100年前の日本語を継承する。

今日も『「言海」を読む』からの一節。

出版部数の多い書物の原稿を書いていて、明治の文献を掲げた時に、編集担当者から、それを掲げると、そこで読者が読むのをやめてしまう危険性があると指摘されたことがある。経験を積んでいる編集担当者の判断だから的確なのだろう。そうだとすれば、「百年前の日本語」が、 もはやわかりにくくなっていることになる。しかし、だからといって高等学校で「古文」の時間を増やしましょうという話はあまり聞かない。日本文化を大切にしようという話は耳にすることがあるが、その場合の「日本文化」に「過去の日本語」は含まれていないのだろうか。 百年前の日本語が読めなくなっていいのだろうか。「今、ここ」性は加速しているように思われる。

『言海』が「今、ここ辞書」であったとすれば、これらの問題のルーツもまた『言海』にあったことになるのだが、ひとまず、ここでは、それが近世までの辞書とは連 続しない、『言海』の特徴であったということを指摘しておきたい。



学校で学んだ古文や旧仮名遣いは間違いなくテスト対策。
では実際にそれを入口(きっかけ)として卒業後に役立っている人はどのくらいだろうか❓
まぁ、私も学校での学びがあったからこそ数十年後になって国語辞典をきっかけに旧仮名遣いにチャレンジしようとしているので、「間違いなくテスト対策」だけではなかったということなのだが、こんな調子では旧仮名遣いを読める人が居なくなるのは時間の問題だろう。

さて、それを食い止めるにはどうすれば良いのか、エライ人たちは誰か考えているのかな❓