三重県旧一志郡多気村の製絲場
養蚕・製絲・機織の文化 発見プロジェクト
染織工房 草間の藍甕
養蚕・製絲・機織の文化 発見プロジェクト
染織工房 草間の藍甕
「“明治期の製絲場” 旧一志郡内の近代化産業遺産」の記事に書いた製絲場のことですが、その後も作業の合間を縫って、創業の時期や由来、創業当時の設備、そして、当時の実像を史料から探ろうとする作業を行なっていました。
すると、はじめに地方史料から、該当するデータを得ることができましたが、念の為、国の統計史料等も用いて比較してみましたところ、両方の史料に記された内容が一致しないところが見つかりました。
しかし、創業の時期については、一致していますので、この点では信頼できると判断しました。
結論を言うと、「“明治期の製絲場” 旧一志郡内の近代化産業遺産」の記事に記した製絲場は、最初に予想した明治33年と云う時期から大分遡って、
“明治十九年に創業した器械製絲場である事が判りました。”
だから、わたしは、そのことに、ちょっと興奮を覚えています。
前橋藩の藩士深沢雄象と速見堅曹によって、12釜(12人取り)の洋式機械を買い入れ日本で最初に、器械製絲を試みた、“前橋藩立 前橋製糸所”が明治三年に設けられたことから始まった、日本の近代製糸産業(silk Industry)の波が、もう十六年後には、この山深い山村にも到達していたということになりますから、明治の頃の“文明開化”という時代の空気感や勢いが伝わってきますね。
このことから、現在では、過疎高齢化が進行し限界集落化の危機にあるといわれるような、いわゆる僻地山村と位置づけられているところでも、明治の当時は、そんなに後進地ではなかったということがわかります。
今、わたしが調べている製絲場の事を、仮に、ここでは“A 製絲場”と呼ぶことにしますが、・・・
この“A 製絲場”は、明治28年の国の統計史料に基づけば、三重県内では第五番目にできた器械製絲場でした。
そして、「“明治期の製絲場” 旧一志郡内の近代化産業遺産」で、わたしは、・・・
加えて、冒頭で、とても興味深いと申しましたのは、三重県の旧一志郡内では、奈良県と伊賀地方とに接した、郡内の最山奥部の旧一志郡太郎生村から、器械製絲場ができ始めて、それが川下の平野部に波及してゆくのです。今では、まったく逆のイメージで旧太郎生村やこの辺りも過疎地ですから、当時の中勢域の情報や経済や文化伝播の流れを考える上で、面白いなと感じた点なのです。
・・・と記したのですが、その部分を一部訂正しなければいけないこともわかりました。
なぜなら、この“A 製絲場”が、一志郡内で最初にできた器械製絲場だったからです。
だから、正しくは・・・
『三重県の旧一志郡内では、奈良県に接した、郡内の最山奥部の旧一志郡多気村から、器械製絲場ができ始めて、そこから近隣の旧一志郡太郎生村や、雲出川流域の川下に位置する平野部に波及してゆくのです。今では、まったく逆のイメージで山間部の集落である旧太郎生村や旧多気村があるのですが、このような現代の過疎地から平野部に向かって最新技術の波が広がっていったというようなところが、当時の中勢域の情報や経済や文化伝播の流れを考える上で、面白いなと感じた点なのです。』
・・・というような事になります。
ちょっと、戻って、先に示した“表1”を、ご覧ください。
三重県内では、最初に器械製絲を試みたのは、度会郡宇治山田(現:伊勢市宮町)の北村利兵衛と云う人でした。
この方は、度会郡山田下中ノ郷町の“肝煎”を務めていらっしゃったようです。
明治22年(1889)町制施行によって宇治山田町が発足しています。
この表1を作成した基となった国の統計調査が行なわれたのは明治28年度ですから、北村利兵衛が器械製絲場を始めた明治6年では、度会県山田下中ノ郷町と呼ばれていた地域でした。
わたしは、主に国が行なった統計調査を基にして見ているのですが、三重県には明治期の県内の製絲を考える上での参考となるものに、「三重県勧業年報」という史料があります。
これが前述の地方史料なのですが、この史料では、付記の部分に、以下のような但し書きが加えられていました。
一、表中、員弁郡勢陽館製絲場、三重郡清水製絲場、一志郡中井工場は、何れも水車を以って運転す、又、一志郡“A 製絲場”及び山田郡大森製絲場は、蒸気機関の外、尚ほ水車をも兼用す。
〔「明治27年三重県勧業年報」三重大学付属図書館蔵〕
つまり、この「明治27年三重県勧業年報」という史料に従うならば、今調べている“A 製絲場”は、動力に蒸気機関と水力を併用して使うような器械製絲場であるということになります。
そこで、念のため、明治28年の国が行なった統計調査でも確認してみることにしたのですが、その史料では、繰り湯を沸かすために蒸気を用いて動力は水力であるという旨が記されていました。
それで、“A 製絲場”まで出かけて確認してみましたが、川から水をひく取水口や水路、そして、水を溜めるプールのような遺構が確認できましたけれど、蒸気機関を用いていたかどうかは、現状からではわかりません。
同じ時期に記された、二つの史料があって、内容が違っていると、どちらが正しいのか。?
また、「明治27年三重県勧業年報」は三重県史でも採用されている地方史の基礎史料ですし、わたしが参考としている統計調査は、国が行なったもので、これも基礎史料となるものですから、どちらも信頼が置ける史料とされるものなので、そういう意味でも、合理的な説明ができなければ、どちらか一方の記載内容を簡単に“間違い”として無視するわけにはゆきません。
「ほんとうに、悩みます。」
PS きょうは忙しいので、すみませんが、ここまでです。
つづきは又、後日に書きますね。o(_ _*)o

