好きだと言われたのは初めてだな、と頭の片隅で思った。

それ以外の頭は、フル稼働で現状を理解しようとしていた。


「…なので、付き合ってください」


そう言いながら、顔を真っ赤にして頭を下げる女の子。

クラスメイトというだけで、それ以上でもそれ以下でもない関係だと思っていた。

ついさっき、この中庭で呼び止められるまで。


昼休みの自主トレを終えたばかりで、まだ首筋には汗が残っている。

額に張り付いた前髪を左手で掻き分けながら、どう対応したものか考える。

こういう場合って、どういう風に言えば良いんだろう。


今、というか今まで彼女なんていたことはない。

それなりに興味はあるけど、好きだと思えるひとには出会っていない。

最近は、県大会を勝ち抜くことしか頭になかったから、正直に言うとそれ以外のことはどうでもいい。

…なんてこと、言っちゃ不味いよな。

それぐらいのこと、俺でも分かる。


「あの、返事は別に、今すぐ、じゃなくて良いから」


必死でそう言うと、足早に去って行く女の子。

中庭で、どうしたものか悩みながら、右手に持ったスポーツドリンクを一口含む俺。

太陽が眩しくて目を細める。

さっき思い付いたクラウチングスタートの改善点を、すっかり忘れていることに気付く。

地区予選通過のときから模索してたのになぁ、と溜め息を吐く。


断らなきゃいけないんだよなぁ。

また頭のどこか片隅で、冷静にそのことを考えている自分がいる。

どうしたものか。

スタートの件も、あの子の件も。


ああ、でも差し当たって一番の問題は、次の化学の授業に遅れそうってことだな。

 夜店で見掛けたプラスチックの半透明の小さな置物。部活の合宿先の土産物屋で見付けたスノードーム。いつだって、そういうものに目が行く。買うはずなんかないのに。自分自身に嘲りを覚えながら、あいつに声を掛ける。お前、彼女にこういうの買ってやったら良いんじゃないの?


 手をつないで幼稚園バスに乗ってた頃があった。隣の席が良いと言って2人して泣いたこともあった。いつだって一緒にいる、と言われていたし、そう言われて得意になってたのは自分だけなじゃかった。

 小学校、中学と進級するに従って、2人だけでいる時間はどんどん少なくなった。互いに気の合う仲間がいて、そのメンバーと遊ぶようになり、時々その仲間の輪の中に互いが入っている状態が多くなった。だけど、少なくとも俺にとって、彼女は他の誰とも違う、ちょっと特別な存在だった。彼女がそう思っていたかどうかは分からないけれど。

 ある日、俺は同級生の女子から告白された。そもそも告白されるということが予想外だったし、告白された相手からも全然そんな素振りを感じていなかっただけに、びっくりした。俺のことを好きだという、その理由は分からなかったけど、ふわふわした気分になって、ひとまず告白を受けることにした。

 他人から好きだと言われたことなんて初めてだ、と思ったとき、ふと彼女が脳裏に過ぎった。彼女は、俺の中では他人にカテゴライズされていなかった。じゃあどんな関係なのかと問われるとよく分からない。あくまでも「特別な」という形容動詞しかつけられない。

 俺に彼女ができたということを、誰が言ったかは分からないが、いつのまにかグループの仲間は知っていた。告白された女子とは互いに苗字に「さん」「くん」を付けて呼び合いながら、でも部活の都合のつく日は途中まで一緒に帰るようになった。最初は冷やかされることもあったが、そのうちそんなこともなくなった。ただ一緒に帰るだけで、手を握ったこともなかったせいかもしれないし、周りのやつらも彼氏や彼女ができて、他人のことなんてどうでもよくなっていたのかもしれない。


 2年の6月、雨が降っていたあの日。いつも通り、俺は告白された女子を駅の改札口まで見送って、自分の家の方向に足を向けた。その少し先を、彼女が歩いていた。一人じゃなかった。俺の親友が、彼女の横に立って歩いていた。彼女の水色の傘を、彼女が濡れないように、その代わり自分の左肩を雨に打たせながら、あいつは彼女の傘を持っていた。

