また二ヶ月間ほどでしょうか、ブログから姿をくらましてしまいました。

すいません、申し訳ないです、Bachは生きてます。

まぁ、大変ですよ、本当にね。

言い訳だけど、4月に入ってからホントに忙しくて、

毎日図書館に立てこもって課題をやる毎日です。

立てこもりではないですね、まぁいいや。



ところで最近ひとこと系のブログが流行ってますね・・・。

ほんとになんか、マジでなんのメッセージ性もない感じのアレね・・・。


いや、いいんだよ、それぞれ色んな形があってさ。


でも俺はそういうの好きじゃない。


というのも、たまにね、

ひまになった時に携帯から最新記事んとこ覗いてみたりするのね。


でもほとんどが、一言更新のブログばっかりなのよ。

「あ、そう・・・、だから?それで?」って感じになってしまう・・・。


ブログが流行ってるのはいいのか悪いのか、

別にそんな事はどうでもいいことだけど、

だって、どっちにしろ宝は埋もれている物だからね。


なかなかさらっと良い場所は見つからない。

わたしにとってのあなた


わたしからすれば、


結局、全ては主観だろう


主観以外に何を持てるのか、


他人にとっての悪人でも、

その人が自分に優しく声をかけたなら、

自分はその人を悪人とは思わないのだ。


結局すべては己の都合で判断される。

自分にとって都合の良い事ならば、

それが嘘であっても、そこに誰の心もこもっていなくても、

それがただの表面であっても、

気持ち良いと感じてしまうのだ。


そしてそういう僕もそうなのかと思うと、

気持ち悪くなってしまうのだ。


人を愛するという事はそういう事なのだろうか、

自らの存在を消して、

表面的に人によく振る舞い、

取り繕う努力をする事が・・・


僕が表面を気持ち悪いものと思ってしまうのは、

そこに心を感じなくなってしまったからだ。

カラッカラの心のこもっていない言葉が評価される世の中が、

気味の悪いものと感じたからだ。


この世には表面というものがある。

それ故に嘘や欺きも在れるのだ。

こう論ずると、「こころ」とはそれと真逆に位置するものだと思われる。


人に心のない笑顔をかわす事と、

何かを企んで欺く事は、

表面の観点からして何もかわらないのだ。

それが嘘であるという点で等しい。


人にとって、僕の心なんてどうでも良いのだ。

ただ僕があなたに優しい言葉をかけてあげれば、

そこに僕の心がどれだけこもっていたかなんて事は、

あなたにとってどうでもよいことなのかもしれない。


それと同時に僕にとってもあなたの心なんてどうでも良いのかもしれない。

ただあなたが僕に優しい言葉をかけてくれるのなら、

そこにあなたの心がどれだけこもっていたかなんて事は、

どうでもよいと感じているのかもしれない。


そう思うと、僕は、

とても虚しい、気味の悪い夢を見てるような気分になる。


僕は甘えているのか、

ただ愛されたいと醜く飢えているのか。


表面なんてどうでもいいから、

僕の心を見て欲しいと、

飢えているのか。



表面とはただの皮ほどのものでしかない、

中身のないものでもかまわない。


僕にとって表面とは嘘、欺きなのだ。


世界は、表面の世界だ。

社会は「表面」そのものの存在だ。


僕にとって人とは、

嘘の中で生きる人々なのだ。


表面に隠されて、心がどこにも見えなくなってしまっている。


子供の頃はそんな事、考えた事もなかった。

僕はバカみたいに純粋で、信じていた。


表面と心は連結しているものだと、

僕は騙されていたように感じて、

気持ち悪くなってしまった。

