始めたばかりでえらそうに講釈たれますが、通常、塾の講師になるには、

筆記・面接試験はもちろんのこと、「模擬授業試験」てなものがございます。


つまり、実際に授業をしてみて生徒さんの反応を見て、塾側が

「こいつを講師として雇えるか」を判断するものです。


私が学生時代アルバイトでやっていたゆるーい塾だと、

これは一回のみだったんですが、なんと今回は5回(!)もありました。


小学生、

中学生、

高校生、

浪人生、

現役の先生(を中学生に見立てて行う)、そして

塾長+経営トップ(を中学生に見立てて行う)


という、やる前に聞いた瞬間ドヒェー!と思う、ザ・けもの道


で、私は最後はもう、超偉そうな(偉いんだけどね、実際)お歴々に向かって


「先ほど、名詞はものの名前を表す、といいましたね。

では『高い山』。この中に一つ名詞がありますが、どれだと思いますか?」


などと言うわけです。おひげも立派な諸先輩方に向かってね。



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こんなことを経てミラクルにも合格した私でございますが(ありがとうございますありがとうございます)、


全ての試験が終わって、結果も知らされて、今後のスケジュール・配置会議でのこと。


偉い方々は、上記の授業の「評価表」なるものも見せてくれました。


ちらりと見やると・・・


第一回授業試験の生徒さんだったササキくん(仮名)のところ。



・全体=◎

・わかりやすさ=◎

・ひとこと= ←ここに・・・。実に小学生らしい字で・・・。



「キムタク超ウケた」



ドォーーーン。 ど、どうしよう・・・。



当然のことではありますが、授業試験に入る前の講師研修にて、私たちは、

厳しく、それは厳しく、


「ミーハーな話題を振ると授業に集中しなくなる生徒さんもいますので、

充分注意してください」


と叩き込まれているのだ。


合格です、と言われてるものの、ヤバイ・・・と思った私は偉い人達に訴えようとした。


「あ、あの、その、き、キムタクというのは、あの・・・」


すると学長さんが。


「ああ、これですね、ササキくんから聞いてますから。大丈夫ですよ(笑)。」


(ホッ、よかった・・・)←じゃないよ


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さて、なぜササキくんはそんな一言を書くに至ったのか。

言い訳させてもらおう。


私の下の名前は、よく間違って読まれることが多いので、

しょっぱなの自己紹介の際には必ず「~と書いて(名)と読みます」と言っている。


で、授業が終わると、講師と生徒は二人で管理課に赴き、

何を学んだか、次回の課題は何かを2分間で報告するシステムになっているのだが、ここで、

「新しい先生、どうだった?」

と管理課で最も恐れられているNさん(女性)に笑顔で尋ねられたササキくんは


「バッチリだったよ!ね、(名)ちゃん!」と答えたのだ。


別にこれは塾に限ったことじゃないが、無駄な馴れ合いを排除し緊張感を保つ意味でも、

「(姓)先生」と呼ばせるよう徹底してくれ、と言われている私、

そんなことを大声で言われてあせるあせる。



パニクった私は「Nさんにタメ口きくんじゃない」と注意すべきことも忘れ、



「『(名)ちゃん』?『(姓)先生』、でしょ?」


すると、ササキくん、

「え~?なんで~?(名)ちゃんって呼んじゃダメなのかよ~?」←ハッキリいって私はこういう子供が大好きだ(笑)


「当たり前でしょ!『(名)ちゃん』、なんて、キムタクにも呼ばせたこと無いのに!」


すると、ササキくんはおろか、Nさんまで笑ってる~(←怖いらしい)。


「キムタクぅ?(名)ちゃん、←直ってないし キムタク知ってんのか~?(笑)」



「知らない。キムタクは私が生きてることすら知らない。

いいからほれ!早くNさんにスタンプ頂いて!挨拶して!」←動揺の余り、口調大マジ&早口


と精一杯威厳を保とうと試みた。


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長くなったけど、これが前述の


ヘタな字の(失礼)


「キムタク超ウケた」


になるのだ。



しかし・・・小学生というのは実は一番難しい相手らしく、ササキくんが◎をつけてくれたことで私の評価がだいぶ上がったのは疑いようのない事実だ。


ありがとう、ササキ!←呼び捨て?