 知らなかった。気付きもしなかった。相談も受けていなければ、報告も受けていない。でもそれは俺もそうだ。でも、いつのまにか皆知っていて、当たり前のことになっていた。だけどそのときの俺は冷静じゃなかった。なんで?と思うばかりで、2人の姿が郵便局の角を曲がって見えなくなってからも、まだ駅前の周辺地図案内板の前から動けずにいた。

 数日後、俺は親友を含む部活の仲間と一緒にゲームセンターにいた。ふとUFOキャッチャーの中のキャラクターぬいぐるみに目が行った。俺に告白した彼女ではなく、「彼女」が好きなキャラクターだ。親友が、UFOキャッチャーをやるのか?と訊いて来たとき、俺は何気なく、お前の彼女、あのキャラが好きなんだから取ってやれば良いのに、と言葉を返した。俺の言葉に、親友は一瞬きょとんとした顔をして、そうなの?と答えた。その返事を聞いて、俺の中に不思議な気持ちが芽生えた。「彼女」のことを、俺は彼氏であるこいつよりも知っているんだ、と。


 翌日から、彼女のカバンに、あいつが取ったぬいぐるみがぶら下がるようになった。それを見て、あいつは嬉しそうにしていたけれど、同時に俺も嬉しかった。「俺が教えてやった」という想いがあった。それ以来、俺はあいつに彼女の好きな色んなものを薦めた。それに嘘はないし、手が出せないような高価なものもない。あいつは俺に感謝こそすれ、俺がどんな想いで薦めているのかまでは探ろうとしなかった。恐らく彼女もまた、それが俺に薦められてあいつがプレゼントしているものだということに、気付いていなかっただろう。そして、俺にとってもそれで良かった。

 彼女は俺の知っているままでいて欲しかった。俺の知らないところで、俺から遠く離れた存在になってしまわないように、あいつを使ってコントロールしていたのだと思う。成長とともに外見も内面も変化はすれど、根本的なものは変わらないように。いつだって俺が一番彼女のことを理解しているように。それを無意識のうちに求めていた。


 3年への進級を控えた最後の期末テスト最終日、彼女と帰りが一緒になった。よく考えれば彼女と一緒に帰ることばかりか、2人で歩くこともなくなっていたことに気付いたが、そんなブランクは感じないぐらい、昔と変わらず彼女の隣りは居心地が良かった。付き合っている彼女との関係は順調だったが、余所余所しい空気が漂うこともあり、まだぎこちなさは抜けきっていなかった。そんな話をし、そっちはどう?と彼女に話を振った。彼女は少し考えたあと、それも含めて彼が好きだよ、と微笑みながら言った。自分のことを考えてくれるのが分かるから、それが多少望んでいるものと違っていても、その気持ちが嬉しいよ。そして、ゆっくり息を吐きながら呟いた。

 彼が、私にとって誰よりも特別なのと同じように、彼にとってもそうであって欲しいな。


 その言葉の意味が、じんわりと沁みて来る。誰よりも、この自分よりも、彼女にとってはあいつの方が特別なのだと、そう彼女は言った。あいつの方が。俺よりも。彼女のことを誰よりも理解している俺よりも。何も知らずに俺の言いなりになっているあいつの方が。なぜ。どうして。


―どうして、俺じゃないんだ?


 言葉には出来なかった。ただ悔しくて。羨ましくて。裏切られたようで。悲しくて。馬鹿みたいで。俺は帰宅するなり、ベッドに潜り込んでしゃくりを上げて泣いた。どうしてこんなに涙が出るのかは分からない。何に対して泣いているのかも分からない。ただ止まらない。嗚咽が部屋の外に漏れないよう、枕に突っ伏しながら、枕を涙でびしょびしょに濡らした。なんでだ。何がだ。どうしてだ。もう嫌だ。

