7/27日は、とても暑い日でしたが、斉藤製絲場の明治の器械繰糸機に用いられていたパーツについて調査する為に、伊賀と信楽に向かいました。
斉藤製絲場の明治の器械繰糸機は、木製の器械繰糸機です。
もちろん、当時技術導入された、フランスやイタリアの製糸技術の影響を受けているのですが、鐵製ではなく、日本の在来技術である木材の加工技術を駆使してつくられているところが魅力的です。
木製の器械繰糸機(器械製糸機)は、木材だけでなく、ガラス・金属・陶器など他の素材の部品も付属していますから、そのような部品がそれぞれ、いったいどこで造られたものなのかという点について、できるかぎり追いかけたいと考えています。
この日、伊賀焼の里 丸柱と、そして信楽へと、お邪魔したのは、製絲用“糸取り鍋”について調べることが目的です。
灼熱の真夏日の暑さにもかかわらず、三重県工業試験所 窯業研究室の伊藤さまが御尽力くださいまして、明治の頃に作られていた信楽焼と伊賀焼の「糸取り鍋」の全体像が、だんだんわかってきました。
特に信楽焼では、明治7年から、その生産を始められ、「糸取り鍋」を全国に出荷した「鍋要」さんの存在があります。
明治から日本の生糸を影から支えてきた伝統的な窯業産地という存在。
こういうことは、製糸のことは製糸の中だけ、染織のことは染織の中だけというような狭い視野で見ているだけでは、なかなか気づけないことだと思いました。
「糸取り鍋のことを調べている。」と申し上げましたら、お忙しい中で御時間を割いてくださいました信楽焼振興協会会長 奥田實氏からは、たいへんに興味深い御話を享け賜りました。
幸いなことに、奥田様は、「鍋要(なべよ)」こと、奥田要助さんの末裔の方だったんですよ。
明治の初期から続いてきた、製絲用糸取り鍋の生産も、(日産)プリンス自動繰糸機HR型〔昭和39(1964)年〕に用いるものを最後に、次第に下火になって途絶えたそうです。
現在では、信楽でも、伊賀でも糸取り鍋は生産されてはいません。
信楽や伊賀で生産された糸取り鍋が日本の絹を陰から支えていたことは、だんだん忘れられた史実にになろうとしていますが、こういうことは、製糸のことは製糸の中だけ、染織のことは染織の中だけというような狭い視野で見ているだけでは、なかなか気づけないことだと思いました。
明治から日本の生糸を支えてきた伝統的な窯業産地という存在。
製絲用糸取り鍋でも全国的な市場シェアを占めるようになるまでには、多くの方の心血が注がれています。
同じように、明治の前期に一志郡で最初の器械製絲場を操業した斉藤製絲場にも、そういうものが宿っています。
そういうところに関わってゆくには、“やっぱり、こちらも同じように史実の掘り起こしには心血を惜しまない姿勢で臨まないと失礼なことだと思いました。”
また、そういう価値観に共感できる方々との出会いは、とても大きな糧を授けてくださいます。



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