大学時代、実際授業の中などで教わるような機会はなかったが、大恩師だと確信している方がいる。
それがハーピストの山崎祐介先生だ。
愛知芸大にはハープの学生がいなかったため、オーケストラや室内楽などハープが必要な場面では山崎先生が全て担当していたと聞いている。
ちょうど僕が入学する時に、同級生に愛知芸大初のハープ専攻生が入学した。
それと同時に山崎先生管轄の元、管打楽器専攻男子の間で結成されたのが「ハープ隊」である。
ハープ隊は山崎先生の指導を受けながら、専攻生が向かう「現場」へと、ハープを運搬するのが仕事だ。
山崎先生は、「ハープは俺の女だと思え」と仰り、カバーの「脱がし方」、楽器の「抱き方」など、いつも女性に例えてユニークに教えてくれたが、先生が言うと全くいやらしさがないのが不思議だ。
大きな本番が終わった後などはハープ隊員を引き連れて飲みに繰り出してくれ、誇張のないフリー音楽家の現実や、仕事の仕方、仕事への構え方、仕事への姿勢などについていつも熱く語ってくれた。
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大学を卒業してから、少しずつプロオーケストラの客演の仕事を頂くようになり、ある日初めて名古屋フィルの定期演奏会で客演する機会を頂いた時だっただろうか、ハープの席には山崎先生が座っていた。
休憩の時に挨拶に行くと、
「おーゆうすけ、元気だったか。ここで会えたなー嬉しいなー。」
といつものように飄々と仰った。
先生は同じ名前の僕をたまにファーストネームで呼んでくれる。
先生に仕事の現場で会えたことが、心の底から嬉しかった。
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オーケストラの中でのピンチを救っていただいたこともある。
ベルクのヴァイオリン協奏曲。
指揮は当時の名古屋フィル常任指揮者ティエリー・フィッシャー、ヴァイオリンは巨匠オーギュスタン・デュメイ。
僕は29歳の頃だったと思う。
リハーサルの最中、あるところで指揮が止まり、フィッシャーがデュメイに何かイラっとした様子で呟いた。
何語かはわからなかったが、「サクソフォンのヤローがわかってねー」と言ったようなニュアンスであることは確実にわかったし、自分がハマってないことも自覚があった。
リハーサルは少し張り詰めた空気になり、休憩となった。
真っ青になり肩を落としてスコアを広げる僕の後ろから声がした。
「ゆうすけ、そこは俺と一緒だ。俺を聴いて俺に合わせてみろよ。」
そう言って、休憩の間僕に付き合って練習して下さった。
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それから何度も先生とはお会いしているが、ほぼ名古屋フィルの現場。
時には上手と下手の端っこ同士で会うこともなく、本番終わりくらいでようやく挨拶できることもあった。
「よっ、いるのは知ってたよ。お疲れさん。」
先生はどんな時も常に飄々としている。
今年の4月、初めて(おそらく)アルルの女のメヌエットを一緒に演奏できた時は、その美しさと初めて感じたハープに寄りかかるように演奏できたアンサンブルの貴さと感慨で胸にくるものがあった。
「おもしろかったな。」
やはり飄々としている。
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第70回記念定期演奏会本番直前のリハーサル、モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲、いつもと違ってステージのど真ん中でハープを響かせる山崎先生をコンサートホールの客席から見つめながら、色々な思い出や想いが去来した。
モーツァルトが終わるとそのまま伊藤康英氏の「悲しみから歓びへ」のリハーサルへ。
この作品は、本番には山崎先生がいると知った伊藤さんが曲中にハープのカデンツァを仕込んでいた。
と言っても、基本即興が中心のカデンツァであったようだが、山崎先生はしっかりと準備されていて、その演奏に最初のリハーサルの時から伊藤さんもご満悦だった。
しかしリハーサルは盛り上がり、昨日の記事の通り、終わった時には「アンコールでもう一回やろう」となったのだ。
そして伊藤さんはこう付け加える。
「山崎さんのカデンツァからね!アンコールは違うことやるんだよ!なんて無茶振りだよね!」
と言ってみんな笑った。
しかしアンコール本番で聴こえてきたカデンツァは、本編とは全く違うものだったのだ。
僕は生音が聴けるステージ袖のスポットにいたが、驚いてその場にいた河合雪子さんと目を合わせた。
きっとその演奏に触発されたところもあるのではと思う。
生徒たちの歌声は、本編よりも格段にホールに響いていた。
これがプロだよ。
これがプロなんだよ。
涙を流しながら心の中で叫んでいた。
終演しステージ袖に出てきた先生。
「いや面白かったね、楽しかった、あっという間の時間だったねぇ。」
やはり先生はいつだって飄々としているのだ。