 何もかも分からないまま、深夜まで泣いた。息をすると咽喉の奥で笛のような音がした。制服のシャツとパンツとネクタイはしわくちゃになっていた。泣き過ぎて頭が痛かった。顔が濡れていた。睫毛に涙がついているのか、視界はぼんやりとしていた。薄暗い部屋の中で、鏡を見なくても自分の酷い有様は手に取るように分かった。俺に分かることなんて、そんなもんなんだ。そしてきっと、と俺はまた込み上げて来る涙を我慢しながら、でも自分に言い聞かせるために呟いた。これが失恋というものなんだ。

 タクシーでお金を払おうとしたとき、メーターの横にあるデジタル時計が目に入った。気になったのは時刻ではなく、日付。


1月26日


 その日がいったい何の日だったか思い出そうとしながら、会計を済ませ、タクシーを降りる。小雨が降っていたので、バッグから折り畳み傘を取り出した。その瞬間に思い出した。彼の誕生日だったと。


 結局一緒に過ごしたのは、1回だけだったな。そう思って、傘を広げる手を止めた。


そんなに短かったっけ?


 髪が少しずつ濡れていく。そんなことよりも、記憶を手繰り寄せるのに必死になった。いつ出会って、どんなことがあって、あたしは彼に魅かれて、彼に想いを伝えて、そして…。


 タクシーの運転手が、助手席の窓を開けて、どうかしましたか?と声を掛けてくれた。その言葉で我に返り、運転手に向かって微笑みながら、大丈夫です、と答えた。そして傘を広げて、残り少しになった家までの道を歩き出した。


 彼との思い出がどんどん溢れてくる。


 初めて2人で出掛けたとき、彼がいつも車道の側に立っていてくれたこと。それに気付いたとき、大切にされてるんだと思えて、後から後から嬉しくなったっけ。


 花火大会に行ったときには浴衣を着て行った。彼はちょっと照れながら、でも浴衣を褒めてくれた。そういえば、あのときはいつもよりゆっくり歩いてた。人混みで押し潰されそうになりながら、しかも慣れない下駄で後ろを歩くあたしを見て、彼はそっと手を掴んでくれた。

 あの日彼が輪投げでとってくれた、パンダの貯金箱はどうしただろう。そうだ、彼が初めて家に来たとき、テレビの上に置いた貯金箱を見て、嬉しそうに笑ってくれたんだ。


 止めどなく溢れる思い出につられて、胸がいっぱいになった。

 期間にすれば2年弱。だけど、その間にいろんな思い出ができてしまった。ずっと一緒にいようと何度も囁きあった。いつか別れるときが来るなんて、想像だにしていなかった。ただひたすら毎日を2人にとって濃密なものにしようとしていた。


 マンションのエントランスキーの鍵を差し込む。数ヶ月前まで、彼がこの鍵を持っていた。キーケースに入らなくなるからとキーホルダーをつけないでいたけれど、あたしが合鍵につけたクローバーのキーホルダーはつけたままにしていた。そのキーホルダーが今、あたしの右手で揺れている。


 エレベーターに乗り、壁に背を預ける。すべては終わったことで、あたしは彼に別れを告げたんだ。そう言い聞かせる。未練があるとは言えない。でも未練がないとも言えないのかな、と思う。女は恋を上書き保存するというけれど、あたしはまだ上書きする恋に出会えていないだけなんだ。


 彼に対して許せないことがあったわけでもない。彼を嫌いになったわけでもない。ただ、彼への想いが以前より希薄で不安定なものになっていくのと同時に、彼との関係が惰性になっていくのが重なっただけなのだ。一度でも違和感を覚えてしまったら、それを完全に打ち消すまで、その違和感は残り続ける。そんな状態で、あたしは彼と一緒にいることができないと思ったのだ。その自分の判断を、誤っているとは思わない。


 エレベーターを降り、部屋のドアを開けて靴を脱ぐ。バッグをベッドの上に置き、コートをハンガーにかけ、テレビを点けた。テレビ番組をザッピングしながら、着替えをしてメイクを落とす。

