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中国共産党の元スパイが激白「俺は日本人情報源をこうして籠絡した」

2/2(土) 12:30配信

クーリエ・ジャポン

中国共産党の元スパイが激白「俺は日本人情報源をこうして籠絡した」

史明(しめい Su Beng)本名・施朝暉(シー・ディアウフイ)、 1918年台湾台北出身。戦前、中国共産党の情報工作員としてスパイ活動に従事するが、党の実態に絶望し中国から台湾まで脱走。1950年に「台湾独立革命武装隊」を立ち上げ蒋介石暗殺を計画するも…

 

 

「台湾独立運動のゴッドファーザー」と呼ばれ、蔡英文総統をして「私の最も重要な精神的支柱」と言わしめる台湾の老革命家、史明(しめい)。御年100歳にして今も台湾独立運動の先頭をひた走る彼が、中国共産党の工作員として暗躍した過去からファーウェイのスパイ疑惑についてまで縦横に語る!


──史明先生は太平洋戦争開戦の翌1942年、自ら中国大陸に渡り、中国共産党の情報工作員(スパイ)となりました。当時の中国共産党の印象は?

すでに毛沢東が、唯一神に等しい最高権威として揺るぎない存在だった。毛は1935年の党中央政治局拡大会議(遵義会議)で党支配者としての地位を固めていて、俺が共産党に合流したころは反対派の粛清(整風運動)を推し進めている真っ最中だった。

俺は上海と江蘇省蘇州を基盤に情報工作をしていたが、陝西省延安にいる毛沢東に裁可を仰ぐ最短ルートも確立していた。上司の命令は毛の命令。毛の命令に逆らうことは許されず、そこに私情を挟む余地はなく、情報工作はそういうものだと頭に叩き込まれたから、任務に疑問を感じるようなことはなかった。


──先生の主要な任務は、日本軍や在留邦人の動向をリアルタイムで把握する諜報活動でした。

俺より先に上海入りしていた親父が日本海軍の知遇を得ていたから、その縁を使って俺も海軍人脈に入り込み、ネットワークを築いていったんだ。

上海を拠点にしていた第三艦隊(のち第一遣支艦隊、揚子江方面根拠地隊)や上海海軍特別陸戦隊の将官たちの中でも、特に親しかったのは、支那方面艦隊参謀副長兼上海在勤海軍武官だった湊慶譲少将だ。当時、極秘中の極秘事項だったフィリピン・レイテ沖海戦の大敗や沖縄戦の悲劇などについても、俺は民間人としては誰よりも早く湊の口から情報を得ている。

変わったところでは海軍の要請を受け、1938年から終戦まで日本海軍の支配下にあった福建省廈門(アモイ)で治安維持を名目に、住民が所持する拳銃の回収作業なんかもやった。日本の軍人が威圧的に命令するのとは違い、俺は中国語やアモイの人たちが話す閩南語で語りかけたから、この任務は存外うまくいったものだ。


──ですが史明先生は当時、まだ20代で若かった。日本の軍人たちに何者かと怪しまれることはなかったのですか。

それはなかったね。俺は「日本から来た、人懐っこいインテリ留学生」という役割を一分のスキも見せずに演じていた。しかも俺の日本語は、イントネーションの微妙なニュアンスも日本人のそれと寸分違わなかったし、同世代の日本人以上に、歌舞伎や能、日本舞踊、神社仏閣などに親しんでいたことも大きい。教養ある将校たちは、不世出の歌舞伎俳優・六代目尾上菊五郎の艶姿や、世界的なプリマドンナ三浦環の美声について語り合える俺を面白いやつと思い、積極的にメシや酒の相手に誘ってきたんだよ。

上海の多倫路に、今も「薛公館」の名で残されている邸宅は戦時中、日本が海軍武官の公邸として接収していた。俺はよく、公邸で開かれるスキヤキ宴会の相伴に与ったものだ。満腹になれば決まって妓楼へ繰り出すのだが、仲の悪い海軍と陸軍の将校が互いに俺を馴染みの店へ引っ張って行こうとして口論になることすらあったよ。滑稽だろう。

