戦後の演劇界を代表する劇作家、演出家で作家のつかこうへい(本名金峰雄)さんが十日午前十時五十五分、肺がんのため千葉県鴨川市の病院で死去した。六十二歳。


僕は大学時代、演劇研究会に属し、その魅力に日々取り込まれて没頭していた。

学生演劇をやるものにとって、あの頃の「つかこうへい」は必ず取り組む作品であった。

舞台装置がほとんど要らないのが貧乏学生には扱いやすかったこともあるが、なによりもその熱情が魅力だった。

出版された台本もト書きは少なく、台詞もその解釈をめぐって激論になったりもした。

それは、彼が演出をそのときの役者や空間で作っていったからで、僕らも稽古の間何度も試行錯誤を繰り返したのを覚えている。

それが彼の作品の更なる魅力でもあったのだ。

中でも「熱海殺人事件」は何度も取り上げるほどファンが多かった。

役者もあの台詞を言いたいがために練習する。

それは僕ら若者の代弁者の台詞を叫ぶように、表現していたのかもしれない。

彼の作品群には全共闘を題材にしたものや社会的弱者に光を当てたものも多いが、イデオロギーを内包したものではなかった。

寧ろ人間の生き様や人生の悲哀や尊厳をベースに大衆演劇を披露し続けたと思う。

彼はのちに在日韓国人二世としての思いをつづった「娘に語る祖国」シリーズを発表するが、従軍慰安婦のことについても非常に中立的見解を述べている。

このことで逆に在日や韓国からも非難を受けたが、そのことさえも知らずに、ネトウヨが「在日」作家が死んだと侮蔑的に書き込むのはどうかと思う。

その中には今日まで彼が「在日」であることさえ知らなかったものもいるのだ。


彼はアイデンテティに悩んでいたと思うが、同時に深く考えていたと思う。

だから、弱者の目線で、単純な平和な生活を尊ぶ人々を、公正な社会批判としての表現し、現代風の泣き笑い庶民派演劇を作り出してきたのだと思う。

誰もそこには民族問題や歴史問題を感じなかったはずだ。


先ほどの「娘に語る祖国」の中にこんな文章がある。

「人間の業というか、こういう難しい問題は、自分の娘に語るようなやさしい口調で、一つひとつ説いていかなければ伝えられない。人は、人を恨むために生まれてきたのではない。歴史は優しい穏やかな目で見るべきではないか」

名前の由来に「いつか公平に」とか学生運動家から取ったとか諸説あるが、字の読めないお母さんのためにという部分はあたってるのではないだろうか。

彼は演出の時には厳しかったと言われるが、とても人に対して気を配る事のできたひとだったと思う。

早すぎる彼の死を惜しみつつ、合掌。


今回の参議院選挙の結果は、空き菅民主党の惨敗、自民党のたなぼた勝ち、詐欺集団のみんなの党の火事場泥棒的勝利に終わった。

残念な落選も、不幸な当選もあったが、大筋では予想された結果である。

マスゴミが望んでるような結果であったことが、国民の多くがまだ「選挙」や「政治」に無関心で未成熟だということもわかった。

これを受けての菅総理の記者会見は、ひどいものだった。訳のわからない言い訳を繰り返し、民意を尊重せず、責任もとらず、「新たなスタートライン」などとのたまわったのである。

マスゴミも深く責任追及しないのは、官僚言いなりの菅に降りてもらっては困るからだ。


鳩山総理辞任、小沢幹事長辞任を受けて菅が新総理になって、周りを反小沢で固めて、小沢氏に「静かにしていてくれ」と言って、マスゴミの捏造支持率の高いことを真に受け、官僚の言いなりに消費税の増税を言い出した。

