眞玉媛の飼育を始めて5日目の夜半、
眠(ミン)から目覚めて2齢期を迎えました。
うちの場合は、いうなれば“自然育”ということで、
霧が多く湿度に恵まれているという、
山間部の自然条件を生かしてゆきたいと考えています。
一般に、稚蚕期の飼育は難しいとされ、
3齢期まで稚蚕飼育所(稚蚕共同飼育所)で育てられた後、
養蚕農家に配蚕されるといわれている。
しかし、このような方法は、
昭和30年代~35年代に群馬県で行われ始めた方法で、
それが昭和40年代頃までに全国に広まっていったようです。
それには、昭和30年代~40年代という時代背景が示すように、
高度成長期の上り坂を迎え、絹製品へのニーズに応えるための、
「大量生産」が要求されてきたということが関係してきますが、
それだけではなく、・・・
また同時に、農家への嫁ぐ女性が少なくなってきたという現象や、
大家族で営まれていた農家が核家族化してゆくというような、
この時代に起きた農村部でのこのような変化は、
農家の働き手不足という問題を生み、それを補う意味もありました。
稚蚕共同飼育が始まる以前は、稚蚕は“秘密飼い”といわれたようで、
そこには大事に飼うという意味と、
その飼育ノウハウを各家々が個々に秘匿して教えない。
(嫁や、嫁に出す娘には教えない。)
・・・というような意味が含まれていたのです。
この“秘密飼い”が行われていた時期には、
養蚕農家が蚕種から掃きたて(孵化)て、稚蚕飼育をこなし、
そして、製品化の段階である製糸まで手がける場合がありました。
だから、稚蚕飼育が巧くできたかどうかの成否は、
養蚕の成否にもかかわり、もちろん繭価や糸質にも影響し、
結局、それは自分の家の収入にも関わってくるので、
飼育ノウハウを各家々が秘匿して他には教えないということは、
当然の成り行きだといえば理解しやすいでしょう。
そのような“秘密飼い”から、稚蚕共同飼育に移行するにあたって、
製糸会社などが、共同飼育場をつくる資金を用立てて補助しました。
そのように、製糸の企業が、
なぜ稚蚕の共同飼育に積極的であったのかについては、
つまり、製糸工場がもとめる均一で均質な原材料を、
合理的に大量生産するために稚蚕共同飼育は、
製糸工場にとっても大いにメリットのある方法であったからです。
同様の理由から、大手の製糸企業では、
蚕種の製造も、稚蚕共同飼育の以前から手がけていたので、
その意味でも、稚蚕の共同飼育は、
両者にとって歓迎される生産改善であったのだけれど、・・・。
この時点では、明治の頃から日本の養蚕の牽引力であった、
地主層が農地解放によって没落し、
それまで推し進めて来た地域の殖産というような視点は希薄になり、
また、養蚕家と呼ばれたような、
Independentな小資本家的気風も失われ、
悪く言えば、養蚕は、・・・
産業構造の中の歯車のひとつとなってしまったようにも思えます。
わたしは、そのような歯車のひとつとなった養蚕よりも、
“秘密飼い”と呼ばれた養蚕のかたちの方に魅力を感じるし、
もっと、カッコイイなと思うのは、
例えば苗族などの少数民族で行われている、
自家用のための小規模な養蚕なのです。
そこでは、養蚕は特別なことではなく、
例えば、きゅうりやトマトを育てるのと同じくらい、
あたりまえの、自然な営みのひとつです。
きゅうりを食べたいから、きゅうりを育てる。
トマトを食べたいから、トマトを育てる。
絹が必要だから、蚕を育てる。
そういう、シンプルな動機が、いい感じなのです。
日本の養蚕も、云われる様に、
繊維産業の中での役割を終えたのなら、・・・
それが理由で廃絶してしまうのではなくて、・・・。
もういちど、
わたし達女性の手のうちにあるモノとして、
それを取り戻して、
家庭で行う養蚕を考えてみるのはいかがでしょうか。?
そういう形での養蚕の伝承・・・。
絹の文化の伝承・・・ということも、あるのではないでしょうか。?
だから、わたしは、・・・
これから、「絹の自給自足 - 家庭養蚕のススメ。-」ということを、
提唱してゆきたいと思います。