日本軍にしてみれば、組織のしがらみが無い俺から、中国の世情や、中国人の日本に対する印象などを聞き出すメリットもあったはずだ。それにどこの国の軍隊でも大なり小なり、民間人を使った情報収集活動はしていたからね。

連中は結局、この俺が日本の台湾植民統治を憎み、台湾解放を願いながら、日本軍の情報を中国共産党に流す使命を帯びた台湾人だったとは、これっぽっちも気付かずにいたわけだ。

 

 

日本の高官と「一体感」を共有する方法

 

──情報源の日本人たちとうまく付き合っていけた秘訣は?

酒と女、これに尽きる。

カフェーの女給を冷やかしながらの一杯もいいが、酒場で浴びるように飲みつつ喧々諤々の議論に打ち興じたあとは決まって、妓楼に上がって女を抱いたものだ。俺がおごられることもあれば、俺が大盤振る舞いすることもあった。酒と女というのは不思議なものだ。たとえ相手が地位の高い将官や企業幹部であっても奇妙な「一体感」を共有でき、俺のような若造にさえ腹を割るようになるのだから。

俺は、情報をつかむ目的で女を抱いたことはなかったが、スパイと目を付けた相手に女を充てがい、女に情報を喋らせたことは何度もあるよ。


──女を抱かせる、のですか?

当時、台北出身の張という男が日本の陸軍で情報工作を担当していた。

張は台北州立工業学校(現・国立台北科技大学)を卒業したあと満州に渡り、台湾出身者として唯一、関東軍情報部に工作員として雇用されるのだが、ほどなく満州から俺の住む蘇州に単身赴任したことを知り、俺はすかさず日本人としてヤツに近付いた。陸軍の支那派遣軍は約100万、上海や蘇州地域だけでも13万の兵を展開していたから、張が貴重な情報源なのは言うまでもない。

張の情報をもとに、俺は陸軍第六派遣軍司令官だった岡村寧次大将が支那派遣軍総司令官に昇格する情報をいち早くつかみ、岡村本人にも接触している。

上海は戦時中も「百楽門大飯店舞庁(パラマウント)」「仙楽斯舞宮(シロス)」「大都会花園舞庁(メトロポール・ガーデン)」といった高級ダンスホールが連夜の大賑わいで、俺は頻繁に張を連れ出してはしこたま飲ませ、懇意のダンスガールとペアで踊らせた。張はスパイのくせに酒と女が絡めばペラペラ何でもしゃべる脇の甘さがあり、俺は大いにヤツを活用させてもらったよ。

張は戦後、台湾に帰って蒋経国の情報機関に入り、大学生の思想や教育の監視業務に従事する。定年後は国営の彰化銀行で幹部を務め、安泰の「上がり」だったらしい。俺たちは東京と台北で再会しているが、ヤツにとって俺は最後まで「上海時代の飲み友達」くらいの認識だったろう。

とはいっても「確実にスパイだ」と断定できる相手と直に接触したことは、張を含め2~3人程度だったろうか。


──のちに台湾総統となる蒋経国は戦後、「総統府機要室資料組(政治行動委員会)秘書長」として、中国国民党、行政院(内閣)、国軍の全情報工作機関を一手に支配する特務機関のボスに君臨します。

スパイだった俺は一転、蒋経国のスパイから狙われる対象になった。

第二次国共内戦のさなかに中国共産党から脱走し、台湾に帰った俺は、日本に代わって新たな台湾支配者となった蒋介石の暗殺を企てたからだ。ただその動きは暗殺の実行前に国民党の特務に嗅ぎつけられてね、俺は寸でのところで逮捕の手を逃れ、台湾全土を逃亡した挙げ句、バナナ輸送船で密航して日本に亡命したんだ。

