サックスはヴィブラートをかける楽器と言われる。


クラシックでヴィブラートが初めてかけられた歴史ははっきりしていて、1920年代後半、マルセル・ミュール(1901〜2001)がパリ・オペラ座のバレエの新作で作曲者が直々にヴィブラートを求め、ミュール自体は反対したがどうしてもという声に押し切られかけてみたところ、大喝采を受けたという故事だ。


そこから100年、サクソフォンのヴィブラートは色々な解釈やスタンスがあるが、トレンドは「かけすぎない」なのかな。


19世紀に録音されたギリギリのメンゲルベルク指揮のマーラー5番なんか聴いてもらえればわかるが、ヴィブラートやポルタメントが遠慮なく使われて演奏されていてそれがたまらなくエモい。


グラズノフは19世紀のスタイルで死ぬまで音楽を書き続けたが、少し年下のラフマニノフのヴォカリーズをノンヴィブラートで演奏することなんて考えられるだろうか。


しかしながら、グラズノフのサクソフォンコンチェルトに至っても、ヴィブラートかけすぎ問題はここ十数年かずっとある気がする。


確かに20世紀を丸々生きたミュールのヴィブラートを聴いて、21世紀としては古いと断ずることは簡単だが、ラヴェルがわざわざボレロにも展覧会の絵にもサクソフォンに「vibrato」と書いたことをもっと真剣に考えなくてはならないのではないだろうか。


ではビゼーのアルルの女を、ミュールがヴィブラートをかける前の音楽だからといって、ノンヴィブラートで演奏するだろうか。


もしかしたら録音のない当時はそうだったかもしれないが、今はたっぷりとしたヴィブラートをもってロマンチックな音楽に仕立て上げることがサクソフォン奏者の仕事に感じられる。


グールドのピアノでのバッハ演奏に誰も文句を言わないし、今も音楽高校、音楽大学では何の違和感もなくピアノでバッハを学ぶ。


ピリオド楽器を生業とする奏者たちも、そこに文句はないだろう。


まあサクソフォンでバッハを演奏するなんて、と僕のような者にお怒りの方はいるかもしれないが。


しかし逆に今はモダン楽器が主流だからと古楽器の奏法を否定するのはナンセンスだろう。


サックスのヴィブラートについて騒いでいるのはサックス村の住民だけな気もする。


もちろん近現代におけるメタリックな音楽に柔らかなヴィブラートが必要とはどうしても思えない作品もある。


要は、その作品のキャラクターをしっかりと読み解く感性と知識が必要となってくるのではないか。


その時代にその村でしか通用しないスタンダードに何の意味があるのか。


豊かなヴィブラートでムーンライトセレナーデを奏でて官能的な美しさを提供してくれるグレンミラーオーケストラに、「クラリネットはヴィブラートかけないんだよ」と言う輩は二度と聴く資格はない。


とはいえ!

ヴィブラートも一つのテクニックであるからには、常に向き合い、磨き続けなければならないことは言うまでもない。(という保身をかける)