そして、ありがとう、キムタク!←引き合いに出すな


で、帰り際に、偉い方に言われた。


「(姓)先生には、今後は当塾の経営・企画にも携わって頂きますので、

朝一出勤がしばらく続きますよ!」


1)(塾って普通午後からなんじゃ・・・)

2)(経営・・・?「キムタク」をダシにしてウケ狙ったけど大丈夫?)


などと、ペーペーの身で言えるはずも無いのであった。








私、無事新しい職場に通い始め、ただいまどっぷり研修+実務の繰り返しの毎日でございます。


早くもグロッギーですが、それは仕事じゃなく気候のせい(ザ・言い訳)。


一日のうちの業務内容で時給が激しく変動する、それでもバタバタする日常に安堵感というか生きがいを感じております。




さて、私のこれまた不規則な時間帯に働く(100%外国資本の会社なので、外国にある本社の時間で仕事するのです)蜂蜜が、


「無事に決まったし、これで軌道に乗ってから休みでも取れるようになったら(←果てしなく遠い先)

何でも好きなことしていい!好きな所行って二人でやりたいことやろうよ!

俺が全部持つ!何がしたい?」と


珍しくハイテンションで提案してくれたので、私は寸分の迷いもなく


「スカイダイビング!!!!」と答えた。



固まったような笑顔で何も言わないまま数回うなずいたので、うすうす(おかしい)とは思ったが。


ま、気にせず私は風呂に入った。


交替で蜂蜜がシャワー浴びている間に確認したら、グーグルの検索履歴に。




<スカイダイビング 保険>


<スカイダイビング 保険 適用>


<スカイダイビング 保険 事故>


<スカイダイビング 保険 死亡>。



自分のノートPCを常に携えているくせに、私のPCで検索するあたり。


作為的なものを感じる。←じゃなくて、汲み取ってやれよ


わかったわかった、いいよ、スカイダイビング以外のもの考えるよ。









今日はこれを書いて、仕事へ向かいます。



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3月11日の震災において、私の親戚の家は津波に飲まれました。


生存した親戚は、今でも避難所生活をしています。


荷物を送るのに、元の今は無い家の住所を書きました。最寄営業所止め、として。


そうしたら。


中2日で、避難先の避難所を探してくださり、無事、本人に届けてくださいました。


どのようにして、お調べくださり、運んでくださったのか、わからない。


本当に、本当にありがとうございました。


このご恩は、決して忘れません。




ヤマト運輸さんでは、宅急便1個につき10円の寄付をする、という取り組みを進めておられます。

これまでの総額、取り組みについて詳細をリリースされました。


「宅急便ひとつに、希望をひとつ入れて。」  (ヤマトホールディングス株式会社HPより)


「宅急便ひとつに、希望をひとつ入れて。」TVCM  (同上) ※視聴にはWindows Media Playerが必要です









私は、知ったかぶりだ。←これで済むとでも?


たいして知らないことを「うん」とか自信満々に答えることがある。


ダメですよ。


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最近のもののみピックアップすると。


・『GOLD』で散々可愛い!!!と言いまくり、一年近く経つのに、

 つい先日お友達・mちゃんに教えてもらうまで

 

 武井咲ちゃんのことを(たけいさき)ちゃんだ

 

 と信じていた。


 正)たけい「えみ」さん。




・私は方向音痴じゃないよ♪と言いながら、

 

 「野沢通りのサンクスね!」と実際には「明薬通りのローソン」に案内した(mちゃんを)。




・結婚式の余興に「少女時代を踊ったら?」と薦めてくれたmちゃん(←基本mちゃんに迷惑かけすぎ)に


 「え~、お尻振るのはできない~」と自信満々に答えた。

 

