明治19年に当時の一志郡上多気村で操業を開始した斉藤製絲場。
その建物の中で130年も眠り続けていた木製の器械繰絲機(製糸機)。
今、世界遺産登録運動を展開している群馬県の官営 富岡製絲場で導入されたフランス式の器械繰糸技術である共撚式(複繰式)という技術が、最も定着したのは三重県であったということは、あまり知られていない事実で、実際に、この“斉藤製絲場”の事を調べ始めるまでは、わたしどもも、この事は、そんなに意識していませんでした。
その三重県への共撚式の定着を担ったのは、やっぱり、当時の優等絲を生産する製絲場として欧米にも知られていた三重郡四郷村の伊藤製絲場の存在に負う所が大きいのだと思います。
その伊藤製絲場の生産システムや経営哲学的なものが、特に郡是などの西日本の中心とした優等絲生産を目論んでいる製絲家に多大な影響を与えたことも、地元三重県では、あまり知られていないという状態です。
こういう事は、「文化力」を謳う三重県としても、また、三重県に住む住民としても、なんとかしたいところですね。
前述の、伊藤製絲場では、最初はイタリア式の器械を導入して、後に、富岡製絲場のフランス式が導入された模様なのですけれども、この時に、器械にどのような改造が加えれれたのか、また、或いは、一切を新たに作り直したのかなど、そういう点について、調べているのですが、史料が少なくて、まだ得心のゆく結果が得られていません。
この事を、最も単純に考えれば、富岡製絲場からの技術移転(コピー機の導入)ということで解決するのですが、背景は、そのように単純なことではなさそうなので、今のところ諏訪式という形の成立などにも目を配りつつ、「どのような過程で、それが起きたのか」を、できるだけ詳しく知りたいところです。
なぜなら、それは、この斉藤製絲場の、明治の木製器械繰絲機が、どのような経緯で導入されたのかや、伊藤製絲場からの影響関係の有無を考える上で、とっても大事なポイントとなりそうだからです。
概ねは、三重県に於いては、明治前期から中期に、地域の素封家や豪農・豪商などによって起業された製絲場は、何らかの血縁や人脈などのつながりを経て伊藤製絲場からの影響が少なからずあったものと思っていますが、なかなかその辺りを浮かび上がられてくれる文献や史料に出会えず苦慮しているところです。
ただ、どういう器械なのかについては、比較的に良く残されていました。
しかし、残念ながら蒸気汽罐(ボイラー)と配管やバルブ部分にいては完全に欠落していたのです。斉藤家の方の御話を総合するなら、戦争中の金属供出で失われた可能性が高いですね。
これは、フランス式製糸法と云われる共撚式ユニット(共撚式抱合装置)を構成するうちの集緒器を支持する腕木部品ですが、例えば、富岡製絲場の器械の場合では、コレが金属性でできているのですけれど、木製の器械繰絲機の場合では、それも木でできていました。
こういうものを実際に自分の目で見ていますと、わたしの世代が学校で習った“文明開化”と云うものへの捉え方なのですが、「進んだ西洋からの文明を取り入れて、遅れた日本が進歩した」という、あのコンセプトは、どこか観念的で嘘っぽい部分があるように思うのですよね。
つまるところ、何かを作ろうとするときに、費用や素材の入手のし易さや、加工技術の熟練度、そして耐久性というところから、費用対効果を考えて選ぶのが、時代が変わっても普遍的に通じる合理的な選択だと思うのです。
そういうところを考えると、西洋の場合は、その答えが金属製の器械であったし、日本の場合は、その答えが木製の器械であったという、それぞれの条件の違いに過ぎないのではないかと思います。だから、その用いられていた素材の違いから金属製は進歩的で、木製だから後進的な国だったのだというようなイメージの持ち方は間違いだと思います。
このときに起きたことは、全く違う価値観の受容と云う問題だったのだなと実感します。
なぜなら、その後、その価値観と不可分な技術を咀嚼し、木製の西洋式繰絲機が造られ始めます。そして、日本で溶鉱炉が建設され、鐵の生産量が安定するにつれて、磨耗・腐食部分の耐久性を得るために鐵木折衷の器械になりますが、そのことを、わが国は「木の文化の国」として、その位置をから近代器械製絲技術を受容したのだというように、そこには積極的な評価を与えたいと思うほど、このような木のパーツに残された加工の丁寧さが心を揺さぶります。
きのうの午後に、時間ができたので、木製器械繰絲機の繰糸鍋や煮繭釜などの陶器製部品がどのように配置されていたのかについて、並べて想定してみました。
これは、公開展示のときに設ける説明パネルを作る為に、そこで、わかりやすく、どのように表現できるのかを考えるのに必要なラフスケッチを作成する作業の一部です。
お金も時間もない中、住民の力で、どこまでできるのか。・・・というところへの挑戦です。
斉藤製絲場の、明治の木製の器械繰絲機は、そのように文献を調査をしたり、資料を整理したり、また、知見をお持ちの方に、お話を御伺いに出かけたり、・・・という作業を、養蚕や仕事の合間に行なっているものですから、他との兼ね合いも影響して、当初予定していた8月中の資料公開は、残念ですが秋にずれ込んでしまうことになってしまいました。



