本番の指揮台に立ち、初めてマスクを外した指揮者田中祐子の目は、さっきまでゲネプロ見ていたそれとはまるで違うゾーンにいるようだった。
時に恍惚とした表情を見せたかと思えば、般若の如き迫力でオーケストラを翻弄する。
普段オーケストラの中でソロを演奏する時は、指揮者を見ながらも楽譜をちゃんと目で追いながら演奏するが、田中祐子にロックされた目は、もう背けることができない。
しかし不思議とそこにリスクを感じることはなく、その眼の中へ、音楽が心の中から引き摺り出されていく。
初めての経験だったように思う。
地元、小牧市市民会館がこんなに湧いているのを見るのは初めてかもしれない。
その熱い拍手に包まれて余韻に浸っているのも束の間、まだ仕事は残っている。
アンコール。
曲はカルメン、ボヘミアの踊り。
サクソフォンは含まれない編成なので、当然いつものように特等席でアンコールを堪能する予定だったが、ゲネプロも全て終わった後、田中祐子は「最後は全員で終わりたい」ということで、僕の元にはヴァイオリンの楽譜が届けられた。
たまたまダブルケースに入っていたソプラノサクソフォンで、冷や汗をかきながら体感20%くらいカルメンに参加するという貴重な経験もさせてもらった。
魔女と仕事をした。
最後のカーテンコールを終えてステージから姿を消した指揮者の幻影を見ながら、そう思った。
(本文敬称略)