以前から散々思っていた事なんですが、

ブックオフなどの最近のお店のうるささは異常です。



「落ち着いて品物選びが出来ない。」


「騒々しいお店は居心地が悪いので、

 買いたい物を買わずにでも早くお店を出たい。」


「ブックオフはうるさいから行きたくない」


ネットで調べたところ、そのように思っている人は、

予想以上に多く、様々なブログや掲示板で話題にされています。


もうすでにこれだけの声があがっているのに、

今でもかなりうるさい店がたくさんあります。


渋谷の大音量でロックのかかっている服屋や、

HIPHOP大音量の黒人系の服屋とかは、

まぁそういう街だからなぁと思いもしますが・・・


100円ショップCANDOのステレオ大量設置や、

GEOもBGM大音量だし、

ドンキホーテ系のお店のAVコーナーなんて酷いもんだ。

最近は知らないが昔、スニーカーのSTEPの歌の永遠ループが

たいへん気持ち悪くてマジにしんどくなってしまった事もあった。


この前入った下北のABCMARTもBGMがうるさいと思った。

ロックが嫌いなお客様だって買い物に来たいだろうに・・・

客を追い払いたいようにしか思えない。


お客様にとって居心地の悪い空間を提供するために

懸命に努力しているお店は本当に多くて関心する。


全国の店長・社長様方に言いたい。

うるさい店が客にとって居心地が良いと思うか?


これは店にとっても不利益なはずなんだけれどね、

売り上げ下がってませんか?


ブックオフの言い分からすれば明るく元気なイメージを目指しているらしいが、

「明るく元気」と「騒がしくて落ち着きがない」は人がよく間違えることだ。

「大きな声で元気に挨拶」なんて説教はどこかできいた事があるが、

大きな声というのは乱暴粗雑で、人を不快にさせる場合もある。

明るい愛想笑いもあんまり大きな声で騒いだら、

イヤに思う人や周りの迷惑になっているかもしれないのだから。


僕は理屈が好きだ。

理屈は大切だし、必要なものだし、

「道具」としてならば使いようによっては非常に役に立つ。


けれど最近すごく実感する。

理屈というのは表面的なものだと、

その土台には心がある。

土台がなければどんなに優れた理屈も全く力がない。


「どうすべきか」という理屈よりも、

「どうしたいか」の感情の方が強い。

これはすごい事で、もしくは恐い事かもしれない。


情熱の力、夢見る力、

それは理屈では覆せない狂ったような強さがある。


   06-9/10のメモから

これは酷い・・・。


目がヤヴァイ、


右の目には昔から老人環(若年環?)があった。

黒目のふちが白くなるアレです。


僕は眼運があまりよくないらしく、

小学校から中学校にかけて、目にダメージをうけるような

事故が多発していたので、

「まぁ、本当に運が悪ければ失明もあったよ」と、

さらっと眼科医に言われた事もあった。


その中学校の時の事件の後は、

目を閉じると白い光がぼやぼやと踊って見えていたほどだ。

あれは傷がある証拠の症状なんだろう・・・。


と、まぁいろいろあったので、

自分の右目に老人環があった事も、

その事件のせいなのだろうとあまり気にしていなかったのだが、

今日、目が疲れたなぁと思って鏡を覗いたらまぁ、

左目にも出来ているではないかと・・・。


しかも慢性的に虹彩(目の茶色の部分)のふちに円くしわができているのです。

もう治らないんだろうか、

この虹彩のしわは目の疲れを表しているらしいです。



老人環って治らないんですか?

この虹彩のしわも治らないんでしょうか?


