リサイタルのプログラムノートを先行公開させていただく。


当日でも良いが、予め読んでから来ていただくことでお楽しみいただけることも多いかもしれない。


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プログラムに寄せて


大学生の時、毎週土曜日の午前中に小澤征爾氏指揮、サイトウキネンオーケストラのマタイ受難曲のビデオを見るのが習慣だった時期がある。約3時間、指揮者譜面台上のスコアは閉じられたまま、小澤征爾さんの口元は合唱団が歌うドイツ語を一言一句しっかりとなぞっていることに毎週驚愕しながら、ただひたすらその音楽に没頭していた。「マタイ受難曲」は、新約聖書の「マタイによる福音書」の中から、イエス・キリストの捕縛、磔刑、墓の封印まで(受難)を、オーケストラ、独唱、合唱によって壮大な音楽ドラマとして描き出されている。

マタイによる福音書、第26章。イエスが捕縛され、裁判にかけられるのを、弟子のペテロは遠くから眺めている。するとペテロはある女性から、「あなたも昨日あのイエスと一緒にいた」と言われ、「あの人のことなど知らない」と言ってしまう。その後も二度同じことを追求され、ペテロは「あんな人は知らない、もし嘘をついているなら私は呪われてもいい。」とまで言い放つ。前の晩イエスから、「あなたは明日、私のことを三度知らないと言うだろう。」と言う預言に、「絶対に裏切ることはない。」と言い切ったペテロは自分の弱さに絶望し、号泣する。そこで歌われるのがこのアリア、「憐れみたまえ、我が神よ」なのだ。あまりにも人間らしいペテロの心情を、アルトの独唱とヴァイオリンの独奏によって痛切に歌い上げられるが、この弱さは決してペテロのものだけではない。我々人間の弱さの象徴であり、バッハはその宿命を生々しく音楽に刻み込む。

マタイ受難曲は1727年に初演され、バッハの死後しばらく忘れられていたが、1829年にメンデルスゾーンによって再演され、J.S.バッハの再評価に繋がった。

3つのアリアは、この人類の絶念を歌うアリアを、希望、悲嘆、喜悦、どんな感情をも内含する二つの奇跡のアリアで包み込んだ。第1曲のAriosoは元々はカンタータ第156番「墓に片足入れ」BWV156のシンフォニア(器楽のみで演奏される部分)だった。それがチェンバロ協奏曲に転用され、バッハのアリオーソとして独立して世界で愛奏されるようになっていったのだろう。第3曲のAirは管弦楽組曲第3番の中で、弦楽器のみによって奏される。こちらも「G線上のアリア」として地球を代表する音楽へと昇華していく。東日本大震災から1ヶ月の20114月、海外から来日する音楽家などいない中、指揮者のズービン・メータはNHK交響楽団とこのAirと、ベートーヴェンの第九を演奏した。

アリアの語源はラテン語のAer、「空気」を表す言葉と言われている。このAerは「雰囲気」のような意味も持ち、これが「~風の曲」のような使い方がされるようになり音楽と結びついた。それがさらにオペラ内で歌われる曲や単独の作品はAria、組曲の中で演奏されるシンプルなメロディを持つ曲をAirと分けられるようになる。今日も演奏するいわゆる「G線上のアリア」は組曲の中の曲なのでAir、マタイ受難曲はオペラではないが規模の大きい声楽作品中で歌われるのでAriaとなる。ちなみにAriosoは「アリア風の」という意味になるので、器楽曲だけどアリアのようにという意味は理解できるが、元々の語源を考えると少々滑稽にも感じるので言語とは面白い。

 

1950年、スペインの内戦から逃れてスペインからフランスのプラドで演奏活動から離れていたチェリストのパブロ・カザルスの元に、ヴァイオリニストのアイザック・スターンやピアニストのクララ・ハスキルをはじめ、神々が集って音楽祭が開催された(プラド・カザルス音楽祭)J.S.バッハ没後200年を記念とした音楽祭、全6曲が演奏されたブランデンブルク協奏曲の第2番が始まる時、ソロトランペットの譜面台の前にいたのは当時のパリ音楽院トランペット科教授のレイモン・サバリッチ、ではなく、サクソフォン科教授のマルセル・ミュールだったのだ。1939年にフランスに来たカザルスと、ミュールの間にどんな交流があったのかは定かではないが、この時の録音を聴くとトランペットではなくサクソフォンを指名したのは納得ができる。とにかくテンポが速い。重要だったのはバッハが指定した楽器ではなく、カザルスの音楽を体現してくれる音楽家だったということで、この伝説をサクソフォン奏者は誇りにしていくべきだ。ただ、数年遅かったらモーリス・アンドレによって別の伝説が生まれていた可能性は十分考えられる。

