「言海」を読む にあった一節。

明治時代には「俗語」としてとらえられていた五十の言葉を列挙したあとにこんな文を書いている。

右に掲げた五十例の多くは、現代においてはさほど「俗語」と意識されていない。それはそのようになっているということであるが、そうだとすると、わたしたちは、例えば明治期の文学作品において、右に掲げたような語が使われていても、それが「俗語」だと気づかないことがあることになる。登場人物が会話の中で、右に掲げたような語を使う。それは作者にとって意味のあることだったかもしれない。しかしそれに気づかないとしたら、作者の意図を現代人の読み手は受け止めることができないということになりはしないだろうか。そうしたことはある程度覚悟しなければならないともいえる。過去の言語を、現在自分が使用している言語と同じように受け止めることは難しい。過去の言語には「内省」がはたらかない。だから、明治期の日本語が手に取るようにわからなければ明治期の文学作品は読めないといってしまえば、誰も読めないことになる。しかし、少しでもわかっていれば、よりよく読むことができるかもしれない。『言海』はそうした手がかりを与えてくれる可能性がある。

明治期の文学をその時代に生きているつもりで読むには、或いは作者の意図を読み解くには「言海」のような当時の辞書を読み解かないと本当に読んだとは言えない、と。

これはなかなか難しそうだ。