 ↑同時に2点誤り。


 正)

  1) お尻は少女時代じゃなくてKARA

  2) 「お尻振るの」ではなく「ヒップダンス」




・「永山絢斗くん好み♪」と話していた時、えらそうに


 「でも絢斗くんってさ、口元が瑛太くんに似てない?」


 と言い放った。

 

 正) 永山絢斗さんは瑛太さんの実弟です


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ヒドイ・・・われながら。


そしてファンの皆様、申し訳ありません。



知らないことは「知らない」と言おうね、自分。←自分宛だと口調が甘い









私は、様々なことで、勝手に思い悩んでいた。


私は、自分が嫌で嫌で、でも打席に立てば10割の打率を残したいといつも無謀な目標を立てる。それを無謀とはまったく思わずに、だ。


それで、10割が打てないと猛烈に落ち込む。なんという傲慢。


人にはほめられたい。


すごいね、とかそう言われたい。その傾向が物凄く強い。


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私が、自分自身に対して「ケッ」と思うとき、それでもその人達は私の傍にいてくれた。今も居てくれる。


私が、心が沈んでるから会えない、とか言って、ずっとずっと直接話すことが出来なくても、私を決して見捨てないでいてくれた。心を、ずっとずっと支えてくれた。


その人達が、思わせてくれたのだ。


私のようなものでも、生きていていいのだ、と。


私には、できることがあるのだ、と。


事後報告になって、「会社には行っていません。」と言ったとき、ただ黙って「うん」と言ってくれた。


「第三次試験まで受かりました。」と言ったとき、「ね、それはあなたの力だよ。ちゃんと、できるんだよ。」と言ってくれた。




「今度、新しい仕事に就く。夜は全て埋まってしまうけど・・・」と言ったとき「向いていると思う」と言ってくれた。


汚いことを沢山書いたブログでも、「応援している」とメッセージをくれた。



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自分のことしか考えてこなかった。


自分ばっかりだった。


私は、自分の人生にお二人が居てくださることを、感謝する。


その意味と、その大切さを、ここでこうして言葉にする以上に考える。


常に心にとめておく。


思い出すとき、それを知るとき、私は「自分なんてくだらない」などとは思わないはずだ。


だってそうだろう。


でなきゃ、なぜあのすばらしい方達が、私を支えてくださるのだ。


ありがとう。


前を向いて。


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その方々は、私にとって、全ての港が明かりを消して黙り込んだとき、私を照らしてくれたたった一筋の光だった。


前を向いて。


お二人に胸を張ってお目にかかって。


笑顔で。


幸せです、とお伝えしたいから。


前を向いて。


生きていくのだ。



自分の人生を、探して生きます。


お二人に、限りないお幸せを。


心から祈る。







もう一度昨日の自分の書いたことを読み返してみて、考えた。


そして、母と父と電話で話したのだけれど、これまでに、恐らくこれまでに話してきたいつの日よりも、心が軽く二人と話せた。


結局そういうことだったのだろう。




自分の身勝手さや甘えを思えば、本当にキリが無い。


例えば、ビービー泣いてる子供の浅知恵とは違って、思春期真っ只中だった長兄は何もかも知っていて、私の数百倍、数千倍苦しかっただろう、とか。


自分だって苦しいのに、目の前で泣き叫ぶ妹に対して「大丈夫だよ」と慰め、励まさねばならなかった。


今、自分が39歳になって高いところから物を言うが、何てかわいそうな12歳の私の兄。


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わがままついでに言うことだし、私のお友達、mちゃん、gちゃん、ショーコ、真美ちゃん、そして蜂蜜は、私のこれまでの言動から本当は何もかも見通していて、でも私が「お母さんは何も悪くないのよ、お母さんは私達のために自分を犠牲にして生きてきたんだから」と言い続けたから、私には直接「あなたのお母さんにも問題があったのよ」とまでは言わないまでも、私の心の奥底にはいつも何かがあった、とご存知だったに違いない。



