渋沢栄一の「人生観」
人として生をこの世に享けた以上、そこに何らかの目的がなくてはならない。そして、その目的の如何によってその人生観も変わってくるのである。その様々な人生観も、結局二つに大別される。すなわち自己の存在を客観的に観る人生観と主観的に観る人生観である。
客観的というのは、自己の存在は第二としてまず社会あることを思い、社会のためには自己を犠牲にすることも憚らぬというまでに、自己を没却してかかるものである。すなわち、他人や社会を主とし、自己のことを従と心得る。
これが客観的人生観である。
主観的というのは、何事も自分本位にして、自己あるを知って、しかる後に社会あることを認めるものであり、自己のために社会を犠牲にしても構わぬというのである。すなわち、自己を主とし、他人や社会を従と心得る。これが主観的人生観である。
私は、客観派に与して主観派をば排斥するものである。
孔子の教えに「仁者は己を立たんと欲してまず人を立て、己達せんと欲してはまず人を達す」とあるが、社会のこと人生のことは、すべてこうでなくてはならない。
孔子はまた、「克己復礼」と説いた。自己のわがままな心に打ち勝って、礼に従っていきさえすれば世の中に間違いはないという教えである。孔子は自己の存在は社会のために図るところにあるとする客観論者であり、「己に克ちて礼に復れば天下仁に帰す」とまで言っている。また門人の曾子は孔子の道を解釈して「夫子の道は忠恕のみ」と言った。いうまでもなく「忠」とは君に対し、あるいは他人に対して忠実との意で、「恕」とは思い遣りが厚く、人のため社会のためになれということである。
要するに「仁義道徳」の念なきものは、世に処して遂に敗者となるのである。孔子のいわゆる「忠恕」が人生において如何に必要なものであるか。二千五百年前の人情も今日の人情も、人情において変わりはない。ゆえに何人も人生を観るに、孔子の心をもって心とすれば過誤はないのである。さもなければ間違った結果に陥り、悔いが残ることになる。
論語は私にとってのバイブルである。
そしてその奉ずるところは「仁義道徳」であり、人生に存在する意義は、自己のためではなく、社会のため他人のためである。五十年来この心をもって心となし、人生を観る眼は変わっていない。