腕時計論をもう一回 | Carlos Danger Is Here

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ヘイナーウ!

俺、腕時計に入れ込んだ当初は、かっこよくて、使いやすくて、ビッグデートとかパワーリザーブインディケーターとかのコンプリケーションがついた時計が欲しい、なんて言っていた。


そこから考えを深化させて、一年くらい前にこのブログで短い腕時計論を書いた。ぶっちゃけた論旨は、腕時計においては審美性と実用性は反比例の関係にある(美しい時計は、あまり実用に適さない)。で、腕時計ファンたるものは、審美性を優先してコレクションを築け、てなもの。


審美性という言葉で自分がなにを意味したのか今ではよく判らないんだけど、超絶的な技巧で美しく造形されたケースやダイアル、あるいはスゴいコンプリケーション(リピーターとかトゥールビヨン)のことを指したのだと思う。


ま、この意見、本質的にはおかしくはないと思う。


でも実際的には、この意見は俺のようなアッパーミドルの労働者には、意味がない。


俺の考える、審美性すぐれる腕時計を買おうとしたら、一つが最低の線で300万円はするだろう。


そんなの、ボンボン買っている金、フツーの人は持っていない。俺だって、持っていない。


腕時計収集は、超金持ち(「CHRONOS」に出てくる、FPジュルヌを何十本も持っているような人)だけの趣味、ということになってしまう。


つーことは、フツーの人が時計を収集する上では、別の基準が存在する、ということになる。


それはなにかということですが、平たく言ってしまうと、使いやすさと、コスパ(有用なコンプリケーションが値段のわりにたくさんついている)ということなのかも。


ゴチャゴチャ考えて、結局スタート地点に戻ってしまった、という印象がある。


この話、続く。