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明日への轍

齢五十を過ぎて、ある日大腸がんが見つかる。
手術から回復したと思った一年後、肝臓と肺へがんが転移。
更に続くがんとの付き合いを記録します。

今年の五月に肺に転移した癌の手術をしたばかりだが、本日のCT検査の結果、再度癌の転移が見つかったと連絡があった。しかも、肺と肝臓の両方である。

 

午前中の血液検査で癌マーカーのCEAの数値が上がっていると言われた。

昨年の再発前にもやはり数値が上がっておりいなや雰囲気だった。

これだけでは判断できないものであったが、午後にCT検査があった。

結果については、来週の金曜日に大腸外科の医師の診察があるのでそれではっきりすると思っていたが、家に帰り付く前に病院から連絡があった。

 

肝臓の担当医で、H医師の代診の医師だったが、その医師から連絡があった。

肝臓に関しては専門分野なので間違いないであろう。

場所は以前に切除した部分の傍で下の部分らしい。

そして、肺にも怪しい部分があると言っていた。肺は担当外なので担当の医師から後に連絡があると思いますとの事だった。

 

いずれにしても、CEAやCT検査の結果からであるので間違いないであろう。

それにしても転移が早い。 

抗がん剤の治療を今年五月の手術後しなかったが、それはすべきであったのか。判らない。

 

退院して一週間目になる。呼吸器外科のK医師の診察があった。

 

自身の体感としては次の通り。

1 呼吸は手術前よりは浅い。思い切り呼吸をしようと思っても途中でそれ以上の呼吸ができなくなる。

  これは事前の医師からの説明通り。確かに肺葉を切除しているのであるから当然。

  但し、それ程息苦しいという気はしない。だが、階段を登ったり速足で歩いたりするとやはり息が切れ  る。

2 ドレーン等が入っていた胸部の傷については、やはりまだ痛みがある。

  じっとしているとそうでもないが、動いているとじんわりと痛みを感じる時がある。

  それに、傷口から体液のようなものが漏れ出す時がある。

  現在は、ガーゼを当てて衣類が汚れないようにしているが、やはり内臓部分に影響がないのか気に   なる。

3 それ以外には熱が出たり、通常の生活で支障が出るようなことはない。

 

今日の診察では、K医師に自分なりの体感を説明した。

一方で、レントゲン撮影の結果を合わせて、K医師からは順調である旨の説明があった。

だが、傷については、現段階では問題ないとも思われるが、傷口からばい菌等が入ってしまうとよくないことから、抗生物質の投与を指示された。

一部の傷について抜糸もされたが、もう少しの間風呂は控えるようにも指示された。

最低でも、あと一週間はシャワーで済ませるしかない。

 

傷口が固まりにくいのは、抗がん剤の影響かもしれない。

まあ、それほど長い期間ではないし、大人しくしているのも重要であろう。

 


手術後四日目であるが、先が見えてきた処だった。
後は、硬膜外麻酔の針を抜いて、尿道カテーテルを抜いてもらえれば大分楽になる。
朝からそんなことを考えていた6時過ぎにいつものようにK医師が病室にやってきた。
今まで色んな医師を見てきたが、ダントツに朝の早い人だ。何かすることがあったと言っていたが・・。

そして、それじゃあ硬膜外麻酔の針を取りましょうかと言われた。
これらの医療器具は医者でなければ外せないらしい。それは知っていた。
だから、医師の通常の勤務時間内で、しかも時間が合わなければ外してもらえないと思っていたが、早かった。
特に痛みもなくすぐに外れた。本音では尿道カテーテルも外してもらいたかったが、通常それは看護師の仕事らしい。

ところが、それからすぐに夜勤の看護師が来て、尿道カテーテルを外してくれた。
ありがたがった。ついでに外したカテーテルを見せて貰った。
 肌色の器具で先端横に穴が開いていた。そして穴より根元側に水で膨らます風船状態の仕掛けがあった。
これを尿道に入れて膨らませて抜けなくし、かつ尿が漏れない構造になっていた。

今まで、このカテーテルを忌み嫌っていた。構造をみるのは初めてだった。
忌々しい器具であるが、これが四日間も身体に入っていたかと思うと多少親近感も沸いて来る。
だが、これらも全て使用後は医療廃棄物として処分されるのであろう。大変な量になるものだ。

さて、身体に付けられた器具類は全て無くなった。傷は、鏡で見てみたが、やはりそれなりの大きさだった。
五センチ程で今まででは大きい部類に入るかも知れない。でも脇腹であるからそんなに気にならない。
正面から見るとほとんど判らない程である。

