マナー それは思慮か、
それとも礼儀作法や挨拶のようなものだろうか。
理想をいえば、後者のように形式として認識した方が都合が良いだろう。
だた、何もないところから「習慣」を創造するのはなかなか容易だとは思わない。
自らの周りを取り囲む集団、人間達、
その集団の持つ匂い、雰囲気というものがある。
その「匂い」の中で常識という幻想は設定される。
人はたびたびそれに縛られる。
集団の中、その社会の一部となる時には、
個人は思慮を捨てなければならない。
思考判断停止の相
集団だけじゃないだろう。
たった2人きりの世界だって、
それは社会という概念に確かにあてはまっているし、
「自分以外の者と同じ世界で過ごす」という意味で、
個人的な思考は停止するだろう。
朝、人とあって、目が合い、
「おはよう」といった瞬間にもう「個としての思慮」は中断されている。
僕は環境問題の類の話にとても関心の強い子だった。
僕の世代の若者はみな、
反戦と環境問題についてはどこの小中高どこでも、
しつこいぐらい授業があったことだろうが、
僕はその生徒の中でもまして環境問題などに関心をもった。
それはマナーについてのお話だ。
最近ではさらにその手の声が多く聞こえるようになってきたが、
エアコン、冷暖房、洗剤、しゃんぷー、石鹸、歯磨き粉・・・
などをバカみたいに使うのはよしなさいという運動だ。
それは思慮だろうかと、
思慮であればそれは不可能なのだ。
だって人は社会という場所で思慮を奪われているのだから、
僕はそんな自分がイヤだ。
人と明るく接している時の僕には、
そういう類の全ての思慮が薄れる。
友達とふざけていれば、
「周りの迷惑になっているかもしれない」という思慮を忘れていたり、
社会的な意識に入っていれば
ついつい洗剤類もトバッと使ってしまっているかもしれない。
いつだかこんなことがあった。
学校のみんなと川で宴会をしていた。
みんなは、いかに楽しく笑い合うかという事に夢中だった。
その時の僕は調度よく社会と自らの意識の半ばにいられたので、
宴会の後半の頃にはみんなが散らかしたゴミを片付け始めていた。
それをみた思慮の弱っている人間は僕に、
「そんな事する必要はない」と言った。
社会に属した瞬間に、
僕も「愚かで思慮のない社会」の一部になってしまう。
社会に属した僕は明るくなると同時に粗雑な人間になるだろう。
しかし生きるためには、社会に属さなければならない。
僕はそこで葛藤してしまう。
しかしね、僕がここで一番知りたいのは、
彼女のような人の心なのだ。
こういう人は時々みかけるが、本当に関心する。
あの川での宴会のとき、
「何をやっているんだ」という目で見られる僕に、
「私もやる」と言って片付けを手伝ってくれた人がいた。
たまにいるんだよね~、ああいう関心な子が(笑)
彼女は今思えば良い意味で変わった人だったが・・・
僕はああいう人になりたいと強く思う。
社会ともよく関わりながらも、それでも
自分の良心を粗雑に殺さない。
何故あんな器用な事ができるんだろうか、
一体どういう意識構造になっているのか、
僕もそんな風に上手く生きていかれたらと思う。