古い布資料と現代の草木染めのものとでは、
同じ染料を使っていても色彩に差があるように思っていた。
もちろん、植物による染色には、
複雑な条件が関与してくるので、
同じ染料を使っても同じ色になるとは限らないのだが、
もっと根本的なところで何か違いがあるように感じていた。
「自分がなぜそう感じたのか。」そういう点を、
技法などから具体的に確かめたくて、
個人的に資料を集めているのだけれど、
その中に、ちょっと面白いものがあります。
それは、明治十年に東西の朝陽館から出版された、
「精製藍 染業須知 (全)」という本で、
編集人(著者)として明治の経済界の重鎮 五代友厚の名が記されているものですが、五代は大阪で紡績、製藍業に携わったことがありますから、同書は多分その頃のものだと思われます。

【五代友厚が著した藍染め法。】

【"おくつき"に記された五代友厚の名と、五代友厚精藍所 朝陽館の名。】
● 五代友厚精藍所・西朝陽館跡
また、五代友厚と云えば、西の五代、東の渋沢(栄一)と並び称された、我が国の財界の草分け的存在で、初代大阪商工会議所会頭でもあり、現在の大阪(商都大阪)をつくったマスタープランナー的な存在でもあるという、多才な人物です。
この本が出版された明治十年といえば、
我が国の中では、いろんな意味で過渡期といえばいいのか、
目まぐるしい変化の時期です。
例えば、絹の関係では・・・。
明治7年に内藤新宿試験場蚕業試験掛の設置され明治12年に廃止になっている。
そして、明治14年に農商務省の設立され、明治17年に農務局の一分課として蚕病試験場を設置し、その蚕病試験場で微粒子病に関する各種の試験研究が始まり、明治19年農商務省に蚕茶課が設置されると共に、「蚕種検査規則」が制定され、蚕病試験場の名前を農務局蚕業試験場と改めているというように、日本の国のシステムが近代的な国家の姿に整ってくるまでの過渡期の真っ直中の時期と言えるでしょう。
また、染色の方面では、明治3年頃に招かれたドイツ人技士(御雇い外国人技士)によって、ドイツ式の天然染料による染色法に置き換えられ、現在の草木染めでよく使われる媒染剤(染色助剤)が日本の従来の方法にとって変わるようになってゆきます。
そして我が国の留学生が帰国して西洋の産業技術が取り入れられ、染色も次第に化学染料による染色に変わってゆく時期で、明治11年頃ではもう、日本在来の染料は『十が九廃れり』と云われるような状況だったようですし、明治30年頃を境にしてほとんどの染色が化学染料に変わっていっています。

【"精製藍 染業須知(全)"に記された、藍染めに用いる各種の木桶。】
このような状況の中で記された同書は、西洋式の藍染め法をベースにして、我が国従来の藍立て法の習慣より工夫を加えたとしていますが、この五代の藍立て法で面白いなと思うのは、瓶ではなく木桶を使っていて、藍立ての方法も決定的に違う部分があるものの、あるところでは宮城県栗原郡文字村(現 栗原市)の故千葉あやのさん(明治22年生まれ)がなさっていた、木桶を用いた藍立て法(重要無形文化財指定)に良く似た部分がある事です。
そして、また、我が国の近代染色の先駆者的存在というと山岡次郎や中村喜一郎などの名前があげられますが、
同書の存在より考えれば、五代友厚の方がより先駆的な存在であるように、わたしには思えます。