幸せには「覚悟」が、不幸せには「意地」がある | 不思議なことはまだまだ起こる

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不思議なことはまだまだ起こる。
この言葉が私の頭の天辺からつま先までを抜けた。
この日から、私は自分の人生が自分の思うがままに生きられることを知った。人生って最高!

 ご自分が不幸せだと仰る方には、とても強い「意地」を感じます。
その「意地」がどのようなものであるかというと、「この不幸のトップの座は誰にも譲らない」というものです。
多少その方と似通った体験があると話しても、大概「貴方の場合はまだ良い方なのよ。でも、私の場合は最悪なの」と仰います。
心の痛みというものは、時間が経って笑い話として話せることもありますし、未だ苦い体験として心に残っていると話せることもありますし、誰にも話さずに墓場まで持って行くものもあると思います。
「貴方は声に出して、こうやって話が出来るじゃないですか」と申し上げると、「私が話していることは極一部の話せることです。話せないことだって沢山あります」という言葉が返って来ます。
自分の意志で動かせる肉体や、話が出来る時間、様々な事を受け止められる感覚。「それも含めて不幸であるということでしょうか」
「それは極端な話です」
このような話は堂々巡りになります。
「じゃあ、貴方が目にしている幸せな人というのは、心に痛みを感じてないと思いますでしょうか」
「痛みがあったとしても、幸せな訳だから」
此処なんです。幸せにならない「意地」というものは。
幸せな人というのは、心に痛みを感じても、それは鈍く難なくこなせる人、ただ笑っていると思い込んでいるんです。
その方がどんな苦しみを持ち、そこから自分を立て直し、また崩れ落ち、それでも涙を拭いて前を向いていることは見ようともしません。
「あの人って幸せなんだろうなぁ」と思っている相手は、多かれ少なかれ、今のご自身と似通った体験をしていることが多いです。だから、意識が向くんです。
でも、そのお相手は、様々ある上で、「私は幸せになる」と覚悟を決めた方なんです。
例えば、自分が心穏やかに過ごせる場所について話しても、「私だったら、そんな所要らないわ。それだったら、もっと他に使いどころあるもの」というような、水を差す言葉。
奮起して、行動に移したのに「今、貴方がそうやっていられるのは、あの時の私のアドバイスがあったからよね」という法に触れない強請り。
でも、幸せになる「覚悟」を決める方は、この全てを自分の中で飲み込み、考え、
時に涙しながら、それでも心を奮い立たせているんです。
私は、人がこの感覚を持った上で、自らエネルギーをコントロールし、全責任を自分で抱え、今ご自身の望む場所に立っていることを決して忘れたくはありません。


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