独居老人二年目で、正月に孫達10人が来る準備が半端ない。まだ障子張りや大掃除も出来ていない。ローストビーフと、黒豆煮と、お雑煮、の準備だけはしておこう。

でも寒い階下には足が向かず、コーヒーとヨーグルトとくだものの朝食後は、やはり、好きな机の前に座ることになってしまう。

15冊くらいの積ん読があるが、すぐ手にしてしまうのは、福沢諭吉が、いかに日本語の変革改革に取り組んだかを知り尽くしている、荒俣宏という人の「福翁夢中伝」。前から、福翁自伝は、大好きな本で、何度も読み返した本だったが、この夢中伝、は、人の人生終わりになれば、過去のことは皆夢のよう、という言い古された言葉を、使って、縦横にポリフォニーの手法をつかう読み応えのあるもの。

子供の頃の諭吉が括弧で登場して、【影響を受けたの母お順であり、父百助ではない、】と語り出したりする。

まだ読み出したばかりだが、暮れから正月、楽しみが増えた。

この老骨自身を振り返ってもすぐ思い出される言葉がある。

「人はねえ、いいかいおまえさん、みんな平等なんだよ、封建身分固定制の下では、下級武士は雨が降っていても、上司が来れば、跪いて、道の端で正座していなければならなかった。1500名の豊前中津奥平藩の最下級武士だった諭吉一家にとっては封建身分制は親の敵。」

この精神がこの老骨の中にも流れ込んで動かない。

勤務中の小学校を今年限りで首になったのも、同じ階級身分制の校長という帽子をかぶった権威主義の権化に、あなたのいうことはおかしい、と僕が言い放ったことが原因だった。最高権力者の彼は、まさか、最下級武士と同じ時間講師という半人間的身分のものから、あなた、といわれるとは想像もしていなかった。ヤクザみたいな口調で大声を上げて、老骨をにらみつけた。来期からは来なくていい。はい。

この老骨のかたくなな平等主義、自由主義は、その大半が福沢諭吉の全集をあちこち読む時間が長かったからだと思っている。

その最たるものが、福翁自伝。もちろん学問のすゝめも痛快小説のようで楽しいが、自伝はすごい本。

さて、部屋の温度も上がってきたから、下に降りて、昨日こしらえておいたローストビーフの出来映えを試食しようか。

そうだ、大掃除もせねば。障子張りもせねば。

静かな、静かな、暮れの時が過ぎ去っていく。まいっか。