かなり酷いですね、

僕まだ20程度の年齢なんですけど、


思い返してみれば、

毎日毎日パソコンやって、

本を読んだり、最近は特にそんな生活だった・・・。


ホントにまずいなぁ、

ちょっと考えようと思いました。


みなさんも鏡で眼球チェックして考えてください・・・。

ついでに喫煙者の方は歯茎のピンクが失われていないかチェックです。


タバコ反対運動ではよくグチャグチャになったHスモーカーの口内の写真や、

黒くなった肺などの写真が用いられますが、

そんな非日常的な写真では、なんの説得力もわかないのが事実です。


しかし、鏡で自分の歯茎をみてください。

ピンク色でプリっとしていた健康な歯茎は失われ、

痩せて白や黒、人によっては黄色ですか、

はい、あなたの歯茎は大変な事になっています。


先日、友人の一人も煙草を吸い始めました。

依存のないうちにやめておけと言いましたし、

前から喫煙者であった友人にも、

歯茎をチェックしなさいと言っておきました。


この前の同窓会の時には、

あんなに可愛かった初恋の女の子が、

まわりのみんなに「何処のお店で働いてるの?」

と問われるような格好をして煙草を吸っていましたよ・・・


大学にいっても本当に喫煙者が多いですね、

みんなおかしいですよ、どうしてなんだと、

みなさんなんで吸い始めたんでしょうね。


やっぱり周りの友達が吸っているのを見てでしょうか、

伝染していくんですよね、最近の人はなんでも、

群集心理大好き日本人ですから。

そういう僕の友達もそうですが・・・


にしても最近の大学生の喫煙率は異常です。


まだ吸っていない人、またはまだ依存していない人、

煙草はおすすめはできません。

歯茎をボロボロにしたくなかったら吸わない事です。


マナー それは思慮か、

それとも礼儀作法や挨拶のようなものだろうか。


理想をいえば、後者のように形式として認識した方が都合が良いだろう。

だた、何もないところから「習慣」を創造するのはなかなか容易だとは思わない。


自らの周りを取り囲む集団、人間達、

その集団の持つ匂い、雰囲気というものがある。


その「匂い」の中で常識という幻想は設定される。


人はたびたびそれに縛られる。


集団の中、その社会の一部となる時には、

個人は思慮を捨てなければならない。


思考判断停止の相


集団だけじゃないだろう。

たった2人きりの世界だって、

それは社会という概念に確かにあてはまっているし、


「自分以外の者と同じ世界で過ごす」という意味で、

個人的な思考は停止するだろう。


朝、人とあって、目が合い、

「おはよう」といった瞬間にもう「個としての思慮」は中断されている。


僕は環境問題の類の話にとても関心の強い子だった。

僕の世代の若者はみな、

反戦と環境問題についてはどこの小中高どこでも、

しつこいぐらい授業があったことだろうが、

僕はその生徒の中でもまして環境問題などに関心をもった。


それはマナーについてのお話だ。

最近ではさらにその手の声が多く聞こえるようになってきたが、

エアコン、冷暖房、洗剤、しゃんぷー、石鹸、歯磨き粉・・・

などをバカみたいに使うのはよしなさいという運動だ。


それは思慮だろうかと、


思慮であればそれは不可能なのだ。

だって人は社会という場所で思慮を奪われているのだから、


僕はそんな自分がイヤだ。

人と明るく接している時の僕には、

そういう類の全ての思慮が薄れる。


友達とふざけていれば、

「周りの迷惑になっているかもしれない」という思慮を忘れていたり、

社会的な意識に入っていれば

ついつい洗剤類もトバッと使ってしまっているかもしれない。



いつだかこんなことがあった。

学校のみんなと川で宴会をしていた。

みんなは、いかに楽しく笑い合うかという事に夢中だった。


その時の僕は調度よく社会と自らの意識の半ばにいられたので、

宴会の後半の頃にはみんなが散らかしたゴミを片付け始めていた。

それをみた思慮の弱っている人間は僕に、

「そんな事する必要はない」と言った。



社会に属した瞬間に、

僕も「愚かで思慮のない社会」の一部になってしまう。

社会に属した僕は明るくなると同時に粗雑な人間になるだろう。


しかし生きるためには、社会に属さなければならない。

僕はそこで葛藤してしまう。


しかしね、僕がここで一番知りたいのは、

彼女のような人の心なのだ。

こういう人は時々みかけるが、本当に関心する。


あの川での宴会のとき、

「何をやっているんだ」という目で見られる僕に、

「私もやる」と言って片付けを手伝ってくれた人がいた。


たまにいるんだよね~、ああいう関心な子が(笑)