その間、郵政改革法案を通さず、国民新党をないがしろにし、枝野はマニフェストの死守を謳う小沢氏を大衆迎合などと批判するお馬鹿ぶりをみせたのである。

その結果の惨敗は執行部もろとも退くのが本筋である。

小沢氏の2人擁立の掘り起こしで比例票は民主党は第1党を堅持したのである。

1人区の惨敗は執行部の責任以外考えられないのである。


しかし、このことは小沢氏を待望する支持者にとっては、投票前から想定していたことでもある。

体の中の虫をまず退治しなければいけなかった今回の選挙は、難しい投票行動になったのである。

実際投票をどのようにするか直前まで迷った支持者も多かったのである。

官僚に操作される菅内閣を信任する結果も困るし、小沢派の議員の落選も困るからだったのである。

国を憂う支持者は、一部は社民党や国民新党への投票行動になったし、共産党に流れたものもある。

素直に民主党に投票できなかった人たちは、1年前のマニフェスト通りの改革を取り戻したかったからである。

こういった支持層を裏切った菅執行部の罪は重い。

他の党が議席を伸ばし、参議院は過半数を取れなくなって、ねじれ国会になった。

これではますます、官僚の思惑通りにことが進み、国民はまた逆戻りしなければならなくなった。

しかし遠回りを強いられたが、反従米の同士が結束して民主党を立て直す流れになれば、通過点であったと納得しよう。

小沢氏がこの後どのように表舞台に立てるか、それを支えることが重大になってくる。

国民は誰が本当の敵なのかを認識して欲しい。

この結果は誰が引き起こしたのか、半分は国民自身の責任なのだから。




昨日、岩上安身関西サポーター懇親会が、大阪なんばで開催された。

これは前回のトークカフェの関西の盛り上がりの熱がさめないうちに、その団結力を確認する意味においてなされたことである。

勿論岩上氏の意向もあるのが、それよりも参加した人たちの互いの情報交換や意見の合う仲間との交流する楽しさが開催に至ったと思う。

実際参加して、顔見知りになったもの同士の会話は弾んだし、楽しい時間が持てた。

前回よりさらにお互いの意志の疎通は出来たと思う。

ただ、問題点もあることがわかった。

まず、今回は大阪主導で行われたが、イベントを主に考えサポーターの広がりを画策する東京との考えの温度差である。

僕らはあくまでもツイッター上で、あるジャーナリストの意見に賛同し、ある意味において支えても良いと考えている個人の集まりである。

そこには外からの変な力が加わって欲しくないし、何のビジネスも存在してはならないのである。

ある思想の共鳴で繋がっている会がもし拡大するとしたら、それはあくまでも自然現象的に行われなければならない。

意図的にイベンターの作り出す方向性に賛同するわけが根本的にないのである。

自主的にフォローするしないを決めて、シャットダウンも可能なツイッターの特性は、開放的な部分だけをリヤルに利用することはできない。

リアルが変な方向性や変なバイアスがかかったら、すぐに逃げ出すのは当たり前のことなのだ。

堅い結束も在る分、一人のつまらない行動で一気に熱はさめてしまうのである。

それは個々の思想や意見が変わったのではなく、その活動に参加する意味の喪失を感じるからである。

その場所ではなくとも自分の表現する場所は他にも存在する、と考えるのが当たり前だからである。

その集合体は、会社でもなく組織でもなく、上下関係もなにもないものだから、居心地の悪さを感じてまでも参加する意味はない。

数人で明け方近くまで討論したが、その結果どうなっていくかは、少し見守っていかないといけない。

ここで僕がある偏った意見を述べることは控えたい。

今回のブログは関係者以外はわかりにくかったかもしれないが、ネット上とリアルの間にある集団の差という部分で考えていただければと思う。

理想と現実というものの考え方に近いのかもしれない。

偶像を一つ奉り、その下に信者を形成していく宗教の集団も、統一や拡大と対峙する個の思念と参加する行動との間にはずいぶんと温度差があるものだと思う。

この偶像を政治家などに置き換えて、最終目的を明確にしていけば、それはまた別の結社のような思想集団になっていくのだろう。

それがいいのか悪いのかは別の問題だ。

最終目的を設定されたほうが参加しやすい人たちもいるからである。

僕らのネット上の思いをどうリアルに反映していくのかは、このネットの成熟と個人の参加の仕方にかかってくるのだろう。

個人をどこまで明かして参加するかというプライバシーの問題も含めて、考えていかなければならないだろう。