これも胸腔鏡による手術のなせる業である。患者の負担が各段に軽い手術法であり、条件が揃ってっ可能であればこれを選択したいのは道理である。

実際に動いてみると、やはり今までのように呼吸はできないことに気づいた。
当たり前であるが、呼吸は以前より浅い。思い切り深呼吸ができない。
思い切り空気を吸おうとするが、途中でこれ以上吸えなくなってしまうのである。
空気を吐くときも同様で思い切り吐けない。
物理的に肺を切って決まったことを実感するのである。医者は次第に慣れますよと言った。
つまり、訓練して呼吸が復活して「治る」訳ではなく、現状に「慣れる」のだそうだ。

退院は明日にするか、明後日にするか。


手術後三日目である。昨夜も傷の跡がキリキリ痛かった。
痛いのに昼も夜もない。兎に角痛いと辛いし、不機嫌になるし、暗くなる。
先々に未来はないのかとさえ思えてくる。そんなことも四回目だ。毎回この繰り返し。

そんな思いも、徐々に晴れてくる時がやってくる。
ドレーンが抜けたとき。尿道カテーテルが抜けたとき。点滴の針が抜けたとき。etc
徐々に解放されて痛み無くなって、ふさぎ込んだ気持ちが軽くなって希望が湧いてくる感じ。
非常に単純ではあるが、将にそんな表現が当てはまる感じである。これは経験した人ならわかってくれると思う。

今日、胸腔ドレーンを抜いてもらった。
ドレーンも四回目であるが、今までの三回は大腸、肝臓、肺である。
このうち、肺のドレーンを抜くときが一番痛かった。それは、傷口の大きさが影響しているらしい。
ドレーンの太さはどれもそんなに変わるとは思えないのだが、傷の大きさも違うようだ。
しかも、今回は肺に二本入っている。

痛みは我慢するしかない。だが、前回の激痛が脳裏に残っていた。K医師も承知しているようだった。
はたして、やはり激痛だった。ドレーンを抜くのも痛かったが、その後、傷口を縛るのである。
これが、相当の痛みだ。後で傷口をみたが、確かに4~5センチあるところを縛ってあった。
いい大人なんだからこれ位我慢しなきゃと思うが、痛いものはどうしても痛いのである。

尿道カテーテルは硬膜外麻酔の針が取れれば同時に外してもらえる。
当然に今日外すものと思っていたが、硬膜外麻酔は追加され明日まで延期となった。
明日の朝までの麻酔の量であり、これが終了するすれば間違いなくこのカテーテルも抜いてもらえる。
それまで我慢は続くのである。


いつものように手術は始まった。
キャップをしてもう温かいシーツを膝にかけられて色んな担当者が挨拶に来る。
名前を言われても一々覚えていない。もちろん相手も同様だろう。

そして麻酔。いつもの硬膜外麻酔である。
台の上で横を向いて膝を抱えて背中を突き出して注射を打たれる。
最初は部分麻酔。そして硬膜外まで針を刺して麻酔をセットするようだ。
これも毎回だが、今回はなかなかうまくいかずに女性の担当者から男性に交代して三回目になんとかうまくいったようだ。
こんなことでも順調に行かないと先を案じているようでいやなものだ。
そして、酸素マスクをして数秒したところで意識がなくなった。

夢を見ていた。何の夢か忘れてしまったが、楽しい夢ではなかった。
名前を呼ばれて気が付いた。

何時ですか。「二時半ごろです」予定より一時間ぐらい掛ったようだった。
今回も第二ICUへ 姉貴とカミさんが来てくれていた。

その後、すぐに寝てしまった。気が付いたら夜九時。六時間程眠ったようだ。
採血と検温をして直ぐにまた寝てしまった。気が付けば午前三時。やはり六時間程寝てしまった。
そして元の病室へ。そこでもやはり数時間寝てしまった。
これだけ眠れたことは今まではないように思えた。 

眠れるのはいい事だと思う痛く眠れないのは辛いことだ。だが、直にそれが現実になった。
病室に戻った日の夜、夜中に目が覚めた。どうにも傷のあたりが痛かった。
一番強力なフェンタニルという注射型の麻酔が切れたようだ。
でも、背中に入れている硬膜外のアナペインはまだ効いてるはずだ。それでも痛かった。
経口薬の痛み止めロキソプロフェンを貰ったが、あまり効いてる感じはなかった。
朝まで辛かった。 腰が痛くて寝返りが打てない。汗をかいて背中からお尻にかけて痒かった。
朝食の時間になって経口薬の痛み止めトラムセットを飲んだところ次第に効いてきたように感じた。

痛みの峠は越えたように感じた。
毎回のように手術後、二日ほどたって強力な麻酔が切れた当たりから痛みが増してくる。
この時が辛い。 どんな姿勢をとっても痛いし、兎に角時間が経つのを待つしかない。
この時はカミさんにも悪いが、とても話をするどころじゃないので帰ってもらうしかない。
もうカミさんもその点は分かっているようだ。

そう言えば、今日は母の日だった。母親にもカミさんにも何もしていない。不肖な息子、駄目な旦那である。