ふたつのクラスを教えていると、その違いが際立って見えてくる。

一つの方は、担任がニヤニヤしているだけで、何も、反撃をくらうかもしれない生徒を導こうとはしない。教室の後ろの方には、授業支援の先生が立っている。何か事件が起きないかと、校長が派遣するのだ。どうしようもない生徒が、3人いて、6年生であるにもかかわらず、自制心が全くない。テキストもノートも机にはない。クロームブックとまんがだけ。

それでいいじゃないと、生徒は思っている。授業が始まるときにすべきことが、習慣化されていない。何をしても担任は微笑をたたえているだけだから。それでは授業が受けられないのだ、ということがその問題児には分からない。繰り返し担任が毎日の授業で、静かに集中して勉強に取り組むことを丁寧に指導しなければ、荒馬のような、野生馬のような子供が、静かに課題に取り組むということを覚えるはずがない。成長す自分を客観化できることだ。言葉遣いも、担任が教えていかなければ、ひどい言葉遣いが直らない。こういうときはこういう、と担任がくりかえし毎日教えていかなければ、子供は覚えないのだ。微笑先生は何もしないし、何も言わない。

静かにしなさい、と僕が言っても、隣や後ろとおしゃべりしてはいけないと諭しても、週2回来るだけの教師の言葉は彼等の頭の上を素通りするだけ。

一方、もうひとつのクラスの担任は、辛抱強く、長い時間をかけて、それこそ2年、3年、と長い時間をかけて、静かに勉強に取り組む姿勢を大きな声を出して教えてきた。

卒業をひかえて、このふたクラスの生徒の授業中の振る舞いや言葉遣いはまったく違っている。大人と、悪ガキ。

担任のねばりづよい指導があるかないか。習慣化された言動になっているかどうか。すべて、担任の努力、忍耐力、力量にかかっている。

今年は特にこの学校のこの二つのクラスの、際だった違いが、一つの教訓を与えている。子供の成長にとって、低学年の時から、担任が、粘り強く、辛抱して、ことあるごとに、生徒達がどう発言し、どう行動し、どう自分を抑えるかを具体的に指導することだ。これができないにやにや微笑先生のクラスの生徒は、ひどい。訓練も指導もしつけもうけないで、何も身につかないまま中学に入る。

担任の微笑には、もちろん、あきらめ、があるのは間違いない。唇からは、何をやっても意味がない、と投げてしまっているのだ。

管理職という名の生殺与奪賢者は、ことあるごとに、担任の言動を規制し、警告し続ける。服務規程というがんじがらめの拘束を管理職達は伝えることで給与と、地位をもらっている。だから、警告し、注意する、これだけが彼等のあたまにある。担任はやりきれないだろう。それは分かる。

でも、教師でいる限りは、管理職の警告や脅しに負けないで、その瀬戸際で、何とか踏ん張って、荒くれ者達を一人前の人間に変えるべく、まいにち、こうするのがいい、こういうことばをつかうのがいい、そうするよりこうするのがいい、と繰り返し教えていかねばならないのだ。

公立小中の教員になり手がないのは、重労働だからではけっしてない。服務規程と、生徒の荒くれた精神状態の野放図、との板挟みで、どうしようもなく孤立した教師が増えたのだ。それが世の中に知られ始めたのだ。重労働薄給だからではない。