「教える」という言葉があまり好きではない。
「指導する」なんて寒気がしてとても自分では使えない。
「教育」もなんだか実はあまりしっくりきていない。
このブログの中で自分は教育者でもあることを語った記事もあると思うが、他に代わる語句を知らないため使っているが本当のところあまり自分が「教育者」と言いたくない自分がいる。
この「教」という字の右側は、「のぶん」、または「ぼくづくり」という部首で、古代中国ではムチを意味する。
激しい字だ。
ちなみに近そうな言葉で「しつけ」と聞くとなんだか強制的に型にはめるような教育を想像してしまうが、漢字にすると「躾」。
礼儀作法をわきまえ、美しさを身につけるように導くという意味を持つ、中国の漢字に倣って日本で作られた日本独自の「国字」なのだ。
美しいではないか。
「教える」とは共に学ぶことであり
「指導する」とは共に考えることであり
「教育」とはお互いに知と躾を共有すること
でありたいと思っている。
ちなみに「共」は2人が負担を分け合う様子を表した象形文字が派生し、「知」は矢を捧げ持って神意を知ることが、「躾」は、女性が身籠った姿が字によって描かれているらしい。
知は授かるものということか。