それからの俺は、日本にいようが台湾にいようが常に国民党の特務の影を感じながら暮らすことになった。

ただ、さすがの蒋経国も、海外在住の俺を強引に逮捕したり拉致したりするわけにはいかない。だから特務は「史明はアカ(共産党員)だ」といったデマを流して、俺の講演会や勉強会を妨害し、俺が在日・在米台湾人コミュニティから孤立するよう仕向けたりもした。

俺は1993年に台湾へ本帰国するまでの40年間を日本で暮らしたが、日本のインテリジェンスも積極的に俺への接触を図ったことは話してもいいだろう。

公安調査庁初代長官の藤井五一郎、内閣安全保障室(現・内閣官房国家安全保障局)初代室長の佐々淳行らは、俺が東京池袋で経営する中華料理店に自らやって来て、日本の立場でいかにして台湾や中国を俯瞰すべきかといった観点から意見を求めて来た。

俺は台湾の地下工作だけじゃなく日本赤軍とも積極的に関わっていたから、公安の監視対象だったことは間違いない。だが彼らは常に紳士的・友好的で、俺も日本のためになる情報の提供には協力を惜しまなかったよ。

 

日中バイリンガル人材が狙われている

 

──今、通信機器世界大手の中国・華為技術(ファーウェイ)について、世界の情報機関が「中国共産党、人民解放軍と密接な関係にあり、情報漏洩が懸念される」と指摘し、政府調達からファーウェイ製品を排除する動きを強めています。

ファーウェイが解放軍や国家安全部と連携しているのは疑いようもない。カナダ当局に逮捕された孟晩舟・最高財務責任者(CFO)が8通以上の「正式なパスポート」を所持していた点からも、彼女が中国政府の諜報任務を負っていることは明白だ。


中国共産党の本質は世界の覇権を掌握するために、武力も辞さないこと。それは毛沢東時代からまったく変わっていない。近年の傾向としては、自前でのスパイ養成だけでなく、近隣諸国からの「スカウト」に注力している点が挙げられよう。

2004年、日本の上海総領事館に勤務する通信担当事務官が自殺した事件を憶えているか? あれは、中国人女性に入れあげていた事務官がスパイ候補として解放軍に目を付けられ、奴らから中国のスパイになるよう迫られる圧力と良心の呵責に耐えられなくなって起きた悲劇だ。

特に今、中国共産党は台湾人の男に目を付けている。日本語と中国語をともに解する俺のような人材だ。

台湾と中国は依然、台湾独立や台湾の立ち位置をめぐって政治的緊張の中にあるが、中国は蔡英文政権を目の敵にする一方で、台湾企業の中国投資や台湾人の中国留学・就職・研究に対する優遇策を相次いで打ち出し、台湾人材の引き込みに大金を投じている。

困ったことに、国民党独裁政権時代の記憶がない若者たちは、上の世代に比べ中国に対する抵抗感が薄い。台湾人材を情報工作員に勧誘する巧みな動きはすでに強まっているだろう。


──スパイの心得を挙げるとすれば。

特別なものはないよ。

・自身のプロフィールを口外しない
・約束を破らない
・命令に逆らわない
・タテの指揮系統を重んじヨコ(同じ組織のスパイ同士)で接触しない
・把握した情報は口外しない
・1人行動を旨としできるだけ群れない
・平均的な髪型・服装を心掛け目立たない


どれも厳格なスパイ組織に身を置く者にとっては、基本的なことばかりだ。

コレ、という獲物に目を付けたら積極的に近付いて友達になり、相手から完全に信用されることもスパイの大前提だな。相手が海軍の将校だろうが陸軍のスパイだった張だろうがそれは同じだ。

スパイっていうのはつくづく因果な稼業だと思う。100歳まで生きながらえ、隠し立てすることなど何もないようなこの俺にさえ、スパイ時代に入手し、墓まで持っていくと固く誓った秘密があるのだからな。


(取材/田中淳 2019年1月19日、台湾の史明氏自邸にて)