 テレビの上にはもうパンダの貯金箱は置いていない。別れを切り出す前日に、洗面台の下、シャンプー類のストックの奥にしまいこんだ。彼に話をする前に、あの貯金箱を見たら言えなくなるかもしれないと思ったから。


 冷蔵庫から発泡酒の缶を取り出して、ベッドにもたれながらテレビを見る。再放送中のドラマの主人公が「他人の不幸が面白いから」とすねた口調で言っていた。

 そこまでは思わないけれど、今はまだ彼の幸せも願えないな、と思いながら、プルトップを開けた。

いつものように、駅前のコンビニに立ち寄る。

欲しいものは店の中に入ってから考える。

入り口の横に重ねてあるかごを左手にかけて、ふとコスメの秋冬新商品を手に取る。

まだ夏のつもりでいたけど、もう冬はすぐそこまで来てるんだ。

当たり前のことに、ようやく気付いた。


今年の3月から、もう半年が経っていた。

最後に一緒に見た映画が、この間CDショップの棚にDVDとなって並んでいた。

あの映画を見たときは、今の自分を想像できなかった。

だけど、と思う。

だけど別れるということは、もう十二分にお互いが分かっていた。

どちらから切り出すでもなく、何があったわけでもなく。

でもじんわりと、わたしたちの足元を浸し、映画を見た2週間後には呼吸ができなくなっていた。

静かに、確実にわたしたちは別れを予感していた。


そういえば、とコスメを棚に戻しながら気付いた。

付き合っていた3年間は、彼の誕生日が秋のはじまりだった。

だから気付かなかったのかもしれない。

そう思って、自分に苦笑した。

なんて単純なんだろう。


ティラミスとチョコ味のカロリーメイト、白桃カクテルを買ってコンビニを出る。

頬をかすめる風が冷たい。

薄手のカーディガンだけでは少し肌寒い。

街灯の下だけがぼんやりと明るい歩道を歩いた。


この前、彼からメールが届いた。

ただ食事でもしないか、というだけのシンプルなメールだったけど、返事はしなかった。

断る理由は別になかった。

だけど、すんなり行ってしまうには、まだ時間が足りていない。

だから返事をしなかった。

彼からは何もそれ以上の連絡がなかった。

こうやって、わたしは彼と距離を置くようにしてきた。

友達にそんな話をすると、未練があるんじゃないの?と言われる。

そうかもしれない。

そうまでして、彼と距離を置いてどうするの?

今日同僚に言われた言葉が、ふと蘇る。


ちかちかと点滅する青信号。

横断歩道の手前で立ち止まり、ため息をつきながら空を見上げる。

このままじゃだめだと思っただけで、そこから先は何も考えてなかった。

もし彼に彼女ができたら、わたしは後悔するのかもしれない。

彼との関係を引き摺っていたら、新しいことに踏み込めないかもしれない。

だから、一度ひとりになりたかった。


視線を下ろし、横断歩道と直角に交わる車道を見る。

信号が青から黄色に変わったところだった。

今のわたしも同じだ。

右手にぶら下げたコンビニの袋を握り直して、横断歩道の信号が青になるのを待った。

あ。今日はコンタクトレンズにしてるんだ。

 私と同じ英語のクラスを取っている彼は、ときどきメガネじゃなくコンタクトレンズをつけている。

 なんでなんだろ。メガネの方がステキなのに。

 彼のメタルフレームのメガネを思い出して、私はそっと、もったいない、と呟く。
 だけどそれを、彼に言うことはない。たぶん、これからも。

 喋ったことはほとんどない。彼は同じクラスに、特に親しいひとがいないみたいで、だいたいいつも講義5分前に教室に現れ、講義が終わるといつのまにか静かに退室している。
 名前は知っている。顔も知っている。だけど、話し掛ける機会もきっかけもない。そんな状態。

 それなのに、ついつい目が行くのは、やっぱり彼のことが気になるからなんだろうか?

 好きなのかな?―実はよくわからない。

 タイプとは違う。ただ気になる。自分の曖昧でふわふわした感情に、居心地が悪くなって、机の上、教科書のさらに上に広げた雑誌に、視線を落とした。