気づいていなかったのは、気づいていても向き合おうとしなかったのは私だけだったのだ。


お父さんがお母さんを泣かせたから。


お兄ちゃんが学校で悪いことをいっぱいしてお母さんを泣かせたから。


私は絶対にお母さんを泣かせない。泣かせちゃいけない。


いつも、お母さんの助けになれるよう、いい子でいて、心配をかけちゃいけない。


だから、


お母さんはいつでも私を捨てていけるんだ、と心のどこかで思っても、そのことに対して文句は言っちゃいけないんだ、と。


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ただ、もう、親に対して何もかもいい子で居ることに疲れたのだ。


39歳になるまで、この親に対する感情に気づかないなんてね。


昨日書いた「向き合って対処する」ってのは。


強い言葉を使うと


私が死んだ時、


「あの人は自分のことしか考えていなかった。


自分だけが『不幸なかわいそうな子』と思い込んで、人の痛みを分かろうとしなかった。


常に自分、自分、で、自分が人にどれだけ心配をかけているか、考えることもない利己的な人間だった。


家族の苦しみを理解しなかった。


自分のやりたいことだけをやって生きた。」


と言われることを覚悟して、それを怖がらずに、生きること。


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私は、あれだけ尊敬する兄に対しても(アンタのほうがお母さんを泣かせたじゃないの)と思った。


お父さんにも(お前のしたことは許せない)と思ってきた。


私だって、それよりもっともっともっとひどいことをしてきているのにね。


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でも本当に、本当に、もう疲れたの。


私は本当に、本当に、あの怖い夜が嫌だったの。


「完璧な親なんて居ない、と頭で理解することと、自分が子供の頃苦しかったことを我慢しなきゃ、耐えなきゃと思うことはまったく別のことだよ。無理して言い聞かせることはない。辛かったんだろ。」


と蜂蜜は言った。


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明日から、新しい仕事が始まる。


私の中に流れる才能なのだと信じよう。これを、親から貰ったありがたい力なのだと、感謝して生きよう。


そして、言う。自分にも、誓う。


決して無駄な足かせを自分にはめるのじゃなくてね、自分の人生のために。



お父さん、私はあなたを超えてみせる。


この仕事において、必ずあなたより優れた存在になってみせる。


見てなさい。


私は、絶対に超えてみせる。


その時、初めて、お父さんとお母さんに対峙してみせる。


感謝してもし切れない両親に孝行を尽くさず、そのことで一生後悔を背負うとしても。


私は絶対に、二人に。


自分のために生きています、と言ってみせる。


胸を張って。


「私を産んで、育ててくださってありがとう」と。


心から、言ってみせる。











※お読みになって気分が軽くなることは一切書いていないのです。

不愉快になられる内容と推察します。ご高覧はご自分の判断でお願い申し上げます※


見つめなおさなきゃいけない過去はいくらでもある。


私には、理想的な両親がいた。今もいる。


二人とも、戦後をくぐって、都内に一戸建てを建てて、子供を立派に育て上げた。

その苦労と功績は、私などには計り知れない。


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小学校に入るか入らないかの子供の頃、毎日、毎日、いつも寝る前に聞くのは、階下で怒鳴りあう両親の声だった。それは何年も何年も何年も続いた。


私は毎日、寝る前に、同じ部屋に三人で寝ていた兄達に言っていた。


「お兄ちゃん、どうしよう。止めて。仲直りして、って言って。」


私は、本当の気持ちは言えなかった。言葉にしたら、それが現実になってしまうと思って、怖かったから。


(明日の朝起きたら、お父さんかお母さんのどちらかは必ず死んでる。絶対どっちかがどっちかを刺し殺してる。だってあんなに怒鳴りあってるから)


