やめておけばよかった。ついつい、見てしまった。アベマTVで、将棋、順位戦、B2クラスの、初戦。ナイスガイの勇気が、今をときめく、藤井聡太が2冠をとる直前に、聡太7段と、壮絶な戦いをした。午後早い時間から、夜の11時半頃まで、見とれて、見惚れて、見てしまった。仕方ないではないか。こんなドラマを見せられてしまっては。

興奮が止まらない。布団に入り、エアコンをガツンガツンに回したが、眠気が来ない。深更、起き出してこれを書いている。

佐々木勇気は、なんとも魅力的ないい男だ。誠実で、負けん気で、一本気で、気概があって、勝負所になると、膝を痛いほどにバンバンたたいて自分を鼓舞する。周りの年寄り棋士が、何事かと振り向く。勇気は、聡太がデビューした頃から、彼のの強さを認めていた。今夜は、画面で、コンピューターが、16手で詰むと表示する途端に、(本人には見えないが、)自分で自分の負け詰みに気づいて、そこで負けましたと頭を深く下げた。16手もまだあるのに。途中で聡太が間違えるかもしれないのに。少女のような柔らかいつややかな声で、大きな目を輝かせて、感想戦をしていた。愉しそうに敗戦棋譜をたどっていた。すがすがしい若者だ。好漢。

起き出してきて、こうして、胸を去来する36年間の私立女子高校での英語教師人生を、振り返りながら、自分を厳しく採点して、いい授業をしているなあ、だめだなあ、だらしいなあ、などとかんがえたことがなかったことに今気づく。公立小学校の5年生と6年生に英語を教え始めて4ヶ月。コロナ禍で、マスク越しに、ペアワークも出来ずに、ひどいできの教科書と録音を使いながら、いい授業が出来ないなあと、毎日ぼやき続けている。現役時代の給料のほぼ5分の一しか報酬がなくても、国民の休日でさえ時間講師は出勤して、誰もいない学校で、何かをしていなければならないという、悪辣なシステムを動かしている公立校であっても、報酬をもらっているのだから、自分は自分自身に期待しているのに、上からは、英語を嫌いにさせずに中学校に送り出してくれればいいとか、指導要領に書かれてある目標がクリアできればいいとか、あまり小学生の英語技能の向上に関心を持っている人たちの発言とは思えないような言葉がはじめにあっただけ。でも、自分としては、孫娘と、最後の授業の日々を、人生最後の職務責任と思いなして、最高の授業をしたいと念願している。それがどんな基準になるのか。生徒の評価。父兄の評価。同僚教師の評価。そのどれもが得られない。仕組みが作られていないのだ。教員評価をだれもしないのだ。残るは、授業中の生徒の表情か、振り返りノートのたどたどしい一言二言。これが情けない。はっきりと自分の考えを書ける生徒は、一人か二人。日本語さえおぼつかない生徒ばかりだ。

人生最後のこの時期、関節痛と、長い間の友人痛風ちゃんに苦しめられながらも、いい思い出を残したいが、それより、一人一人の生徒が、家に帰り、英語っていいなあ、と思ってくれるかどうか、それだけが僕の基準だ。浮かれて愉しかったなあとつぶやくだけなんて全く考えてもいない。フィンランドも、インドも、ギリシャも、僕の知っている初等中等学校での成功を収めている英語教育は、愉しければいいなどというところは一つもない。

だから、僕の内心の基準で、ひそかに、これは教えておこうということを授業内容に盛り込んでしまう。英語のノートさえ学校は持たせないという状況で、さあ、どうする。まだ始まったばかりだから、今年でお払い箱になるなんということがないように祈りながら、来年2年目でたくさんの改良策を施したいと今から、宿題をたくさん自分に課している。