が、しかし、会場のオーガナイズには、とても残念な点がありました。

「喜多流 紅葉狩」が場所にも合っ演目であったし、内容も、とても良かったのです。
そして、雨に濡れた仮設野外の能舞台で演じる方々も、大変だとは思うのですが、そのような御苦労のひとかけらも観客には見せない素晴らしい舞台であったのに、そのような演者の方々努力を踏みにじるような出来事がありました。

 だから、この記事を書き始めるときは、こんな苦言を書くつもりではなかったのですが、やはり、そこを書き記さないと、上演を楽しみにしていた人々の気持ちが翳ったことも、無かったことにされてしまうので、敢て、その事を書いておきます。




 結論から言えば、“舞台照明家”でもなく、“舞台音響家”でもない、単なるイベント屋さんの仕事は、「ただ、照明は馬鹿正直に明るく、音響は講演会のスピーチの音のように無遠慮に大きいだけ・・・。」、つまり、全く世界観がないので、「薪の焔の耀」よりも、煌々と明るく強い光が投げかけられたような舞台は、利権がらみの政治家の選挙演説の場にこそ、似つかわしいとさえ思いました。

 野外劇ならではの自然のダイナミズム(演出)に酔いしれながらの薪能であったのに、“センスの無いイベント屋さんの照明と音響が興醒めにしてくれたことが、ホントウに腹立たしく思います。”

 そのことに加えて、冒頭に北畠神社の宮司さんが、社殿で祝詞を奏上申し上げているときにも、司会は低頭するように促すでもなく、あろうことか、その時、同時に、津市スポーツ文化振興部の関係者が、「薪能の意義」を含めて自画自賛的なスピーチを繰り広げるという全く、文化程度の低い進行を行なったことが、輪をかけて、「せっかくの薪能の場を台無しにした。」と感じます。


物事は、「時と場とひと」が得られなければ成立しないということを、わからせてくれました。


 この霧山薪能は、元々は、斉藤昭久氏などの地元の有志で始められ、予算的に持続が困難になったところを、津市が引き受けて、津市スポーツ文化振興部文化振興課文化振興担当の中に「霧山薪能実行委員会」というポジションを設けて行なっている実質的な行政イベントになってしまっているのですが、藝術だの文化だのという領域は、その価値に心を寄せる人々のピュアなモチィベーションを原動力として成り立つものなのに、どうなのだろうと疑問が残ります。なぜ、その薪能をはじめた有志のグループの活動を助成する立場に行政がその位置を留めないのだろうかというところも釈然としません。


 前述の地元の有志で資金を集め霧山薪能を始められた斉藤昭久氏に、そのきっかけについて詳しく御聞かせ願いましたならば、「元々は、伊勢国司北畠氏が保護した伊勢三座(北畠三座)のうち、一色能(和屋座)の演者の方が、縁のある北畠神社に奉納の能を献じたい」と申されたのを地元有志が受けて始まったとのコトですから、歴史的な背景も整った“能楽の古形の趣が伝わる住民主体の文化的な意義が高い企画であったわけです。”


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 しかし、津市スポーツ文化振興部文化振興課が、霧山薪能を催すようになってから、津藩藤堂家に縁の深い、“喜多流”で演じられるようになるのですが、藤堂高虎は、伊勢北畠氏滅亡のきっかけになった松ヶ島城攻めに織田方の立場で参加しているのですから、北畠神社に祀られる北畠氏の立場から見れば、「いわば、仇方の縁者が・・・」という形になってしまいます。

 一応、「文化振興課」なのですから、“戦国期の伊勢北畠氏城郭跡”をかかえる地域の歴史文化に沿ったコーディネイトセンスってあるのではないかと思います。






 また、薪能という舞台芸術の上演の場の質のことについて想えば、
能の世界観を理解している照明・音響の技術者が担当していれば、もっといいものになったでしょう。

 そして、北畠氏三公を主祭神とする北畠神社の齋庭で薪能を上演する意味を考えれば、宮司の祝詞奏上を無視して、津市職員がマイクで挨拶を行なっているなんて論外です。
せっかくの機会なのに、余計に、残念です。

 行政さんサイドでは、「やったという事実」だけが重要なのでしょうけれど、芸術文化に心を寄せる人々が見ているのは、「その質」です。
そういう、物事に対する温度差は、何とかならないものでしょうか。?

 霧山薪能が最初の趣旨に還って、薪能を催すものならば、“演者の舞台芸術”を妨げるような照明や音響が行われるなど、考えられないことではあるし、斎庭に(仮設の)木屋を建て畳を敷いたと云う素朴な舞台仕立ての中世の呪師的な面影が残る猿楽の世界は、他所から人が見に来るような地域の文化資源となりそうなものだと思いますが、そのような発想をもてないのは、行政主導の“文化振興”であるが故の事なのでしょう

、「この能力の無い行政の文化振興担当者が、薪能のスポンサーのような顔をして、宮司の祝詞奏上を無視して、マイクで挨拶を繰り広げるなど、持っての他の暴挙です。」

 このような不見識と尊大さがあらわな態度で臨んでいるのは津市職員のうちの一部の人で、そこに行政的な文化振興や助成の位置と、芸術文化のパトロンの位置とを混同した意識があるからに他ならないと思うのですが、それが「津市の文化行政の実態」だと誤解されてしまう危険性もありますね。

 行政が税金を投じて行なっているイベントに於いての職員の位置は、住民主体の文化活動を助けて裏で忙しく立ち働くバックアップスタッフに徹するべきではないでしょうか。?



ーとんとん機音日記ー-鬼女 紅葉の憂鬱-07



 つい最近も、大阪市の橋下徹市長が、世界でその芸術性と文化的な価値が認められている文楽に対して子供じみた論点から批判を繰り返し、補助金をカットする理由に結びつける論理のすり替えを行なったということがありました。しかし、そもそも、「藝術や文化という領域は、誰もが等しく理解を示し、好ましく思う必要の無いものです。」
それぞれ個々に、興味がある対象から、自分にとって必要な部分を見出し吸収できればよいだけの事ですよね。

 twitter等の文楽批判発言から、橋下徹さん個人は、「文楽に違和感を感じ、その上で演形態について変更したいという意見をお持ちだということが、良くわかりました。」・・・が、総ての人が、橋下徹さんのように、御自分の生理的な違和感に固執して表現の様式ということが咀嚼できないほど“キャパシティー”の狭い感受性や知性で物事を見ているわけではないのですが、文化振興のための助成にまつわる予算決定権をもっている行政の担当者やトップに橋下徹さんのような人が座ると、「その人の能力は問われないままに、そのひとの趣味や嗜好や価値観によって、“助成するべき対象”が決まってしまうという弊害が大きいことが、世界中から失笑を買った“橋下徹大阪市長、文楽助成金カット事件”によって明らかになりました。」
 結局、霧山薪能での出来事も、津市役所全体の問題というよりも、文化振興の担当者の価値観や好みや感受性や知性が反映したものに過ぎないのでしょうが、それだけに、「行政システムがかかえるとっても大きな問題だと思います。」

 とにかく、「楽しみにしていたのに、ほんとに。ほんとに。ほんとに悔しい。!!」
けれども、随分苦労して、写真だけは、篝火の明るさにあわせて撮影したので、「喜多流 紅葉狩」の趣が雰囲気だけでも御伝えできたかと思いますが、・・・。
あのバラエティーイベントのように明るい薪能の舞台を思い出すたびに、当分の間、このやり場の無い怒りは収まりません。!! 

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