お兄ちゃん達は、毎晩泣く私にずっと言い続けた。

「大丈夫だよ、&%$ちゃん。お父さんもお母さんも、本当にけんかしてるんじゃないから。&%$ちゃんには僕達が居るから、大丈夫だよ」と。


だから、学生の頃周りの友達に「仲が良すぎる」とどんなにからかわれようと、私にとって二人の兄は私を守ってくれる「絶対のヒーロー」だったのだ。


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母はよく、

「今から少し出かけてくるけど、必ず帰ってくるから。お母さんは気分が悪いの。」

とよく自転車で出かけて行った。だから、その後は母が買い物に行くにでも、「行かないで」と泣きながら訴えたし、私は母の自転車を追いかけた。


単なる夕食の買い物で、必ず帰ってくるのにね。


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仕事を長く休んだことで、父親から「お母さんを泣かすな」と言われたが、私は恥ずかしながら、母を泣かせたことを反省する前に(お前の方がお母さんを泣かせてきただろうよ)と思った。


私は、そして、気づいたのだ。


私は、外に女を作り、母や子供達の私たちを気にかけることもなく、勝手に生きてきた父を恨んでいるだけではなかった。


母のことも。


どんなことがあっても守らねばならない、と思っている母のことも。


私をいつでも置いて出て行くんだろうな、と心のどこかで思っていた母のことも。


きっと心のどこかで、(どうしてなの)と思っていたのだ。


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私が大好きな大好きな人と一緒に寝たのは、19歳の時だった。私の世代から言うと、それはとても「遅咲き」なのだけれど、私は大好きな人で、さらに一生を一緒に過ごしたいと思っていた人だったので、悔いはなかったし、悔いどころか、何よりも幸せな時間だった。


でも彼には言ったことがある。


「私がまともな親になれるなんてことはないから、結婚はしない」


と。


同じ親に育てられた長兄が、すばらしい父親になっていることを見ると、これは私の甘えと思い込みなんだと思う。


やろうと思えば、本当は出来るんだと思う。


自分が親にされて嫌なことを、子供にはしなければいいのだ、と。


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私は、初めて「幸せに寝た」のは19歳、と書いたが、


人生で初めて下着に手を入れられたのは、6歳のとき、法事で会った坊さんに「こんなにおとなしくて躾のいい子は見たことが無い」と言われ、膝に乗せられた時だった。


次は、7歳の時、新しい水着を着た時に父の同僚である高校教師に胸を触られた。


10歳の時、初めて会った母方のいとこに、スカートの中に手を入れられた。


私の「そういうことをされた」歴史は、決して34歳の時の上司からの強制わいせつが初めてじゃなかったのだ。


それで私は「挫折を知らなくて苦労をしたこともない」と言われても。


もちろん、もっともっと、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わった人がいることも分かっている。


