高校の教師をしていた頃、その初年度からスキー教室の担当をいきなり任されて、何にも出来ないままに、先輩のするのを見よう見まねして、板をはいて、生徒の引率や、山奥への大会運営のお手伝いなどと、冬山に出かけていった。

老骨の身となって、今、これらの名前がテレビや新聞に出ると、にわかに、あれこれと恥ずかしい思い出がよみがえる。

何十年も埋もれていた時間が、急に生き返ってくる。

燕温泉は、僕がまだ、板はもちろん、スキーウエアとか、冬用の服さえも持っていなかった新人教師の時、蔵王のユートピアゲレンデの支配人だった、光哉さんが、しぇんしぇこれかすっから、と、まっかな冬用のジャケットを貸してくれて、生徒を引率して、スラロームの関東大会に燕温泉に行った。一人の生徒を引率していった。ひなびた温泉だった。

生徒は、僕がやっとこさゲレンデ脇に立っていたところでころんでしまった。いや、転倒してしまった。僕は不思議に、早く立って、ゴールして、とさけんでいた。適切かどうかなどとは考えもしなかったし、とっさに出た言葉だった。後で、全国大会に出たこの生徒は、大鰐温泉で、三色旗をもって行進した。父兄が、青森までの飛行機を予約してくれて、一人で僕は土曜日午後の便に乗っていったっけ。

すこしは滑れなくちゃと言われて、祝日と土曜日をつないで、数人の人と、湯田中から入っていくスキーリゾートに出かけた。そのときは、スキー場ではぐれて、なかなか宿に帰れず、途方に暮れていた夕闇の中、パトロールの雪上車に救われて、宿にたどり着いた。愚かで、若くて、楽しかった。

蔵王には、100人くらいの生徒を連れて、スキー教室を引率した。先輩先生が、業者を入れないでやれというので、予定表から、予算決算、イントラなどの手配の一切を一人でやり、5泊する蔵王温泉の樹氷原ロッジとトドマツヒュッテに宿泊する生徒の面倒をみた。引率の先生方全員でも、5人くらいだった。若い僕が、いっさいの下働きをした。スキーをする暇など無く、後輩の生物の小林が赴任してくれてからようやっと、スキーをやり始めた。

百万人ゲレンデを、朝一番に、一人で滑ったときの快感は、今でも忘れられない。光哉さん、は、みつや、38,とだじゃれで、壁に命名したのさ、と言っていたが、その真っ逆さまに落ちるように見える壁は、僕には絶対に下りられなかった。同行したスキー部の連中は、いきなり一年からイントラに連れられて、無理に、下ろされていたっけ。懺悔坂も、震えながら、僕は初心者の列の後についた。

朝の食事は、まだ、凍っていたりしたし、ずんだ餅や玉こんにゃくやを買い出しに行ったり。診療所にお土産を持って挨拶に行ったり。

夜は、生徒が寝静まった後、深夜に、汚れた風呂に入って、支配人と、これで鋭気をもらえるね、と笑ったり。

古い温泉場と、スキーが僕に与えてくれた、思い出の数々は、本当に、ゆかいなものばかりだ。今でも心がぽかぽかする。