彼女は今思えば良い意味で変わった人だったが・・・


僕はああいう人になりたいと強く思う。

社会ともよく関わりながらも、それでも

自分の良心を粗雑に殺さない。


何故あんな器用な事ができるんだろうか、

一体どういう意識構造になっているのか、


僕もそんな風に上手く生きていかれたらと思う。


   
ローズマリ サトクリフ, Rosemary Sutcliff, 山本 史郎
ロビン・フッド物語

ロビンフッド読んでます。

やっぱりいいですね、こういうワクワク系のお話は、

物語にはやっぱ森が出てこなきゃダメです。


なにかファンタジックな感じの物語が読みたい気分になって、

自分でネコのお話し書きだしちゃうぐらいだったんですが、

図書館に行ったらこれを見つけました。


いろいろ本を読んでみようと自分の大学の図書館もあさったんですが、

やっぱり学校の古い書物は難しいし、(読めない漢字がいっぱいだったり)

ワクワクするような奴がないですからね。


大学で見つけて気に入った本はこれぐらいです。

デュマ・フィス, 新庄 嘉章
椿姫

画像で出てるのは僕の読んだ本じゃない。

学校で見つけたのはもっと古くて立派な本でした。

今は売ってないんでしょうね、ああいう立派なのは・・・。


売ればいいのにね、昭和の本のデザインは本当によかった。

アールヌーボーの植物デザインでふちを飾った単行本とかも、

あんな素敵なものをなんで殺したのか、

僕には世間の考えがまったく理解ができない。



いろいろと日本の文学家と呼ばれる人間の書いた本なども、

ちらちらと挑戦してみたものの、

やっぱり僕は趣味がガキなんでしょうね。

日本の文学ってなんか暗~い感じじゃないですか、

全然ワクワクするような感じじゃないんですよね。


寺山修司?

暗かったなぁアレは、


八つ墓村みたいな雰囲気?みたいな、

恐いんですよね。


やっぱり僕は天才と言われるような日本の文学家の本よりも、

ヨーロッパの方で書かれたもの、ファンタジーとか、

うさぎがはねてる絵本とかの方が好きですね。


なんででしょうね、翻訳してあるからなのか、

それでもやっぱりもともとの雰囲気が変わっている感じはしないし、

あっちの国の方のジョークも好きだし。



最近絵本とかも興味があってお店の絵本コーナーを時々のぞくんですけど、

いやまぁ酷かった、なんであんなにアバウトな画を描くんでしょう。

この前薬局で見たうさぎの絵本なんか毛の一本一本まで書かれてて、

繊細な、光を感じられるような絵だったのに。


最近の絵本って適当な感じのばっかりなんでしょうか、

ちゃんとした絵を描いた本を売れ、と思う。


今日、ニュースサイトのまなめさんトコで見たのが

きっかけだったんですが、毛皮の生産についての話です。

僕はこのような情報を初めてみたわけではなかったと思うんですが、

今日は改めて新鮮な感覚で考えさせられました。


以下、毛皮に関するサイトのリンクです。

中には残酷な写真もあるかもしれませんので、

苦手な方は注意してください。


毛皮は動物のもの


毛皮は必要ですか?


animalhaerts


いくつか張らせていただきましたが、

みなさんはこのようなサイトに行ったことはありますか?

それと、毛皮はどのようにして生産されているのか、

考えた事はありますか?