でも、私も苦しかったのだ。


不義を働かず、誠実で、私を守ってくれた男の人は、私には兄二人しか、いなかったのだ。


いるだけいいだろ、といわれればその通りだ。


でも私は、苦しかったのだ。


お父さんの同僚だから、お父さんに言えるはずも無い。


お母さん方のいとこだから、お母さんに言えるはずも無い。


---

それでも、本当は私よりずっとずっとずっと苦しかった親に、私はこの30年間、本当は言いたかったのだ。


ずっとずっと、ずっと言いたかったのだ。


気づいたのは、ここ数日だけど。




私に、返してよ。


お母さんが買い物に行く時も安心して行って来て、って言える日を返してよ。


お兄ちゃん達に泣きながら「助けて」って言ってた毎晩を返してよ。


あなた方夫婦も死ぬほどの苦しさだったろうけど、毎日毎日不安だったあの日を返してよ。


あの頃の私が、不安なくぐっすり眠れる日を、たった一日でもいいから、返してよ。


---

完璧な人間なんて居ない。


完璧な親なんて居ない。


でも。


私はきっと、いや、本当に。


恨んでいたんだ。


本当は、恨んでいたんだ。


言えないけど。


決して二人には言えないけど。


私はあなた方二人とも。


恨んでいたんだ。


だから、私は。


それを受け止めて、自分のものとして生きていく。


それができて初めて、私は私の為の人生を生きられるから。


そうでなければ、私の人生が意味の無いものになるから。


自分の人生を意味のあるものにすること。


それは、私が私自身に叶えてあげなければいけない、義務なんだ。














今日、フジテレビ系で『オールスター芸能人どっきり王座決定戦スペシャル』 が放送された。


大賞は、スリムクラブのお二人だった。


ご覧になった方はご存知だが、


---ここからの内容はドッキリです。事実と混同しないでください---


内間さんのご家族のあることが原因で、スリムクラブのお二人が窮地に追い込まれ、所属事務所として、真栄田さんに

・内間さんのみを解雇とするか

・スリムクラブ二人が活動休止か

の選択を迫るもの。



---ここまで---


真栄田さんは、きっぱりと仰った。


「活動休止で」と。


内間さんを、切り捨てることは、まったく選択肢にない、断固とした態度だった。



そもそも、内間さんが、真栄田さんのピンの仕事も増えて、自分が置いていかれるのでは、重荷になっているのでは、という不安があってのこの企画。


でも、内間さんの居ない席で、真栄田さんは「内間さんあっての今の自分」とM-1グランプリの本番直前のことを話していた。




真栄田さんが上記のようにきっぱり言った瞬間、そしてその言葉にドッキリばらしの段取りも忘れて思わず即座に席を立って真栄田さんのところへ向かおうとした内間さんを見たとき、涙が出た。


---


というのは、私は、私にとって内間さんにとっての真栄田さんと同じことを私に言い続け、し続けてくれている人と一緒に、今日、その画面を見ていたから。



自分が、力なく、情けなく、彼女にふさわしいのかと思う自分の気持ち。


どんなに窮地に陥っても、どんなに甘えた泣き言を言う私にも、手を差し伸べてくれる、叱咤激励してくれる人。



今日も、彼女は言ってくれた。



今までの時間は、無駄じゃない。




そうだ、20年前の私は19歳。


一番「そんなもん絶対なってやるもんか」「絶対アイツにどや顔させてやるものか」と思っていた時。


単位に余裕もあるし、資格取れますよ、と教務課の方にアドバイスされた時、21歳の私は言ったのだ。


「そんなもの、いりませんし、なりたくもありません」。



それが一番やりたいことだったのに。


それを、心のどこかで私はずっと知っていたのに。


でも、それに気づき行動に移すまでの約20年間を、


「無駄じゃない」と。


「今だからこそ出来るんだ」と。


彼女は言ってくれた。




彼女へ。


昨年の大河ドラマ『龍馬伝』オリジナルサウンドトラックから、


『海へ』。












これは、このカテゴリで書く。



人のせいにし続けて、心の病、とか言い訳して。


ずっと仕事にも行かずに、自分のしたいことで就職活動をしました。


これからは、もしこれが決まれば。


完全な夜型、平日午後~夜と土曜の終日、は仕事になるけど。


行動も、楽しみも、いろいろ制限がかかるけど。たぶん、軌道に乗るまでコンサートにもライブに行けないけど。


これが、私が2006年の、いや本当はもっと前から自分が本当に、本当にやりたいことでした。


物凄く自分勝手に。


自分のやりたいことを、


40手前にして始めてみます。


いつか必ず。


私はこの薬なしで眠れるようになってみせる。


大好きなターキーを飲んでみせる。



ずっとずっとやりたかった。


それを、父親のせいにして、「絶対なってなるものか」と自己暗示をかけてた。


でも、やりたかった。


初めて、やってみます。


そして、50歳になっても。いくつになっても。


必ず、必ず私は彼の居る町に戻ります。


それを「逃げ」にしないために。


これから10年を精一杯歩く。