少年の頃、テレビをダラダラ見ていると、親から「新聞を読みなさい」と言われた。


わからないことを親に聞くと、「辞書があるから調べなさい」と言われた。


新聞や辞書というのはノイズだらけの媒体だ。


知りたい情報の周りには無数のノイズ的情報で埋め尽くされている。


しかし、そのノイズが元で他の様々な事象、事柄、時世を知ることになっていたことはそんなに意識されない。


テレビもノイズが多い媒体だ。

CMやたまたま見たドラマの音楽が気になったり、実は多くの有名な誰でも知ってる音楽とはこのテレビを介して脳内に埋め込まれていることが多いのではないだろうか。


新聞はネットニュースになり、辞書は電子辞書になった。

テレビもリアルタイムではなく気になる番組を録り溜めてCMを飛ばし見し、YouTubeでより自分の好みに合う番組にのめり込んでいく。(我が家の子供達もあんなに素晴らしいアンパンマンのオープニングを飛ばす。)


ネットニュースは気になる見出しをクリックして中身を読むので新聞のようにペラペラと流し読むことはなくなり、辞書はお目当ての単語を瞬時に探し出してくれる。


そして同時に検索の時代へ突入し、ノイズはどんどん減っていく。


学校現場でもタブレットが全員に配布され、先生がわからないことを言ってもその場で検索して欲しそうな情報を選んでその場で解決する。


授業が終わってから先生に質問に行き、「おー質問かー偉いなー去年とは別人じゃないか、なになに、ここがわからんかったって?そりゃ去年寝てたからじゃないか?まーでもせっかく聞きに来てくれたからなー、ここはなー、ん?ちょっと髪の毛茶色くないか?」のようなどうでもいい煩わしい枕詞を聞かずに済む。(場合によっては解決に至らない)


そして文書生成AIの登場により、様々なサイトを閲覧しながら欲しい情報を探し出すようなことも全てArtificial Intelligence(人工知能)が整えて提示してくれる。


そういえば最近は学校で漫画の単行本を見かけることはあるが、ジャンプやマガジンなどの雑誌を見かけることは無くなった。


学校は非常にノイジーなスペースだ。

それがいい。


しかしながら「昨日のあれ見た?」のようなコミュニケーションは希薄になり、他人が昨日何していたか、あそこに映り込んでいた人は誰かなどの身近なゴシップを一通り共有すると耳にイヤホンを突っ込んで各々が欲しい情報を淡々と求め続ける。


イヤホンはもちろんノイズキャンセリングだ。


ノイズとは、誰の目にも耳にも入ってくる一見大切かはわからないものでありながら、ある程度の人間が共有しているものでもある。


「生きてればどこかで出会う物」を高校生や大学生の若い人たちと共有できていないと感じることがここ数年特にあるように感じる。


「シェア」は現代の若者の合言葉であるはずだが、本当に大切なものがシェアされない世の中に進んでいる気がしている。


まとまらないが。


少し話はズレるが、音楽というのはその時の社会の世相を意識的か無意識的か表していることが多く、絶対王政の時代は圧倒的階級社会である調性音楽が成立し、それは必ずドミソで始まってドミソで終わる。


それを打ち破ったのはベートーヴェンで、フランス革命を皮切りにヨーロッパは新たな局面を迎える。


19世紀には個人が尊重されるようになりながら、音楽家たちは奔放に自分の感情を楽譜に刻み込んでいく。


フランスが何度も共和制と王政を繰り返していたように、リストなどの音楽家たちも調性からなんとか脱皮できないか試みるが、ドビュッシーが全音音階などの人工的な音階により一点突破し、シェーンベルクが十二音技法により調性音楽にとどめを刺す。


時は20世紀、世の中には巨大な共産主義国家が成立し、不自然な平等主義が掲げられていた。


それから100年。

21世紀という時代を音楽から見てみたらどのような風景が見えるのだろうか。


アルヴォ・ペルト(1935-)のあまりにピュアな純正の音楽や、イヴ・クライン(1928-1962)のモノクロームな美術作品群、1949年に作られた音楽作品「交響曲 単音−沈黙」、ジョン・ケージ(1912-1992)の「4分33秒」、ケージの弟子ラ・モンテ・ヤング(1935-)の「コンポジション1960」シリーズなどにおける単音または無音の音楽が、近い未来を暗示する予言のような音楽に聴こえてこなくもない。


ペルト:カントゥス-ベンジャミン・ブリテンの思い出に-

これを実演した川島さんとプレイヤーの皆様凄すぎ。

B-F#の完全5度をできるだけ長く伸ばす。

イヴ・クライン「人体レリーフ (クロード・パスカル)―PR3」1962年