3/16リサイタルのプログラムノートを書いた。


プログラムノートとは言っても、いつも徒然なるままに作品に纏わることを綴るだけで、詳しい解説などではない。


少し中高生には難しいかもしれないので、プレトークなどで補いたい。


以下、先行公開。


北方氏、IZUMIさんの作品についてはまた後日。


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プログラムに寄せて


継承こそ天才の証

「モーツァルト」という名前は、日本人でも普通に生きてきたらどこかで出会うし、その作品、例えば「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」にはどこかで必ず触れるため、いつの間にか馴染み深い音楽家となるようできている。1791年に35歳の若さで亡くなった人が、200年以上経った今も馴染み深い人であるのいうのは冷静に考えても普通のことではない。1984年に製作された映画「アマデウス」の冒頭では、モーツァルトのライバルとされるアントニオ・サリエリが年老いて精神を病み、病院に運ばれるところから始まる。サリエリはそこで若い医師に向かって、自分が過去に喝采を浴びたオペラアリアの一節を弾いて聴かせるが、医師は申し訳なさそうに知らない曲だと言う。しかし「アイネ・クライネ」の一節を弾くと医師は嬉しそうにその後のメロディを歌い出し、サリエリは消沈する。ウィーンの宮廷楽長としてヨーロッパの楽壇のトップに立った人ですらそうなのだから、当時の音楽というものの限定的な聴かれ方と移ろいの早さが窺えるシーンだ。そしてサリエリという名前も、サリエリの音楽作品の一節でも頭に浮かぶ人は今はもういない。

オーボエ四重奏曲はモーツァルト25歳くらいの頃の作品で、音楽史上にも残る当時の名門オーケストラ、マンハイム宮廷楽団のオーボエ奏者、フリードリヒ・ラム(1744-1811)のために書かれている。最終楽章でモーツァルトが半ば嫌がらせのような超絶パッセージを書いていることから、ラムは相当な名手だったということと、モーツァルトとラムがとても良い友人関係であったことが想像ができる。


20世紀の音楽家

時は流れて20世紀。20世紀初頭は世界史が大きく転換していくと共に、音楽という存在価値も大きく変化していくことになる。1914年に勃発した第一次世界大戦、1917年のロシア革命。1929年世界恐慌。1939年第二次世界大戦。最初の半世紀は世界は地獄のような惨状だった。貴族の没落により完全にスポンサーを失った音楽家たちは、19世紀のスタイルに固執した「ロマン派の音楽家」としてしがみつくか、大衆の好みに寄り添った「商業音楽家」になるか、オペラに変わって勃興しつつある「映画音楽家」になるか、いっそのこと自由に音楽を開拓していく「現代音楽家」になるかの選択を迫られることになった。


その20世紀の始まりと同時に生まれ、終わりを見届けたのがクラシカルサクソフォンの神、マルセル・ミュール(1901-2001)なのだ。


ウィーンではシェーンベルク(1874-1951)が、ロシアではストラヴィンスキー(1882-1971)が、音楽の三要素と言われる「旋律・リズム・和声」の常識を次々に打ち破っていく中、時代の変わり目を具に見つめて生きたドビュッシー(1862-1918)やラヴェル(1875-1937)の流れを汲むフランスでは調性音楽に最後の可能性を求めた作曲家集団「フランス6人組」が誕生し、ダリウス・ミヨー(1892-1974)もその1人だった。

1937年、17世紀後半にフランスで活躍した劇作家モリエールの喜劇「飛び医者」が、子供向けの劇にリメイクされて上演されることになった。ミヨーはこの劇の付随音楽作品を書いたが、その劇が上演された子供のための劇場こそ、その作品と同名の「スカラムーシュ」だったのだ。


ミュールとラッシャー

パリ音楽院でミヨーより2歳先輩のジャック・イベール(1890-1962)が遺したクラシカル・サクソフォンの金字塔、「室内小協奏曲」。よくイベールの大曲であり名曲でもある「フルート協奏曲」と比較され、「副産物」などと揶揄されることがあることは否めないが、サクソフォンにとってこれは正真正銘の名曲であることはもう歴史が証明している。しかしながら中々の曰く付き楽曲でもある。まず初演が誰かはっきりしない。この作品は1935年にドイツ出身のサクソフォン奏者、シガード・ラッシャー(1907-2001)に献呈されている。ラッシャーは1年間の独占演奏契約を持って初演に備えたはずだが、イベールが作曲に際して助言を求めていたマルセル・ミュールが放送で初演してしまったというとんでもエピソードが残っているが、真偽ははっきりしない。また、フラジオ音域の達人で4オクターブを操ったラッシャーの希望だと推測されるが、所々にかなりの技術を要する高音域での演奏が求められる箇所がある。しかしながら、あるミュールのインタビュー記事では「イベールは本当はそうしたくなかったのだ」と言い切っているし、「イベール自身は1オクターブ下げて吹いた演奏を気に入っている」とも言っている。ラッシャーがこのことについて多くを語っているのは見たことがないが、その後ラッシャーはヨーロッパを見切ってアメリカに飛び立つ。そして1958年、ミュールのソリストとしてのキャリアのクライマックスが訪れる。シャルル・ミュンシュ指揮、ボストン交響楽団とのアメリカツアー。ミュール はフレンチサクソフォンを代表する協奏的作品としてアンリ・トマジの「バラード」と、この「室内小協奏曲」を携えてラッシャーが待ち受けるアメリカへ攻め込み、ツアーはアメリカ各紙で絶賛された。


2001年。

クラシカルサクソフォンの礎を築いた交わることのなかった2人の神々は、21世紀へ全てを託し示し合わせたように世を去った。