ブランデンブルク協奏曲は1721年にバッハから当時のブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルードヴィヒに捧げられたことでこう呼ばれている。元々のオリジナルの作品名は「様々な楽器のための6曲の協奏曲」ということで、6曲それぞれにさまざまな独奏楽器群が割り当てられている。第2番はリコーダー、オーボエ、ヴァイオリン、そしてクラリーノ(高音トランペット)。ちなみに第5番ではピアノの先輩、チェンバロが独奏楽器として活躍し始める最初期の例と言われている。

 

人はなぜここまでシャコンヌに魅了され続けるのだろうか。1720年、バッハは勤め先の侯爵のお供をし、ボヘミアに旅行している。2ヶ月後戻ってくると、妻マリア・バルバラは病死し、埋葬まで済まされていた。この哀切きわまりない経験の直後、パルティータは書かれている。バッハはこのパルティータ第2番に、妻への哀悼を込めてルターのコラール「キリストは死の縄目につながれたり」を鎮めているという説がある。さらにシャコンヌにはバッハの名前「B-A-C-H(十字架音型とも言われる)」の音まで埋められているのではとも。賛否ある説ではあるが、神々に継承され続けられた魔力、神力(しんりき)に心根まで魅せられた凡庸な人間はこれを否定することはできない。ブゾーニのピアノ版、ストコフスキーや齋藤秀雄の管弦楽版、ブラームスの左手ピアノ版、メンデルスゾーン、シューマンのピアノ伴奏版、デニゾフの協奏曲版。人はなぜシャコンヌに魅了され続けるのか、それは理屈ではない。この作品の中にバッハの孤独で痛烈な悲鳴と愛に満ち溢れた天国的な旋律を聴いてしまった神々は、ただただこの音楽に没入していくしかなかったのだ。

イタリア語のPartita(パルティータ)は、「組曲」と邦訳できる。このバロック時代の組曲達の蓋を開けると、当時のヨーロッパの舞曲たちが整然と並んでいる。アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグを軸に、時にメヌエット、ブーレ、ガヴォットなどが差し込まれていく。今の我々には馴染みの薄いダンスばかりだが、それぞれに長い時間をかけて宮廷や劇場で踊られる社交ダンスやバレエへと変化していった。ちなみにサラバンドはスペインで16世紀に爆発的に流行していたが、その時はあまりに卑猥な歌詞と仕草にマドリードでは歌うことも踊ることも禁じられ、犯せば国外追放になることもあったという。しかしながらバッハの時代には威厳を備えた荘重なダンスへと変遷し、組曲のレギュラーを勝ち取った。そしてそれぞれのダンスは、「舞踏譜」によって現代まで踊り方やステップが明瞭に記録されている。この「舞踏譜」が非常に美しいので是非検索してご覧になっていただきたい。見ているだけで宮廷人の精神にあるGrazia(気品)Sprezzatura(さりげなさ)が厳かに現代の我々にも伝わってくる。

ルネサンス、バロック時代、ダンスは人々の生活の一部だった。近代ならフラメンコ、タンゴ、ジャズ、ウィンナワルツが、現代なら、ソウル、ヒップホップ、ビバップ、ブレイク、パラパラなんかのディスコダンスを軸にした組曲になるかもしれない。

 

今回大曲の編曲を引き受けてくださった西澤健一氏。氏の作品に出会ったのは僕が大学院の頃、修士演奏のプログラムに迷っていた時、雲井先生が紹介してくださった「アルトサクソフォンとピアノのためのソナタ」だった。当時20代の若手邦人作曲家のソナタということで一瞬身構えたが、その音楽は透き通った和声に旋法が溶け込んでいくような、およそ「ゲンダイオンガク」からはかけ離れたシンプルな美しさが求められたものだった。僕はすぐにファンになり、その後リサイタルでも取り上げた。教師となってからもたくさんの生徒に西澤作品に触れてもらい、その度に例外なく大きな音色の変化が見られた。この音楽に相応しい音色というのは、そうゾーンが広くはない。みんな試行錯誤しているうちに驚くべき成長を見せる。西澤氏はリサイタルの録音を覚えていてくださり、それがきっかけで7年前に一度件のソナタ共演が実現した。作曲者本人のピアノにより、何を語らなくても僕自身の音も変わっていくように感じられた。そして今回、勇気を持って編曲の打診をした。実は最初全曲というにはやや忍びなく、シャコンヌのみの編曲をお願いさせていただいたが、なんと西澤さんの方から「全曲コンチェルト版にしてはどうか」と、ご提案いただいたのだ。ただし「自分がやるかは別にして」という枕詞があった気もするが、それは見なかったことにしてその勢いで全てを委ねたいと懇願し、快諾してくださった。伴奏の創作だけには留まらない、独奏部にも大きく手を入れられた、新たな「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番」を誕生させてくださったことに深謝である。そして本作品が長く多くのサクソフォン奏者によって演奏され続けていくであろうことを確信している。