なかなかあまり情報がなくて、

確かな事を知る事はできませんが、


この事だけは確実に言えます。

どうしても人の社会では、

動物を「ただの物」としか扱わなくなってしまいます。


なんにしても、

動物から命をいただいているという感覚は、

忘れてはいけないと思う。

それが尊ぶ心だと、


その気持ちすらも忘れて、

毛皮製品を「ただの物」だと思ってしまっているなら、

あなたも一部の残酷な毛皮業者となんら変わりはないでしょう。


普段食べている肉だって、魚だって、

あるいは穀物だって、

命あるものからいただいている物です。


「ただの食べ物」という感覚で

なんとなく口に入れてしまっているのは、

なによりも残酷なことだと思います。


こうやって人の社会を見てみると、

また僕の「拒絶感」が始まってしまいそうだ。

こんな所にいたくないと、


なぜなら僕は社会には何も望めないと思っているからだ。

どうしたって無理な事だ。


毛皮製品を撲滅しようなんて台詞になんの価値があるだろうか、

また動物から毛皮をいただくのも一つの文化だという見方もあるだろう。


理想なんて高度なものは人類社会の耳には聞こえない。


だが、それは「ただの物」じゃないんだという感覚だけは、

忘れたくないと思う。


ネコさんはたこ焼きを食べながら、たい焼きの事を考えていました。

「たこ焼きもおいしいんだけど、やっぱり僕にはたい焼き方が似合ってるんじゃないだろうか・・・」


そんなネコ君を内心バカにしながらもクマのJohnが言いました。

「あんまり深く考えない方がいいぜ、お前は今たこ焼きを食ってるんだろ?

 じゃあなんでたい焼きの事を考えるんだよ、たこ焼きの気持ちはどうなるんだよ。」


「そ、そうか、そうだよな、

 僕がこんなに思いつめていたら。

 たこ焼きがあまりに可哀想だ。」


ネコ君は向かいの店で売っているたい焼きの事を忘れて、

今ここにあるたい焼きの味をかみ締めようと決心したのでした。


そしてネコ君は腹を下しました。

どうやらネコ君はたこ焼きを精一杯味わうと決心した勢いで、

自分のキャパシティー以上のたこ焼きを摂取してしまったようです。


クマ「大丈夫か?草食べるか?」


ネコ「これくらいどうってことないよジョン、

   人生にこれぐらいのトラブルはつきものさ」


ネコ君は絶対にしんどそうな顔をして草をかじりながらも、

心配そうにしているクマさんに少し笑って見せます。


やっぱり僕にはたい焼きの方がよかったんだ。

自分はネコなんだから、おとなしくたい焼きを選んでおくべきだったんだ。


今日の僕は少しどうかしていたんだ。

明日はたい焼きを買いに行こう・・・。


                

                       つづくかもしれない




僕にはたくさんの名前がある。

みんなは好き勝手に僕に名前をつける。

ある時はネコ君、ミケだったり、タマだったり、

Bobかもしれないし、ジョセフィーヌだってかまわない。


どんな風によばれたってかまわないし、

色んな名前で呼ばれるのが少しおもしろくもある。


でも本当の名前はない。

一応耳もしっぽもあるんだからまぁネコなんだろうけど?

僕にはそんなものなくてもかまわない。

とりあえず今日たい焼きが買えるお金と、昼寝する場所があればいい。


さぁたい焼きを買いに行こう。

ネコさんが暗い路地を出たところでふいにクマのジョンと出くわしました。


ネコ「クマが現れた!」


John「いやいやクマが現れたじゃなくてさ、そりゃあオレもクマだけどさ」


クマのジョンは昨日たこ焼きの多量摂取で倒れたネコの事を心配して、

早くから山を降りてネコのもとを訪れたのでした。


John「なに、もうすっかり大丈夫なの?

    草食べなくて平気?」


ネコ「何いってんだ、オレは猫だぞ。草なんて滅多に食べるもんじゃねぇよ。

   あの時は緊急事態だったんだ」


てゆーかネコ出かける所だったの?」


ネコ「今日はたい焼きの日だからな。」


「昨日あんなに激しく腹下したのにもう食べる事考えてんのかよ。」


ネコ「明日はたい焼きを買いに行くって昨日決心したんだよ。

   お前はもう山に帰ってろ、あんまり長居するとクマがいるって騒ぎになるから」


John「あぁ、まぁそうだな、じゃあまた川でな」


ジョンの後ろ姿はなかなかの貫禄だ。

あいつはオレと年はそんなに変わらないのに、

なんだかすごく年上のような感覚がする・・・。


そしてネコはたい焼きを6つほど買った後、川へ向かいました。


まだここにジョンはいないようです。

ネコ君は河原にすわって、たい焼きを食べ始めました。


やっぱりオレにはたい焼きが似合ってるような気がする・・・。

オレにはこのたい焼きのフォルムがしっくりくる。


今日は良い天気です。空は青く、木々の緑が風にゆれています。



                        つづかなくてもいい