生きるために生きるなんて 嫌 。


だけど 何か のためにだって生きられない。


あたしは生きる。


日々睡眠をむさぼり、胃に食物を溜め込みながら。


泥水なんてかぶりたくはないけど、それぐらいの覚悟は持ってる。


それが 生きる ということ。


種の保存 だとか 主なる神の庇護 とか、そんなものは焼き払え。


突っ走って、ぶっ倒れて、這い上がって、血を流す。


嗚咽を殺して泣いたところで何も生まない。


泣き叫びながら、喉潰して叫んだ方がマシだ。


傷付かないで生きられる術なんて知らない。誰も。


だったら行くしかない。


あたしの道は あたしが歩いた跡にできる。

どこかで空がひらく音がする

遠い 遠い 空の向こう側にある世界に向かって


音の連なりがメロディになるように

一瞬ずつが生きるということ

今日がなければ明日はない

なんて単純で当たり前のこと


自分がいるから感じられる不愉快さを

いつか いとおしい と思えるだろうか


寒空の下で あたたかな家の中で

巡り合うべきときとひとを待つ

浴槽の中で膝を抱えて座る。

温かい湯気が当たって、顔が火照って行くのが分かる。

窓の外では、寒そうな音が響いている。

あたしは此処にいるから安心なのだと、そう何度も確認する。

嫌なことなんてなかった。

だからと言って、良いこともなかった。

何てことのない平凡な日常。

あたしが昨日お風呂で流した涙は、此処から流れて行った。

何処か遠いところへ流れ出て、それはいつか空に昇る。

あたしの悲しみも喜びも全て飲み込んだ塩水。

二度とあたしの前には現れることのない、あたしの体液。

その一粒の重さ。

あたしの生命より重い。

 長かった髪を、彼の嫌なショートに変えた。

 髪を切って、何も変わったことなんてない。だけどクラスメイトは何だかんだと囃し立てる。何かあったの?気分転換?そんな言葉に曖昧な笑顔を浮かべて応えていたら、誰かがふとこう言った。

「やっぱり、失恋したから?」


 失恋したら髪を切る、なんていうのは、一体誰が考えついた意味付けなんだろう。昔から髪には色んな意味が込められていたというのは知ってる。平安時代、髪の長さと黒さは美しさの象徴だった。ラプンツェルは、愛する男のために髪を伸ばし、幽閉されている塔から髪を垂らして、男がそれをつたって登って来るのを待った。だけどそれはそれ。今のあたしに、そんな深い意味合いなんて必要ない。


 クーラーの効いた教室の、窓際前から3列目。そこがあたしの席。目の前には、真っ白な半袖シャツをまとった男子の背中。斜め右側には、新しい公式を板書する先生。頬杖をついた左手の向こうには、夏のグラウンド。空は青く、薄い雲が浮かんでいる。雲に遮られていた太陽の光は、雲が流れるにつれて、その光の強さを変えていた。


 あたしの、少し長い前髪が光を反射する。きらきら。茶色がかった髪が金色になり、あたしは左手で前髪を軽く触った。それでも前よりもずいぶんと短くなったものだ、と今更ながらあたしは思う。少し俯いて、左手で、今度は髪全体を梳いてみた。髪は光を受けてきれいに光った。ああ、そうか。あたしはその光を見ながら、気付いた。あたしが髪を切ったのは。

「夏に誘われたから」


 夏休みになっていたけれど、あたしは学園祭の準備のために、何日も学校へ通っていた。学園祭で上演する劇の台本を見ながら、その日もあたしは学校へ向かうバスに乗っていた。バスの乗客は少なく、あたしは運転席の2つ後ろの席に座って、自分が劇で担当する音響について考えていた。風の効果音をフェードインさせることに決めたとき、バスは地下鉄のバスターミナルに停車した。


 そこで乗って来た乗客は3人。2人は仲の良さそうな老夫婦で、一番前の2人掛けの席にそっと腰を下ろしていた。そしてもう1人が彼であることを、あたしは一瞬で気付いていた。彼はあたしの視線に気付いていたようで、久し振りとだけ唇を動かし、あたしに向けて微笑んだ。あたしは右手を少し挙げて応え、彼はあたしの左側を通り過ぎて後ろの方の座席についた。


 あたしの学校のものとは違う、緑のギンガムチェックのネクタイが、運転席にあるバックミラーにチラチラと映り込む。彼とはもう別れて1ヶ月以上が経っている。たった一瞬だけとは言え、顔を見るのはそのとき以来。あたしは座席に深く座り直し、また台本に目を落とした。


 彼は、自分が降りる停留所が近付くと、席を立って乗降口まで歩いて来た。そしてあたしの横に立ち、そっと言葉を掛けて来た。

「お前、その髪の方がずっと良いよ。」

あたしは相槌を打とうと顔を上げ、彼を見上げる。彼は視線をバスのフロントガラスに向けたまま、言葉を続ける。

「お前らしいよ、おれといたときより、ずっと」

 バスの乗降口が音を立てて開き、彼は定期を運転手に見せて、黙って降りて行った。


 何も変わってなんかいないはずだった。だけど、あたしは目頭が熱くなって、思わず顔を下に向けた。何も見えない。ただ彼の言葉が繰り返される。お前らしいよ、おれといたときより、ずっと。


 あたしはどうして、「彼の嫌なショート」にしたの?

 当時あたしはまだ中学2年生で、バレー部の準レギュラーをして青アザを作りながら練習していた。毎日が、授業と部活とほんの少しの遊びだけで満たされていた頃だった。


 あたしの4つ上の姉はその頃、高校3年生だった。高校に行って、週に3日予備校に通い、大学進学を目指していた。あたしの知る限り、姉の成績は学校内で中の上レベルで、志望する大学は油断しなければ十分に合格できる程度のものだった。


 夏休みのある日、あたしはいつものように部活の練習を終えて、帰り道にあるサーティーワンアイスクリームで友達2人とチョコチップミントのアイスを食べていた。4人が向かい合って座れるソファの、あたしは通路側に、出入口の方に向かって座っていた。前に座っていた友達が、手についたアイスを紙ナプキンで拭き取ろうとしたとき、ふと出入口の向こう側を歩く女性に、あたしは眼を引かれた。その女性は、少し高いヒールのついたミュールを履き、サテンの膝丈のスカートをまとい、少し化粧が濃かった。何だかアンバランスな格好だった。あたしは瞬きをして、視線を向かいに座った友達に移し、そして今の女性が姉だったことに気付いた。


 店内の時計は17時半を指そうとしていた。姉は今、夏期講習で予備校に行っているはずだった。とてもよく似た女性だったのだ、と思おうとした。だって姉はあんな格好なんてしない。だけど本能的に分かっていた、あれは間違いなく姉だった。


 その日、姉の帰宅はいつもと同じ21時半だった。帰って来た姉は、いつものようにジーンズを履き、アディダスのスニーカーで、もちろん化粧なんてしていなかった。狐につままれたという状況は、きっとこういうときのためにあるのだろう、と、あたしは姉が部屋に入って行くのを見ながら思った。結局、誰にもそのことは言えなかった。