彼女が右手に提げるクリアケースの中に何が入っているのか、僕は知っている。
 大学の生協で売っているのと同じ、とてもシンプルなクリアケース。彼女の友達は、コンビニで買ったファッション誌を、ブランドもののカバンの中に入れている。だけど彼女は、喧騒から少し離れた裏通りの小さな喫茶店で、そっとクリアケースの中から本のエンタメ雑誌を取り出し、ゆっくりとカプチーノを口に含む。僕はそれをただ、彼女の席の2つ隣りの2人掛けテーブル席に座って、レポートを書く合間に眺めている。

 彼女が誰なのかは知らない。僕の通う私立大学の近くで見掛けることと雰囲気から、おそらく同じ大学に通っているのだろうと思っているだけだ。
 実際は違うのかもしれない。この辺りからバスで2つ東に行ったところにある女子大の学生かもしれないし、大学と反対の方向にある地下鉄の4番出口を出たところにある、予備校の生徒かもしれない。
 でもそんなことは関係ない。
 …いや、本当は関係ない、なんて言い切れない。この僕の気持ちがもっと強くなったら、関係ないとは言えなくなるだろう。同じ大学に通っていて欲しい、と今もうすでに僕は、心の片隅で願っているのだと思う。

 ただ今は、彼女をぼんやりと眺めることで満たされているだけ。

何食わぬ顔をして生きたいたいんだ。
揺らさないで。お願い。
まっすぐ歩きながら、斜に構えてやり過ごしたいんだ。


それが格好良いってことでしょ?
それが「らしい」生き方ってことでしょ?

だから視界に入って来ないで。


嘘。


本当は探してる。
何処かで出くわさないか。


ほんの少しでも似た背中を見掛けたら、目が離せなくなる。
もし本当に本人だったら。


泣けて来る。

なんで?

わけなんて知らない。

そこに居ちゃう方が悪い。
探しちゃう方が悪い。
悪いと分かっていながらも、ジレンマ感じて嫌になる。


格好良い人間でありたいと思い続けてるのに。
そうでなきゃ惹きつけられないと思ってるのに。
どうして下唇を噛むしかできない?


涙で滲んで、そのまま消えちゃわないように。
いつだって願わずには居られないのは、なんで?

うまくなんて言う気もないけど。


でも不恰好なこともしたくはないなんて、ちょっとした見栄もあって。


やっぱ、何度か躊躇ったりするんだよ。


軽々しく口にしちゃいけない、なんて堅苦しい考えは持ってないよ。


でもほら、何か、感情ばっか先走って、言葉がついてこなくなるんだよ。


だからきっと不安にさせたんだろうな。


不安とまでは行かなくとも、曖昧さに疑問を抱いたりしたんじゃないかな。


ごめんね。


「言わなくてもわかる」なんて幻想だと思うよ。


まだそんな境地にまで達せていない、自分に問題があるのかも知れないけど。


うん、だから、言いたかったけど、言えなかった。


そしてちょっぴり、言わなくてもわかってくれてるんじゃないか、なんて、思ってた。


自分のこと棚に上げて、何言ってんだろうね、ほんと。


もっかい言っとくよ、ごめんね。


結局ここまできても、まだ尻込みしてる自分がいるんだけど。


ここまで大袈裟な前置きしといて、言いたいことはごくごくシンプルなんだけど。


あいしてるよ。


今、最高にあいしてるよ。


この気持ちが、最初で最後であるようにと、いつだって願ってるよ。


ねぇだから、君もそうであって欲しいななんて、図々しい願望を持ってるんだ。


でもそういう願望だって、十分に厚かましいよね。


やっぱり、ごめんね。


厚かましいぐらいに、あいしてるよ。





君を前にして、

もうすぐ空になるスターバックスのトールサイズのカップを見ながら、

今日こそはちゃんとこの想いを伝えられたらって思っているんだけど、

君の笑顔に全部心を持って行かれて、

あぁ、今日もうまく言えそうにないな、なんて弱気になって、

モカの苦さが混じった溜め息と一緒に、そっと、ごめんねってつぶやくのが精一杯だよ。

 俺は相変わらず耳にヘッドフォンをぶら下げたまま、前を歩く七瀬の背中を見ていた。皺ひとつないブレザー。毎日きちんとアイロンをかけてるんだろうか。生活感なんてものを感じさせない七瀬が、毎晩自分の部屋でブレザーのアイロンがけをしているところを想像しようとしたが、うまくイメージがわかなかった。でも、俺と違って女だもんな。そういうとこ、結構几帳面だったりするもんな。そんなことを思っていた。


 と、突然七瀬が振り返る。

「今何考えてた?」

「…アイロンがけ」

俺の回答に、七瀬は眉をひそめた。

「『何言われるんだろう?』とか、思わないわけ?」

「何が?」

「菅野って、そういうとこあるよね」

「どういうこと?」

「言葉通り」

 七瀬が何を言わんとしているのかは見当もつかない。でも、それこそ七瀬って「そういうとこ」があると思う。


 商店街を抜けて左に曲がってしばらく行くと、小さな川がある。その川の手前にある三階建てのアパートが男子寮で、橋を渡って少し行ったところには女子寮がある。七瀬は橋の欄干にもたれかかって、残っていたシェイクを音を立てて飲み干した。

 空になった容器を右手で軽く振りながら、七瀬は独り言のように俺に話し掛けた。

「なんで部活サボったの?」

「…別に」

「推薦で入ってるのに、サボっちゃダメじゃん」

「そりゃそうだけど」

「下手すると、寮も追い出されるんじゃないの?」

「まぁな」

七瀬が何を言いたいのかは分からない。部活をサボることの意味なんて、俺が一番よく分かってるということを、七瀬だって知ってるはずだ。


 そんな俺の考えを聞き入れたかのように、七瀬は、別に説教するつもりなんてなくて、と前置きした。

「本当はちょっとだけ羨ましい」

「どこが?」

「型破りなとこ」

「それを言うなら、七瀬も十分そうだろ」

「そうだね、うん、そうだと思うよ」

右手に持っていた容器を、足元に置きながら、でもちょっと違うかな、と七瀬は言う。

「寮を追い出されるかも知れないと分かってて、そういうことはできないもの」

俺は七瀬の足元の容器を見ながら、返す言葉を選ぶ。

「別に、でも、それありきってわけじゃないよ」

「うん」

「俺だって、そこまで確信犯的にやってるわけじゃないよ」

「うん」

「…そういうこともやってなきゃ、息が詰まりそうなんだよ」

 秋の風に、七瀬の肩まで伸びた髪が揺れる。

「相変わらず不毛だね、こんな会話」

いつものように、七瀬は諦めたような呆れたような口調で、話を終わらせた。


 しばらく何も言わず、俺と七瀬は欄干にもたれかかって、空を見上げていた。もやもやしたものがいつだって心の中にあるけれど、それを昇華させるすべを知らない俺たちは、こんな不毛な会話をすることでしか、互いを慰めることもできない。かばんよりも何よりも重い自分。今を楽しむしか能がない若者と形容されるけれど、今は満足に呼吸することすらできやしない。俺だって、七瀬だって。


 七瀬が足元に置いていた空の容器を拾い上げ、帰るわ、と呟いた。

「あぁ、じゃあな。また…学校で」

俺は相槌を打ち、七瀬が橋の向こうへ歩き出すのを見ていた。

 数歩進んだところで、七瀬は俺に向かって事もなげに言った。

「あたし、学校辞めるかも知れない」

「…なんで?」

「不毛なことを続けたって、何にも変われないじゃない?」

「辞めたら、変われるのか?」

そう言った俺に、七瀬はクスリと笑った。

「どうしようもないオトナみたいなこと言うね、菅野は」

 じゃあね、と七瀬は右手を挙げて、振り返ることなく去って行った。



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 世界は自分を中心に回っている。


86%カカオポリフェノールを含んだチョコレートを齧りながら、彼女は断言した。

こともなげに。


  そんなことない。


僕はすぐに否定する。


  少なくとも僕は、今世界で起きていること全てを知っているわけじゃない。

  今世界で起きている全ての「こと」を知らない以上、僕が世界の中心であるはずがない。


現に僕は、僕の目の前にある新聞の一面記事を飾る殺人事件について、何も知らなかった。

その記事の下にある、政治家の汚職について知ったのも、この新聞を読んでからだった。

それらは全て、どこか遠いどこかで起こった出来事。


  あなたは雨が降ったら、どう思う?


彼女は口に含んだチョコレートを舌で転がしながら、僕の目を見る。


僕は雨が降った場合を考える。


  嫌いじゃない。


僕の答えに彼女は頷いて、さらに質問をした。


  晴れたら、大好きなひとと一緒に出掛けるはずだった日に、もし雨が降ったら?


  それは嫌だ。


今度はすぐに答える。


  晴れたら、大嫌いな水泳の特訓をしなければならなかった日に、もし雨が降ったら?


  …水泳は大嫌いっていうわけじゃないけど、


と僕は前置きをし、咳払いをしてから答える。


  もし嫌いだったら、雨が降って良かったと思う。


チョコレートのアルミ箔を剥がしながら、彼女は重ねて質問をする。


  雨は嫌いじゃないのに?


質問の意味と彼女の考えを量りかねて、僕は黙った。


彼女は、剥がしたアルミ箔を右手で千切り、手の中でくしゃくしゃにした。


  同じものも、同じ出来事も、あなたはその時々によって違う受け止め方をする。


彼女は視線を自分の右手に注いだまま、言葉を続ける。


  それは、あなたが世界を判断しているということ。

  それはつまり、あなたはあなたの世界の中心にいるということ。


チョコレートが割れる音を聴きながら、僕は言葉を口にする。


  欺瞞だ。

  傲慢だ。


そんなに簡単に、世界を我がものに出来るなら、何も苦しむ必要なんてない。

僕がこれまで生きてきた20年にも満たない時間でさえも、こんなにも苦悩に満ちているのに。

僕よりほんの5年先に生まれたばかりの彼女は、何も苦しまなかったと言うのだろうか。


自分よりも優れた人間がいる。

自分よりも博識な人間がいる。

それなのに、この世界が自分のものだなんて、どうして言える?


  僕は、巨大な世界というパズルの中の、何十億分の1のピースでしかない。

  それが事実だ。


僕は、きつく締め付けられたように、細まった喉から声を絞り出す。

一呼吸置いて、彼女が言う。


  だけど何十億分の1のピースが1つでも欠ければ、その世界は完成しない。

  それもまた事実。


彼女の声は淀みがない。

チョコレートの苦さも、とろりとした触感も、何の影響も受けない。


  パズルという世界から見れば、あなたは1ピース。

  あなたから見れば、世界はあなたが見る何十億のピース。

  あなたが見ているからこそ、存在できる世界がある。


そして僕の身体の中に、じんわりと沁み渡る。


  あなたが感じる世界は、あなたにしか感じられない。

  あなたが見る世界は、あなたにしか見られない。

  だから、あなたのいる世界は、あなたでなければ存在させられない。


そう言ったときの、彼女の頬に落ちる睫毛の影の美しさは、僕にしか分からない。